『最愛の子ども』松浦理英子

 

 

 


知り合いから「松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』は大傑作だから是非とも読んでほしい」と薦められ、そのときちょうど出張をしていたので地域の本屋を探して入店した。それほど大きな書店ではなく、敷地面積の半分はCDやDVDに占められているような店だったのでそう都合よく並んではいないだろうと半ば諦めながら本棚を探していたところ、『ナチュラル・ウーマン』はないものの、『最愛の子ども』だけは売られていた。その店にある松浦理英子の本はこの一冊だけのようだった。そもそも松浦理英子についてほとんど何も知らないし、当然『最愛の子ども』なんて全く知らなかったわけだが、わざわざここまでチャリを漕いできたのだし、と思ってレジへ持っていった。(ちなみにルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』とマーガレット・アトウッド侍女の物語』も一緒に買った。女性作家が並んだのは偶然である)

 

読み始めてまず感じた率直な思いは「純文学とラノベの中間みたいな小説だなぁ」というものだ。これには私の純文学やラノベへの偏見が漏れ出ている上に、読んでいる本をいちいち「これは純文学か?」と問わずにはいられない恥ずべき読書態度が伺えるのだが、本当にこう思ってしまったのだから仕方がない。これは非難でも称賛でもなく、純粋な反応である。
わたしは純文学…というか文学を(勝手に)「語り手が読者にどれくらい媚を売っていないか」で判断している。(もちろん数ある判断基準のうちの1つではあるが。)逆に「読者(である私)に媚を売っている」換言すれば「読みやすい」小説はラノベに接近する、という意識である。


女子高生の親密で独特な生態系を扱っている本作は、純文学ほど語り手と読者に距離があるようには思えないが、かといってラノベほど語りが軽くもない、微妙なバランス感覚で成り立っているなぁと感じた。それが特に良いとも悪いとも思わないが、とにかくそう感じたことは事実なのでここに書き留めておく。

 

次に私が気になったのは、本小説の最大の特徴であるとも言えるであろう、「わたしたち」という一人称複数形の語りの形式についてである。私はありふれた一人称や三人称の語りには、小説を物語ることができてしまうという不可思議な事実への驚きや自覚が一切ないものが多く、怒るとまではいかないが名状しがたいモヤモヤを抱えたまま読むか、本を閉じることがしばしばある。逆に一人称複数など、それほど一般的ではない語りの形式には、前述の事実への目配せや問題意識の提示がされていることが多く、好ましい作品が多い。一人称複数の小説としてまず思い浮かぶのはアゴタ・クリストフ悪童日記』であり、またスティーブン・ミルハウザーの諸作品である。

 

『最愛の子ども』の「わたしたち」という語りの形式もまた、これらの名作に引けを取らないほど独特で魅力的な設定に基づいている。すなわち、ある高校のクラスの仲が良い3人を〈わたしたちのファミリー〉として疑似家族化し、彼女らの交流を観察し、ときには都合よく妄想し捏造しさえする、半透明なクラスメイト達の集合体としての「わたしたち」。「わたしたち」を構成する具体的な人物名は一切描写されず、3人と関わりのある複数名の女子たちが平等に混交して成り立っているものと考えられる。
この小説に感じたいちばんの面白さは、上で述べた「3人の行動や心情を都合よく妄想し捏造する」ことで物語が紡がれている形式である。

 

当人たちよりもわたしたちの方が面白がっているのかもしれない。わたしたちは、日夏と真汐が空穂の頬に唇をつける光景さえ見たことがあるような気がする。日夏が空穂の頬にキスすると、真汐も空穂の頭を引き寄せて髪の生えぎわに唇を持って行く。そんな場面を想像するだけで、わたしたちは痺れるような感覚に見舞われる。 p.32

 

このように、3人のエピソードが長々語られた後に「以上のことをわたしたちは妄想した」のように梯子を外す。梯子を外されるのは不快ではなく、むしろ小説を紡ぐ上で誠実な姿勢であると好ましく思う。私がメタフィクションを好きなのは、それが小説という虚構性に抗うための切実な方法論であるためであり、本作の語りもまた、3人の描写のどこまでが「わたしたち」の目の前で繰り広げられた「事実」であり、どこからが「わたしたち」の想像力の広がるままに語られた「虚構」なのかを曖昧にし、読者を混乱の只中に誘うことで、「『最愛の子ども』は小説という虚構である」という大枠の事実に必死に抗っているのだと私は読んだ。これも私にとって都合の良い妄想である。
ちなみに、こうした『最愛の子ども』の語りの形式はフローベールの『ボヴァリー夫人』にも少し似ていると知り合いから聞いたので近いうちに読んでみたい。

また、先日記事を書いたオネッティ「失われた花嫁」にはかなり近いかもしれない。あちらは観察対象に積極的に興味があるわけではなく、むしろ無視したり距離を置いたりする中で語られる悲痛を描いている点は異なるが。

 

〈わたしたちのファミリー〉の3人は、それぞれ日夏=〈パパ〉、真汐=〈ママ〉、そして空穂は〈王子様〉であり〈最愛の子ども〉であるという風に、「わたしたち」から家族になぞらえて消費される。
こうした疑似家族構造を了解し、3人それぞれの人物像がわかってきてから、私はどうしても、この3人を「シャニマス」のノクチルのメンバーに照らし合わせて見ることしかできなかった。


すなわち、日夏=浅倉透、真汐=樋口円香、空穂=福丸小糸 という対応である。市川雛菜に対応する人物はいない。
私はノクチルについて、幾つかイベントコミュを観た程度の知識しかないので、当然のことながら「いや全然違うだろ」という誹りを受ける可能性があることは承知している。承知しているが、それでも今の私には、『最愛の子ども』の3人はほとんどノクチルを描いているようにしか思えなかった。だから何というわけではないが。

 

私は、解説で村田沙耶香が述べていたような「家族」や「女」や「愛」などにまつわる純粋で切実な物語として本作を深く受容することはできない。文学を読む上で私にとってそれほど興味のある問題ではないためだ。(こうした態度がポリティカル・コレクトネスの観点から適切なものとは言えないことも承知している)

本作を絶賛する人たちの感想を読んでいると、わたしは本作をそこそこ楽しんで読んではいたものの、本作にわたしは「選ばれていない」、この物語をもっと価値観や人生の重要な位置に据え置ける人は他にいるんだなぁ、という寂しさをすこし感じる。(満足もしているが)


私は本文の大半を、もっとエンタメ的に、女子高生たちが幾ばくかの緊張を孕みながら互いに関わり合い場を共有している空気感を「ふ〜ん、ええやん」程度の低解像度で無責任な態度で楽しんだ。きらら系の日常漫画を読んでいるときと同じような心境であった。『ゆゆ式』みたいな。だから、大きな流れもなくずっとゆるゆるとこの小説が続いてほしいと願う気持ちもあったが、しかしながら「わたしたち」の語る虚構性を始めから誠実に提示している本作が、高校時代の有限性を隠蔽することなど絶対にしないことも分かっていたので、終盤はしんみりとした感動とともに物語を見送った。

 

読み終えてから振り返るに、私は本作のうち、3人の関係やエピソード自体にはそれほど感動も感心もしなかった。「ノクチルだなぁ」と思ってしまった時点でそれ以上は特に何も掘り下げる気力も関心もなかった。私が良いなぁと思うのは、3人の秘匿な関係そのものではなく、3人とそれ以外の「わたしたち」クラスメイトが場を共有して話したり盛り上がったりする場面であった。冒頭の、作文で職員室に呼び出された真汐を教室でダラダラ待っている雰囲気とか、終盤の、後夜祭で歌う曲を皆であーだこーだ話し合う場面の多幸感とか、そういった青春の1ページを鮮やかに描く筆致にいちばん魅力を感じた。クラス外の男子や苑子や教師やそれぞれの両親といった「わたしたち」の外部との関わりもしっかり描いてくれた点も良かった。


他に印象に残ったのは、最後で伏線回収される日夏の〈何かを踏みにじるステップ〉で、これはダンス関連の事柄がふいに挟まれると無条件で好きになってしまう自分の性癖によるものだ。


あと、上で書き忘れたが「わたしたち」による都合のいい語りというのは、オタク文化における二次創作論にも引きつけて考えることが出来ると雑に思うが、疲れたのでここでは深堀りしない。

 

次は『ナチュラル・ウーマン』を読む。

 

 

最愛の子ども (文春文庫)

最愛の子ども (文春文庫)

 

 

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私が愛読する以上のブログでは本作を「2018年百合総合部門優勝。どころか、2010年代のベストも堅い。」と絶賛している。