「この恐ろしい地獄」フアン・カルロス・オネッティ(『別れ』収録)

 

水声社の〈フィクションのエルドラード〉から寺尾隆吉訳で出版されている、オネッティの『別れ』を最寄りの書店で衝動的に買った。ウルグアイを代表する作家のひとりらしい。初めて読む。

まずは、100ページ弱の表題作ではなく、併録されている20ページほどの短編「この恐ろしい地獄」を読んだ。バルガス・リョサがべた褒めした作品だそうで。

 

・この恐ろしい地獄
元カノから定期的に写真が送られてきて怖い!という話。
文章がいちいち凝っている。凝ってないシンプルな文を探すほうが難しいくらい。リチャード・パワーズみたいな感じ。

p.102
オルロフ写真館で写真を引き伸ばすときに涙腺に光を入れられたせいで、その顔には、決然と幸福ばかり追い求める意思を隠すことで人生全体を愛するような、そんな奇妙な茶番が浮かび上がっていた。

どんな顔やねーん!

 

p.106
実際には彼は、それまで女を自分のものにしたことは一度もなかったし、本当のところはあの時も、成り行き上そうなっただけの状況を自分が作り出したと思い込んでいたにすぎなかった。二人は一心同体ではなく、グラシア・セサルはあくまでリッソの被造物であり、肺に入る空気、麦畑に訪れる冬のように、自分から独立した存在でなければ意味はなかったのだ。

 

p.111
生温かくも冷たくもある風に揺られていた夜、今や一人になった彼は、冬と春の間に引かれた不安定な線の上をゆっくりと歩いていた。そのわずか十ブロックか十二ブロックの間に彼は、寄る辺ない自分の身の上を噛みしめ、二人で過ごした狂乱の日々は、未来もなければ何の媒介にもならない、そんな偉大さを秘めていたことを痛感した。

「冬と春の間に引かれた不安定な線の上をゆっくりと歩いていた」がカッコいい。
「未来もなければ何の媒介にもならない」の後にふつう予想されるのは「偉大ではない」だと思うんだけど、そこをあえて裏切ってくる。こういう、最後まで読むと裏切られて結局何が言いたいのかわからない文がよくある。単なる逆張りならダサいんだけど、オネッティは上手いんだよなぁ。

 

p.114
あれは春の初めのじめじめした時期のことだったが、新聞社やカフェから歩いて下宿屋へ帰りながらリッソは、雨に名前をつけ、火で焙るように自分の苦しみを焚きつけては、他人事のようにじっくりと不審の目でこれを詮索し、したこともない愛の行為を想像しては、躍起になってすぐ同じ場面をまた思い起こした。

「雨に名前をつけ」ってめちゃかっこよくない?しかも「これ読みどころですよ〜かっこいい表現ですよ〜」という露骨な感じではなく、文の中にふと差し挟まって、何事もなかったように文が続くところがいっそうカッコいい。いいなぁ、こういう文書けるようになりたいなぁ。

 

pp.114-115
男を物色して一人だけ選び、一緒にカメラの前でポーズを取るグラシアと、何ヶ月か前まで、服や会話や化粧を工夫し、子供を可愛がることで、落胆にまみれた男の気をひいていた娘、女に差し出すことのできるものといえば驚くほど忠実な無理解のみというこの安月給の男に近づいてきたあの娘は、同じ一人の女なのだ。

「女に差し出すことのできるものといえば驚くほど忠実な無理解のみというこの安月給の男」って言い回し凄く好き。

 

p.116
「男と男の話」諦めたようにランサは切り出した。「というより、生きているというあやふやな幸せ以外に何の幸せもなくなった老人の戯言だと思って聞いてください。(中略)毎朝、自分がまだ生きていることがわかっても、悲しくもなければ感謝の気持ちも湧きません。…(後略)」

この老人の語りすきだなぁ。

 

p.118
だが、何がわかるのか彼女にはわかっていなかったし、当のリッソとて、皿の縁に角を一つ乗せて正面から彼を直視する封筒を見つめながら、どうあがいても何も理解することはできなかった。

「皿の縁に角を一つ乗せて正面から彼を直視する封筒」という情景描写がバチバチに決まっててカッコよすぎ。震えた。

 

p.118
白んだ窓から目を離すことなく、彼は、ゆっくりと巧みに、余計な物音を立てないように胸の上で写真を引き裂いた。新しい空気の流れを感じて、少年時代に嗅いだことのある香りを思い出し、部屋を満たすこの懐かしい空気がよろよろと通りや剥き出しの建物へ向かって流れ出していくような、そして、その空気が明日から、明日から数日間、彼を守ろうと待っていてくれるような思いに浸った。

いや〜やばすぎ。上の「皿の縁に角を一つ乗せて正面から彼を直視する封筒」もそうだけど、何気ない動作や何気ない事物の描写が、その文章・物語の流れのなかに適切に配置されたときに読み手に豊かな感情を喚起させる力を得ることがあって、それをオネッティは職人的に使いこなしている、という感じがする。胸の上でゆっくり写真を引き裂く、という行為から、「新しい空気の流れ」につながる。これはまだ素朴な次元にとどまっているのが良い。だって、たしかに写真を引き裂いたらその影響で空気はわずかに動くだろう、という素朴な共感が持てるのだから。そこから「少年時代に嗅いだことのある香り…」へと次第に文学的な飛躍をしていく過程が鮮やかすぎる。マジでこれ読んだときびっくりした。

 

ーーー読了ーーー

 

ヤンデレ文学…というには耽美かつ婉曲的すぎる

男女関係と写真・カメラのファインダーにまつわる不穏な短編という点ではコルタサル「悪魔の涎」に少し似ている。

写真の内容を直接書かずにこちらの想像を喚起させるのはボラーニョ「はるかな星」っぽい。

 

マジで文章がうますぎる。上手いというか格好良い。超好み。読みにくいけど。コルタサルから日常に潜む幻想的なオブセッションを除いて難解でスタイリッシュな文体を残した感じ。
→訳者あとがきにて、オネッティがコルタサルの「追い求める男」を読んで刺さりすぎて洗面室の鏡を割ったエピソードが紹介されていた。というか、本作を「絶対的傑作」と評したというバルガス・リョサのオネッティ論『フィクションへの旅』(2008年刊)めっちゃ読みたいんだけど。だれか訳してくれ〜〜(まずオネッティがマイナー過ぎるのはある)

 

「元カノからヤバい写真が送られてきて怖い」以外の筋をぜんぜん理解できていない。結局最後どうなったのか全くわからんが、文章が好みすぎるので満足してしまっている。
「結局どういうストーリー、どんなオチなのか全くわからないけど文章が良すぎて満足」なのはまさにコルタサルを読むときと同じだ。

 

こういう小説を読むと「小説ってこんなに凄いんだなぁ。こんなに自由ではるか遠くまで行けるんだなぁ」と感動する。
実験小説とは違う。実験小説みたいに形式的にアクロバティックなことをやらずとも、本当に文章の内容だけでこんな想像もしていなかった地点まで到達できるんだ、という感動。こういう小説に出会うために自分は海外文学を読んでいるんだなぁ、という気がする。


まだこの本『別れ』には短編と中編(表題作)が1つずつ残ってるので楽しみ。

 

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