『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ

 

 

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 『笑いと忘却の書』を読もうと思ったきっかけはこのツイート

中期三作のうち唯一未読の本作は、偶然にも少し前に神戸三宮の古本屋で購入して積まれていた。『冗談』冒頭を読みかけの状態なのでやや気後れもするが読み始めた。

 

 


・第一部 失われた手紙

ザ・クンデラって感じ。めちゃくちゃ読みやすいんだよな〜。
政治的・思想的な話も多いのにスラスラ読める。1, 2ページごとに細かく章分けされているのもデカい。アレナスの長篇みたいな感じ

 

クンデラの小説の2大柱は、政治・哲学・文化論のような社会的/公的な要素と、セックスにまみれた男女間のラブロマンスという個人的/私的な要素だ。これらのバランス・混ぜ合わせ方が信じられないほど天才的。


政治の話ばかりでは小説として面白くならないからメロドラマを入れるとか、逆に浅薄な恋愛痴話ばかりでは文学的な重厚さが出ないから政治や思想の議論を盛り込むというように、どちらか一方が道具的に駆り出されているのではない。
両者が互いへと積極的に接近し、飲みこみ飲みこまれ合って「クンデラの小説」としか言いようがない芸術を形作る。

 

第1部を雑にまとめると、かつて革命闘争に燃えながら恋愛関係にあった二人──卑屈さから醜い女に愛情を求めてしまった黒歴史を消したがっている男ミレックと、元彼を裏切って体制側に着いたと思われているが実は彼のことしか頭にない醜いヤンデレ女ズデナの話。


冒頭にある、共産党指導者ゴットワルトの頭に載っている毛皮のトック帽──彼の側近だったが反逆者として写真からも歴史からも抹消されたクレメンティスが彼にあげたもの──というモチーフが、メインの話のさなかにくり返し喚起され、そのたびに深みを増していく。
こうした手法もクンデラの十八番だよなぁ

 

『不滅』で前景化する前の、作者自身が文中に積極的に顔を出して登場人物たちの「設定」や「真相」などについて語る手法も思い切り行使されている。普通に考えて、キャラクターの記号的な解釈を作者自身が作中でペラペラ喋ってしまうのは小説の自律性を損なうだけのはずなんだが、クンデラはそういう次元にない。この辺りをもっと分析して言語化できるようになりたい。

ジェンダー的にはかなり批判を免れない気がする。異性愛中心主義で、女性を典型的に客体化しているように思えるので。

 

 

・第二部 お母さん

ちょっとこれ……40ページほどの小編として完成度が高すぎる。
夫婦の父方の母と、二人の旧友の女性が同時に家に泊まることになる一夜。このまま演劇にできそうなほど「舞台」としてよく出来ている。

クンデラお馴染みの不倫するのに多くの女性にモテ続ける男(夫)カレル
結婚初期に気を抜いていたせいで、夫を糾弾する「上品な」女性という役割に押し込められてしまった妻マルケー
愛人カレルの策略によってマルケータの良き友人にもなった自称ラブハンターの女性エヴァ
昔夫婦と同居していた頃は嫌われていたが今では子供のように情けをかけられているカレルの"お母さん"
お母さんの古い友人で、カレルの幼少期に鮮烈な裸体のイメージを刻み込んだ美女ノラ夫人

 

第一部でクンデラジェンダー論に言及したが、ちょっとそう単純なものではないと思い知らされた。
エヴァは男性が女性を愛するようにしか女性を愛せない、つまり男性的なジェンダーロールを主体的に引き受けている人物で、友情と性欲しか抱かないため恋愛=結婚規範を解体できる位置にいる。
またエヴァマルケータの同性関係は、結婚して夫からの客体化を受けている女性が主体的な性を獲得する可能性の提示としても読める。

 

不倫、3P、おねショタ、レズビアンプレイ……性関係の密度が濃すぎる。
このパートの凄いのは、そうした愛欲関係だけではなく、彼らの「お母さん」が蚊帳の外に置かれずにシーンの展開に大きく関わってくる──ばかりか、お母さん視点の章も多分に挿入され、そこでオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡という戦争体験をも巻き込んで話が進む点である。
お母さんが再びカレル達の部屋に来訪して以降の物語のうねりは信じられないほど完璧に思える。


カレルがノラ夫人を重ねたエヴァを犯すときの「突進」という単語は、第一部で風景を眺めたことがないミレックが目標に向って「突進」するうえで空間を障害物だとみなしている、という文脈でも使用されており、本作のキーワードかもしれない。

 

 

・第三部 天使たち

ここに来てようやくタイトルにある「笑い」が前面に押し出されてきた。
笑いには、天使の笑いと悪魔の笑いの2種類がある。世界の秩序や人生の価値(="重さ", 『不滅』, ニーチェ永劫回帰)を称揚する天使たちに対して、世界の無秩序や人生の無価値さ(=『存在の耐えられない軽さ』)を喧伝する悪魔たち。
どちらに傾倒しすぎてもダメで、両者の釣り合いが取れていることで生きていくことができる。
ただこのパートでは、クンデラ(という登場人物)が迫害を受けた共産主義者を天使に見立てて批判的に描いている向きが強い。


イヨネスコ『犀』も、アニー・ルクレール『女の発言』も読みたくなった。後者は邦訳ないっぽい?

隊列と輪、行進とダンスという露骨な二項対立(の露骨性を自覚的に描く)

天使の笑いを体現する者たちが輪になってワンステップ, ツーステップ……そして地面から浮き上がって空に舞い上がるくだりは馬鹿馬鹿しくて(笑い!)面白いが、2人のアメリカ娘学生とその先生とで再演したのには流石にやり過ぎではと感じた。

笑い、滑稽さ、恥辱……みたいなものが残酷さや痛切さを喚起するのは、フラバル『あまりにも騒がしい孤独』でスキー中に糞を踏んでしまった女性の挿話を思い出した。あれメインの本をプレスして捨てる男の話よりも印象に残ってる

ようやく「私」ことミラン・クンデラなる人物が表に出てきた。
占星術、『不滅』のある章でも出てきた気がする。
クンデラ占星術コーナーの仕事を与えてくれた雑誌編集者Rが何度もトイレに行く描写もフラバル的な意味でとても理解できる。

 

 

・第四部 失われた手紙

あまりにも完璧なヒロイン導入

クンデラの女性キャラあるある
・田舎町のカフェでウェイトレスとして働きがち


第一部と同じ題であるが登場人物は異なる。
ミレックは自分の過去を消すために自ら手紙の持ち主である元カノのもとへ足を運び、タミナは自分の過去を忘れずにいるために亡命前の故郷プラハへと手紙を取りに行ってくれる人を必死で探した。もちろん両者とも手紙を手にすることはできない。

タミナを所有したがるユゴーは男性性に囚われたキモい男らしさがよく描かれていた。
口臭が不快な彼に一度体を明け渡したことで嘔吐したタミナの口も刺激臭にまみれるオチは、駝鳥の前で金の指輪を含んだ口を堅く閉じている夢ともキレイに連関しており──キレイ過ぎて辟易もするが──すごいと思った。

本も読まないのにある日とつぜん小説を書きたいと言い出すビビの馬鹿っぽさ、彼女に作家たることを指南しようとするヘボ作家バナカなど、やけに戯画的なキャラがたくさん出てきたが、それは過去しか見ていないタミナの冷ややかな眼を通しているがゆえだとも読める。

 

 

・第五部 リートスト

それが生の本質に迫るにも関わらず他の言語には存在しないチェコ語特有の単語「リートスト」だが、「惨めさ」や「屈辱感」のような概念だと読んだ。

リートストの例として語られる、典型的スノッブの男子大学生と田舎の肉屋の夫人クリスティナの逢瀬
プラハで開かれる大詩人たち(ゲーテレールモントフ、ペトラルカ、ヴォルテールなど実在の作家の名前を拝借している)の会合はなかなかバカバカしいというか、ドストエフスキー的な弁舌バトルの饗宴だった。

このパートはこれまでと異なり、細かな章ごとに単なるナンバリングではなく章題が添えられている。

 

・第六部 天使たち

第四部の主人公タミナ(西ヨーロッパの小都市のカフェでウェイトレスをしていた女性)の子供たちだけの島への旅と、「私」の父との記憶と音楽をめぐる回想が中心となる。

子供の島でのタミナの話はよく出来たホラーのようで薄ら寒く恐ろしかった。子供の無垢な恐ろしさはシャーリー・ジャクスンや『蝿の王』を思い出した。

 

 

・第七部 境界

「境界」というモチーフは第六部でタミナが囚われる観念を字面だけ引き継いでいるが、これまでの部をまたいで共通する単語と同様に、その内実は大きく異なっている。

 

やがてアメリカに渡ることになるヤンとその愛人エドヴィッジの言葉のない性行為、楽観的で大病を患っていた親友パセールの葬式、ヤンが趣くバルバラの乱交パーティ会場の描写など。
通底するテーマは、性や厳粛な場での笑い・滑稽さ。行為前の脱衣や人の葬式やユダヤホロコーストなど、厳粛で、そこで笑ってしまったら不謹慎、全てが台無しになるところに見出される笑いこそが「境界の向こう側」であり、官能が排された、ダフニスとクロエにとっての裸体ではないのか、という論。
『ダフニスとクロエの物語』は該当部分だけでも読んでみたい。

 

クンデラはかなり異常な性的嗜好を登場させることを好むよなぁ。舞台演出家が女性歌手にのみ全裸で練習をさせ、更に直腸に鉛筆をツッコんで姿勢を正確に把握するとかエゲツねえ……
そして、その異常性癖から、性の根源、人間存在の本質的な滑稽さみたいなものを取り出して論を展開することが多い。

 

それから、物事が意味を為せる最大の反復回数が「境界」であり、それを越えると何をしても笑いになってしまう、というくだり、お笑い芸人のネタで絶対に当てはまるやつありそうだが思いつかない……
天丼というか、それ単体では下らないのに、何度も何度も繰り返されるうちに、ある臨界点を越えると爆発的な笑いへと変質するような現象

 

最後の部まで、これまでとは異なる新しい登場人物のみの話が繰り広げられた。あまり締めの段という雰囲気はせず唐突に終わった。これは『不滅』で語られる、小説は結末に向かって単線的に進むものではない("終わりよければ全てよし" ではない)という考えの体現にも思える。


唯一、ヤンが(小説で語られる話のあとに)アメリカという新大陸へ渡って成功を収めることが明言されている点には、若干の意外性とともに幕切れの雰囲気を感じる。(黒い烏の生息域の変遷という裏ヨーロッパ史然り)チェコスロバキア、ロシア、フランスといったヨーロッパのみが言及されていた本書において「アメリカ」という固有名はなかなか斬新な響きをもっていたし、まさか出てくるとは思っていなかった。

 

 

 

 ー読了ー

第二部「お母さん」がいちばん面白かった。そこで登場した人物がそれっきりだったのが残念。後半の3部ほどはちょっと微妙というか読んでいてダレてしまった。文章は上手いとはいえ、ずっと通用するものでもないのだなぁという発見

部ごとに律儀に独立した人物たちとテーマで話を作ったことの功罪なのかな。もちろん作中で語られる「変奏曲」の形式を採っているのはわかるが、同じ変奏曲形式でも『存軽』『不滅』は章をまたいである程度共通のキャラクターの物語で構成されていただけに、本作のような独立した連作短篇形式だと長篇としてのリーダビリティ、魅力が落ちてしまう。
本作の醍醐味は、部をまたいでの「笑い」「忘却」「天使」「境界」といったテーマの重層的な変奏を解きほぐし分析し、どのように厳密に構成されているかを味わうことだとは思うのだが、今の自分はそこまでするモチベがない。


とはいえ、そこらへんの小説よりはよほど面白かった。1週間足らずで読んでしまったのも自分としては破格の速さで、それだけクンデラが面白く、自分好みであったということの証左だ。
作品の著者を名乗る「私」が登場してくる中期3部作の形式はとても魅力的だが、それ意外の、普通の小説の語りも気になるのでやはり『冗談』を読みたい。また、本当の短篇はどんな読み味だろうかということも気になるので、短篇集『微笑みを誘う愛の物語』あたりも読んでみたい。

 

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めちゃくちゃ付箋を貼ってしまったので、かえって引用のために入力するのが面倒くさくなった。これを見ればどれだけ私が本書を楽しんだかわかってもらえると思います。

 

 

笑いと忘却の書 (集英社文庫)

笑いと忘却の書 (集英社文庫)

 

 文庫版も出てるんだ。

 

 

 

『ヴァインランド』(4)トマス・ピンチョン

 

前回↓のつづき

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6, 7, 8章まで読んだ。

 

 


6章(pp.102-134)

 

プレーリーの母フレネシの現在の話と、彼女の両親サーシャ/ハブ、それから母方の祖母ユーラ/祖父ジェスの代まで遡る人生記

フレネシがいかに密告まみれの政治的環境(共産主義の母とノンポリの父)で育てられたかがよくわかる。

現在彼女は幼くして別れたプレーリーに想いを馳せながら、サンベルト・シティの旧市街アパートで、フラッシュとその息子ジャスティンと暮らしている。(フラッシュとは別に結婚してないよね?)
フラッシュもフレネシも、政府の「証人」(〈プログラム〉の特別職員)として保護されている。
しかし、政府のコンピュータから突然、特別職員の多くのデータが抹消され、自分たちも見放される(再び犯罪者として地上に投げ捨てられる)危険性を感じ、また逃げるように住む町を変えなくてはいけないと覚悟する。
えーと……4章でたしかゾイドが盟友ヘクタから聞いた、フレネシのデータが消えて行方が分からなくなっているというのはここから少し先の話ってことでいいのかな。

 

 

「この町の歴史はね、安物の映画シナリオ並なの。作られ方もよく似てる。物語の1ヴァージョンができると、みんながすぐに寄ってたかって、それを食い物にするの。聞いたこともないような党派が入り込んできて、作り替えてしまう。登場人物も、彼らの行為も、どんどん入れ替わって、胸にしみるセリフがあっても、みんなに叩かれて平凡なのにされてしまうか、跡形もなく消されてしまう。50年台のハリウッド物語はね、あまりにも長すぎる。書き直しの手の入りすぎた作品にされてしまった。サウンドはもちろんなしよ。誰もしゃべらない、長大な無声映画なの」
p.121

サーシャが娘フレネシに向って語り聞かせる昔話

 

 

暗闇の中に、家々のTV画面が青白く音もなく揺れ、その光に引き寄せられて、ふだんは見かけない声高の鳥が集まってきた。あるものは、おとなしく椰子の木にとまって茂みに隠れ住むネズミを狙っているけれど、別の一群は窓の近くまで舞い降りて、どのアングルが画面を覗くのに都合よいかを探している。コマーシャルが始まると、それに合わせて鳥たちは、この世のものとも思えない澄んだ声で歌い返す。ときには自分たちのほうから歌い出す。
pp.122-123

鳥が家々のテレビを覗きに集まって歌い返す。
一歩だけリアリズムの領域から出ている塩梅がすき

 

 

この世には、自分を含め、制服の男への欲望を抑えられない女がいるのだ。高速に出ればハイウェイ・パトロールのおまわりあんとの間で起こることを夢想し、TVからジョンとパンチの再放送が流れればオナニーしたくなる。そんな娘の制服フェチを、サーシャは自分からの遺伝だと信じた。彼女自身、ローズボウルのパレードを最初に見に行って以来、今日に至るまで、権威なるもののイメージに無力に惹かれる、宿命的な疼きを自分の内部に感じていたのである。
pp.123-124

フレネシまさかの制服フェチ
でも反体制側だからこそ権威への無力感を覚えてそれが性的快感にまで繋がってしまうのはわかる気がする。
ヘテロ男性の女性警官フェチとかナースフェチとは違う。あくまで自分よりも強者の前で敗北する構図
ヒーローもののヒロインの敗北モノに近い

 

 

彼女はいまTVを回してソファに寝ころび、シャツのボタンを外し、パンツのジッパーを下げ、さあこれから──という折も折、裏口の網戸を男の拳が叩いている。まさにTVフリークの奇跡というべきか、網戸の向こう側にハンサムな連邦保安員が立っていた。網戸ごしに見る姿は、画素がやや角張りすぎているもののTV画像のようである。
p.124

ここ笑った
網戸ごし=ピクセル数が少なくて性癖の制服マッチョ男性が荒く見える──ってじゃかしいわ!上手く決ってるけど……
ヘクタに続いて二人目のTVフリーク
親の回想では映画の話が大きな位置を占めていたし、TVは80年台のポップカルチャーにとって重要なんだろうな

 

その存在(イチ)と非在(ゼロ)の連鎖が、人間の生と死の連鎖のようなものだとしたら──そしてもし一個の人間のすべてがゼロとイチの長大な連鎖によって表記可能であるとしたら──個人個人の生(イチ)と死(ゼロ)の長大な連鎖はどんな生き物を表すことになるのだろう。少なくとも一段高次の存在であるはずだ。天使? マイナーな神? それともUFOに乗ったクリーチャー? この生き物は、名前を一文字綴るのにも八人の人間の生と死が必要なのだから、その行状を記録するには、世界史の相当な部分が必要になる。
p.134

コンピュータ内の電子のビットを生死に対応させる発想やルビの振り方には安直さから忌避感を覚えるが、それを敷衍して「一段高次の存在」を考えるところや、その具体例のコミカルな列挙、そして「世界史」にまで行き着くあたりなんかは流石に馬鹿にできない魅力を感じる。

 


7章 (pp.135-156)

世界的富豪ラルフ・エイヴォーン邸での末娘ジェルソミーナの結婚披露宴

 

エイヴォーン氏は1章の〈キューカンバー・ラウンジ〉経営者ラルフ・ジュニアの父親で、彼がパーティのステージ用に急遽募集していたバンド枠に、プレーリーの彼氏イザヤたち御一行が2章の最後で出演が決まったのだった。
プレーリーは彼らと行動をともにしているので、プレーリーもエイヴォーン邸での宴に参列することになる。
そこで運命的に、父から別れ際に渡された名刺タケシ・フミモタのパートナーでフレネシの旧友だというくノ一、ダリル・ルイーズ・チェイステイン(DL)と出会う。
ブロックより先に母を見つけたいプレーリーは、イザヤらと別れてDLに付いていくことに決める。

 

プレーリーが ヴァインランドの父→彼氏のバンド御一行→母の旧友のくノ一 と複数の庇護対象を転々と渡り歩いている。

 

めちゃくちゃ豪華で上品な宴会場の描写に、これは絶対イザヤたち詐欺バンドがぶち壊す前フリだろw と思っていたが、案外ちゃんと演奏をこなせたようで意外。イタリア人詐欺がバレて用心棒に絞められそうになったがそれでも何やかんや凌いだらしいし。

 

早くも重要アイテム「謎の日本人タケシ・フミモタの名刺」が役に立った。RPGみたい
DLはフミモタの仕事上のパートナーかつフレネシの親友って出来すぎてない?とも思うが、パラノイアの一言で収まりがついてしまうのがピンチョンのズルいところだ。

 

ゾイドやフレネシ、ヘクタ、DLたちだけでなくエイヴォーン氏にまで危険人物扱いされている連邦保安官ブロック、マジで何者なんだ……完全にラスボスとして描かれてるぞ

 

フレネシとブロックにかつて何があったのか等をプレーリーは知らないため、彼女を介して読者への説明がされる。
こういう過去や現在の状況を把握していない若者キャラが出てくるために、本作はピンチョンのなかでも非常に読みやすい。

 

 

その女性は、うち解けながらも身構えているような、中断していた会話を再開しようとしているような顔で、プレーリーを見つめていた。
p.145

DLとの初対面シーン
比喩がうめえ

 

 

「ブロックに見つかる前にあたしたちがママを見つけられない?」 あまりにもストレートな願望の表現に、思わずDLは、素人のタップ・ダンサーがよくするみたいに、自分の足元を見つめてしまった。
p.152

 

 

「すぐまたさぁ、よくなるって」 彼は跪いて窓越しにさよならのキスをした。「最悪のCMが二つ三つ入っただけじゃん。ちょっとの間の辛抱さ」
p.155

イザヤとプレーリーの別れ
イザヤお前……かっこいいじゃねえか……

 

ダメな大人を書くのも上手いが、ピンチョンの書く若者・子供はとても良い
プレーリー視点のパートは特に読みやすいし純朴さと若々しさにあふれていて面白い

 

ゾイド、母フレネシ、娘プレーリーの3人それぞれの話を交互に進める感じだろうか。完全に家族の物語だ

 

 

 

 

8章 (p.157-p.188)

 

プレーリーの〈くノ一求道会〉滞在、DLの過去回想(フレネシとの出会い、幼少期と日本での武道入門)

 

DLに連れられて〈くノ一求道会〉のアジトである修道院に着いたプレーリーは、料理担当として腕を振るう。

 

求道会の会長:シスター・ロンシェル

 

プレーリーは働きながら求道会のデータベースで母について調べる。

母とDLのツーショット写真を見つけた→フレネシとDLの出会いの回想→DLの両親のエピソード→DLの子供時代のエピソード

 

〈秒速24コマ〉:フレネシとDLが所属していた映画集団

 

DLの父親:ムーディ・チェイステイン
少年時代からギャングで、保安官に声をかけられ軍隊へ。駐留地で信徒ノリーンと結婚し、終戦直後のカンザスでDL出生。
ムーディはジュードー・ジュージュツに夢中になり師範代にまでなる。
一家は日本へ渡り、DLはパチンコ店で武道家ノボルに勧誘される。ノボルのセンセイであるイノシロー師にDLは弟子入りし、彼独自のチープな忍術を短期間に叩き込まれる。

 

現在時制。DLの相棒タケシ・フミモタが修道院になかなかやって来ない。

 

 

「あなたお料理の方は?」
「すこしはやります。でも、ここ、まさか、料理人もいないんですか?」
「いないのならいいんだけどね、問題は、わんさかいるの。自分は料理ができるっていう病的な妄想を抱いているのが。(中略)いらっしゃい、実態を見ていただきましょう」
p.160

プレーリーが来るまでよく餓死しなかったな……

 

 

コーヒーのマグを手にした「くノ一求道会」の修道長の姿が、虚空の中から徐々に浮かび上がってきたのは、会話が始まってしばらくしてからのことである。すごい術、と少女は思った。魔法の才能をもってる人ってやっぱりいるんだと。だが、それは違うと説明された。ロシェル姉は、この部屋の影とその刻々の変化、物陰と物体間のスペースを完璧に記憶して、部屋になりきることができるのだという。部屋を熟知しきった今では、透明にして空虚なる空間と一体になることができるのだ、と。
p.164

能力バトル漫画みたいなの出てきて草

 

 

コンピュータがどれほど几帳面で融通の利かないものかということは以前から知っていた。文字間のスペース一つの違いが意味を持つ。ひょっとして霊たちもそんなふうなのだろうか。霊って、自分ひとりで考えることができるのだろうか。それとも生きている人の必要に導かれて動くだけなのだろうか。霊界に情報が──哀しみ、喪失、奪われた正義についての行文がパチパチと打ち込まれていくのに合わせて、霊は動き出すのか。でも、それじゃ、念の入ったフリにすぎない。霊としての仕事を果たすには、"リアル" であるためには、それ以上の存在でないとだめだ。
p.167

コンピュータ(ビット)から霊的なものに繋げるのは5章の終盤でもやってたな。
というか、ゾイドがフレネシを妄想して幽体離脱(笑)するくだりとか、本作では霊や魂が頻繁に言及される気がする。
まぁ『重力の虹』とかで降霊会やってたからお馴染みとも言えるけど……

 

 

DLとフレネシが隣り合って写っている写真のところでプレーリーは手を止めた。(中略)一緒に歩いている友人に向けられた、向けられつつあるフレネシの口もとに、疑いのこもった、抑えられた笑みがこぼれつつある。その友人とはDLだ。DLはしゃべっている。開いた口から下の歯列が光って見える。政治の話じゃない。プレーリーには感じることができた。派手やかなカリフォルニアの色が画素(ピクセル)ごとにシャープネスを高めた不死の世界で、お互いにとりつくろう必要のない、リラックスした表情がほころぶのを。権威に縛られた表情を脱け出して、自由な毎日の呼吸をするのを。イェイッ! プレーリーは拳に力を込めた。行け行けっ、このままどんどん進んでけっ!
p.168

最後のプレーリーのくだりエモい……
生き別れの母の学生時代の写真を発見して、母が親友と笑い合っている姿に思わず拳を握りしめてエールを送る娘……

 

 

DLはヘルメットを脱いだ。頭を振って肩に落とした髪の上に、オレンジ色の夕陽が当たって、ほうき星のような光のパターンができる。興奮した神経とペコペコのおなか、奇声を発したい気分のフレネシに状況はまだつかめていなかった。「あなた、誰の回し者?」
「バイクで流してただけさ。あんたの妄想(パラノイア)、元気いいなあ」
p.172

でた!例のセリフだ! これてっきり男(ゾイドあたり)が言うのかと思ってたらDLなんだ。

DLめっちゃかっこいい。1番人気のキャラじゃない? 前章でこれは親子3人の物語だと言ったけど、DLは脇役というには魅力的すぎる。親の代からガッツリ人生が語られるし。

 

フレネシとDLの出会いはまんま王道少年漫画のヒーロー登場シーンだし、この2人の関係アツいな。

 

 

「要するに彼らは、われわれを体から遠ざけておきたくて、専門家に任せろ、と洗脳するわけ。その方が大衆のコントロールが楽になるから」 これを教室の言葉に直せば、あなたは結局自分の体のことを、きちんと責任が取れるほど詳しく知ることはできないのだから、お医者さんや専門の研究者など、あなたの体を扱う資格のある人に任せましょう──となる。しかし、この「資格のある人」というのがいつのまにか、運動のコーチから職場の雇い主、勃起した男性へと自然に拡張していってしまう。そのことに怒りを込めて気づいたDLは、自分の体は自分のものだという過激な結論に達したのである。
p.187

それを「過激な結論」と形容してしまうディストピア、資本主義

 

 

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三分の一は越えた!!!

 

 

つづき

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ヴァインランド (トマス・ピンチョン全小説)
 

 

 

 

「兎」「アカシア騎士団」金井美恵子

 

 

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

 

 東京でフォロワーさんとオフ会したときに頂いた本

金井美恵子は自分からは読まないだろうな〜と思っていたのでありがてぇ

表題作ではなく、特にオススメされた短編2つを読んだ。

 


・兎

 

少女の名前は小百合といい、とりわけ悪い名前とも思わないけれど、鬼百合とか姫百合という名前だったら、自分でも満足できただろう、と説明するのだった。「でも、もちろん、今では誰もあたしの名前を知りませんし、覚えている人もいないのでしょうけれど。だから、あなたはあたしを姫百合と覚えていてくださった方が、いいと思います」 p.162

……? 自分でその場で改名したのか。
「姫百合と呼んでください」とかでなく「姫百合と覚えていてくださった方が、いいと思います」なのが不思議な印象を受ける。

 


兎の語りが自分が前に書いた掌編にちょっと似てる。「〜なのでした」「〜したのです」的な語り口調
金井美恵子ではなく川上弘美に影響されて書いたものだが、ここらへんの女流日本文学作家は似ているのかなぁ。迂闊なことは言えない

 


複数の兎や鳥を飼育して屠殺, 調理するシーンで、コルタサルの、喉から無限に雛鳥を吐き出すようになってしまった男の話をちょっと思い出した。

 

 

こんな調子の会話が繰りかえされ、最後のラム入りココアを飲むころは、二人ともすっかり満腹して眠くなり、父親は葉巻きを吸い、あたしは口の中で舌に滲みて行くココアとラムの味をゆっくり味わいながら、満足しきって、眠ることを考えていました。物置小屋から庭を横切って家に帰り、二階の寝室に入るまでに触れる、少しばかりの冷たい空の空気は気持が良く、眠りを益々心地良いものにしてくれるのです。 p.168

「満腹して/満足しきって」「眠くなり/眠ることを」「ラム入りココアを/ココアとラムの味を」など、長めの1文のなかに同系統の単語をわざと重複させて粘ついたリズムを生み出しており、これが次の文の、物置小屋からの移動という動的な内容と「冷たい空の空気」の気持の良さを読み手にまで豊かに想像させる効果を発揮していると感じた。そして「眠り」で締める。
つまり、物置小屋→庭→二階の寝室という空間的移動の最中に"あたし"が感応する「リラックス/温かさ」→「忙しなさ/冷たさ」→「リラックス/温かさ」という緩急の往還を文章によって見事に演出している。

 


ある朝とつぜん家族がいなくなるという「事件」を目の当たりにしてもさほど動じず、むしろ少し喜びさえしている感じ(を端正な文体のレベルから表現している感じ)はありがちというか、すごく既視感がある。なんだっけな……ハルキ?
とにかく、こういうのはあまり新鮮に感じない。

 

兎少女の語りは「 」で大きく閉じられた長文が幾つか連なる構成だが、内部で一度も改行しない「」もあれば、何度も改行する「」もあって、その使い分けがよくわからん。


短編全体に社会の気配がしない。閉じられている。かろうじて社会の気配を遠くに感じられる箇所は、兎少女の「学校」や父親の「事務所」、それから冒頭の真の語り手の「医者」と「原稿用紙」(作家業?)あたりか。

 


捌いた兎の血を全裸で浴びる。なかなか官能的というか鮮烈だ。それまで匂いとか色彩で感じていた兎の血肉を肌で直接堪能し、遂には兎の毛皮の中に入ってしまった。
少女の暴力性の発露は、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』で藻屑が男子を殴るシーンもそうだが、やっぱりなかなか印象に残る(好き)

 

 

眼の中に、燃える火竜が飛び込んだように、深紅の闇がひろがり、白熱した炎が頭部で燃えあがり、そして、まっ黒な闇の中に落下して行きました。 p.175

父親が投げた水差しが顔に当たって割れたガラスが左眼につきささった時の描写。
「燃える火竜/白熱した炎」「深紅の闇/まっ黒な闇」ってやはり明らかにわざとらしく同系統の単語をくり返してるよね?
炎の眩しく燃え上がるイメージと、闇の冷たく広がるイメージを1文のなかで交互に提示している。炎→闇の推移を一度描けば十分な気がするが、炎→闇→炎→闇 としつこく二度も重ね書きする。


こういうのを文中のところどころで見かけるが、癖なのかな。本作に限って道具的に用いているのかな。

 

 


「兎を殺して調理して食する」ことと、「父親を殺す」ことがタブーとして扱われている?
前者によって「普通の人間」ではなくなり、後者によって「もう人間の世界には戻れないということを、改めて、はっきりと確認し」て、「兎の亡霊が自分にとりついたのをはっきりと自覚し」た。
とつぜん家族が消えるとか、兎を殺すことに快感を覚えるようになり、毛皮をかぶって兎になりすます(学校には行かなくなる)とか、ファンタジーとまではいかないがわりと非現実的なことを淡々と描写してきたが、上の2点がタブー的に作用していることに関しては現実の「常識」の範疇に物語が留まってしまったようで少し残念。


怪我した左眼だけでなく、そのうちに右眼まで見えなくなってくる。(兎は視力があまりよくないらしい)
左眼に兎の眼を模したガラスの破片が突き刺さった自分の顔を鏡越しに見た時のぞっとするほどの美しさが忘れられず、その姿を呼び起こすために飼っている兎たちの両眼をみんな刳りぬいてしまった。以前より兎を殺すことに快感を覚えなくなった。

 

ふーむ……グロテスクな光景に甘美さを感じる向きとか、「その時のあたしは、ぞっとするほど綺麗でした」というやや使い古された言い回しとか、結構ありきたりなことをやっている感じもする。殺して皮をかぶっていた兎に眼を傷つけられて兎のようになっていく流れも凡庸な変身譚というか、自分ー兎ー父親の三項をかなり理知的に取り扱っているように思える。

 

 

そして、私が彼女の素顔を見たのはこれが初めてだったのだが、彼女の顔が美しかったかどうか私にはわからない。 p.179

安直に「彼女の顔は美しかった」でも「醜かった」でもなく、「美しかったかどうか私にはわからない」なのめっちゃ良いな〜と思ったのだが、その後を読んでみると、「美しかったかどうか私にはわからない」のは、彼女の両眼とも潰れて酷いことになっていたからであって、「(原型を留めていないので、彼女の元の顔が)美しかったかどうか私にはわからない」ということらしいと気付いた。それじゃあそんなに好きでもないや

 

 

最初に「私」が兎少女に出会って語りだしたあとどうなったかが一切書かれずに「私が二度目に彼女にあったのは、ずっと後になってからだ」と飛ぶのは驚いた。一度目の邂逅と長話以後のやり取りが気になるが、そこはブラックボックスなのだなぁ
彼女が死んでいた(おそらく右眼にガラスを突き刺しての自死だろう)という展開も、兎のコスチュームを「私」が受け継いで、彼女ー兎ー私という三項をシステマティックに構築するオチも、想像の域を越えなかった。

 

 


というわけで、初・金井美恵子だったが、激推しされていたのでハードルが爆上がりして辛口というか穿った読み方をしてしまった感は否めない。自分でコントロールできるものではないが。
文体はうまぶってるな〜という感じ。(その超絶劣化版みたいなものを書いといて恐縮だが)
話の内容に関しては、社会から隔絶された空間で少女の静かかつ暴力的・官能的な振る舞いを辿るの自体は結構好みだと言える。ただし、兎と少女と私の三項の憑依-変身譚としてキレイにまとまり過ぎているところは好みでなかった。
それから、

書くということは、書かないということも含めて、書くということである以上、もう逃れようもなく、書くことは私の運命なのかもしれない。
と日記に記した日、私は新しい言えの近くを散歩するために、半ば義務的に外出の仕たくをした。
p.159

という、いかにも〜〜〜〜〜な冒頭には非常に辟易する。
一度目の長話以降を思い切ってカットしたのは「書かれないということ」なのだろうけれど。

 

 


・アカシア騎士団

「兎」と同じくルイス・キャロルが原文で冒頭に引用されている。どの短編もそうなのかと思って軽く調べた限りでは、本短編集でこの2編のみで Lewis Carroll 引用されているっぽい。なんたる偶然。一つの記事にまとめるのにちょうど収まりが良いな
最初の「愛の生活」では『鏡の国のアリス』が日本語で冒頭引用されているが。

 

 

私は彼の話を書こうと思う。ようするに、木やワニスの揮発性のにおいでも鎮めることの出来ない神経の話ということになるだろうか。 p.219

「神経の話」とな。たのしみ
語り手は小説家ということで、「兎」とともに私小説的な体裁をとっているのだろうか。

 

序盤の「私」の一人称部分を読んで、おそろしく稚拙で下品な言い回しになるが、「女性版村上春樹」という単語を想起してしまった。ほんとうに申し訳ない

「青年もしくは少年(と思えた)」風貌なのに、15年以上前に小説を書いていたということは軽く30は過ぎている筈だが、どういうことだ。めっちゃ若く見られるタイプなのか、作中人類の寿命がめちゃ長いのか、それともわずか数歳で小説を物したのか。なんか勘違いしてる?


プーサン(ニコラ・プッサン)のナルシス(ナルキッソス)とサロメ、絵画を全く知らないので調べた。
こういうポーズね、なるほど

 

 

彼は、今では木工場の経営者で、とっくに小説のころなのは忘れてしまっていて、時たま、書物のいっぱいつまった自分の部屋で、長い時間を一人きりで過すことがあっても、それは本を読むためというよりは、古い本の埃臭いにおいを嗅ぐためで、その臭いは、本の内容自体よりも、はるかに実在感のある、物質の臭いをたてるのであった。 p.220


埃「臭い」「におい」を「嗅ぐ」ためで、その「臭い」は……と、これまた露骨にすげぇ重ね書きしてくる。
「はるかに実在感のある、物質の臭い」という表現は感覚的な狙ってる感を感じてしまった。

 

 

こうして無事に暮らしていられるというのも、小説を書くなどという馬鹿気たことを、早い目にきっぱりと見切ったことのおかげで、わたしは、自分の文学的才能より、木材を信用するという、そんじょそこらの自己愛のかたまりじみた三文作家には、とうてい出切っこない客観的で物質的な、汚れのない人生を選ぶことが出来たのだ。本当に作家をやめてよかった。いわば悪夢から解放されたようなものだ。
どうやら、彼には新進作家だった時分に養ったらしい自己愛だけは、まだ残滓をとどめているようで、彼の言うように、作家が自己愛のかたまりであるのならば、まだ十分に作家として通用しそうな気配だったが、おそらく、そこまで自分を分析しない自己追求の姿勢の欠如のために、彼は小説というものにおのずから行きづまりを感じたのだろう、というのが当時の、なんらかの意味で枯れに注目していた、もしくは批判的だった数も多くはない批評家の意見の一致したところで、ああいった幼稚な小説は、いかに何でも発展性がなさすぎた、というのであった。 p.221

ここ草 辛辣ゥ!
どちらの段落も流石に文を狙って伸ばしてる感には若干イラッとくるが。

 

 


「彼はひどくもどかしい苛立ちを、手紙のために感じて腹を立てた」?
……あ、わかった。やっぱり勘違いしてたわ。彼=『アカシア騎士団』の著者=木工場の経営者("私"に物語っている人)で、彼のもとに手紙を書いた青年もしくは少年というのは別の人物ということね。完全に理解した。

 

 


「まったく新しく、同じ小説を書く」と聞けばボルヘス「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」を連想せずにはいられんよなぁ。こっちは(15年が経った)同一人物による取り組みで、ボルヘスのは別人物(実在の人物, 小説と、架空の人物)であるのが相違点。

 

 


学校に生息する秘密組織アカシア騎士団。こういうのワクワクするなぁ。地下鉄に生息する秘密組織を描いたコルタサルの短編「ノートへの書付」を思い出す。学校に潜む謎と殺人事件といえば恩田陸六番目の小夜子』か。
「小学校と一緒に卒業してきたつもりの〜」とあるが、中学校なのだろうか。というか、舞台が日本なのか若干怪しい。

 

 

そして、不正を見のがすことのない騎士たちは、不正を制裁するために呼び出し状を送りつけ、送りつけられる側には、それなりのことをされるに足る理由があって、しかもその理由は、正統と正義によって批難されるべき過誤や不正と決っていた。 p.227


ここも通り過ぎそうになる寸前で「ん?」と引っかかった。
「しかもその理由は」という文節の後ろで前の理由を説明するはずだが、ちょっと言葉を変えたくらいであんまし説明になってなくない?「不正を制裁するために」と「それなりのことをされるに足る理由」と「正統と正義によって批難されるべき過誤や不正」って言ってることほぼ一緒じゃん。


というか、木工場の主人が語り始めたこの枠内物語は、しかし「」で括られるような彼の直接の語りではなく、また"私"の一人称のままのようにも思えず(「私」がまったく出てこないため)、神の視点的な三人称で語られている、と見なしていいのだろうか。「今や、〜なのである」のように、工場長から話を聞いている「私」の時制からすると明らかに今じゃないだろという内容を今として語っているし……

 

とか言ってたら次パートで「ぼく」による一人称になった。「龍生」という転校生の名からおそらく舞台は日本。

 


「(前略)少年たちの組織に似合わぬ不釣合な豪華さに、ぼくは面食らった」(p.229)とあるが、「似合わぬ」と「不釣合な」の片方で良くない?頭痛が痛いよう。 やっぱり意図的に重複させて文/文章のリズムをコントロールしてるんかな。僕には冗長で稚拙だとしか思えない。あ、中学生(たぶん)の「ぼく」による一人称だからわざと拙くしてるとか?にしては語彙ありすぎだよなぁ


校長と担任教師が騎士団の書記とかw いきなりコミカル・戯画的になってワロタ


ボルヘスとか言ってたらまんまドン・キホーテについて語られ出した。現実と虚構。絵画を元に書いたはずの『アカシア騎士団』は作者が知らぬままに全て現実に起こった出来事だという……いかにも〜〜(どんだけ〜〜の抑揚で)

 

 

そして、何事も起らず、ぼくらは再び目隠しをされて、林の入口に連れ戻された。 p.233

うおお。何事も起こらないんかい!すげえ丁寧というかダラダラと場面を描写していたから、一気に省略されるとビビって新鮮に感じちゃう。「兎」でもそうだったな。


「ぼく」と聡明な友人が二人だけの秘密を抱えて過ごす日々……というと、どうしてもミルハウザーエドウィン・マルハウス』を連想しちゃう。「ぼく」側の情報が少なく意図的に隠蔽されている感があるのもそう。死の匂いが立ち込めているのも。
それから化学実験室の細かい情景描写もちょっとミルハウザーっぽい。

 

 

なだからで妙に明るい不眠と孤独が、ぼくの感覚を敏感にさせた。 p.236

この1文好きだな

 

 

よく晴れて冬だというのに、ぼくの部屋は、かすかに湿っていて何種類かの薬の匂いがその湿り気の中にまじっていた。 pp.236-237


ずっと思っていたが、読点の位置がヘンテコというか独特じゃない?
ここの文も、「よく晴れて冬だというのに、ぼくの部屋はかすかに湿っていて、何種類かの……」とするか、もっと減らして「よく晴れて冬だというのにぼくの部屋はかすかに湿っていて、何種類かの……」とするのが自然な気がするんだけど、「ぼくの部屋は/かすかに湿っていて」を読点で切り離すにも関わらず「かすかに湿っていて/何種類かの」は一息で切り離さないのがとても不自然に思える。わざと?僕の読点の感性のほうがバグってる?
この文のみならず、入れないでいいところに読点を入れて、入れるだろうというところに入れてないことが2ページに1ヶ所くらいの頻度である。

 

それから龍生は、その短い冬の黄昏の南の空の雲のかたちや、わずかの時間に、インジゴの濃度を深めて行く空の色や、死体(……)の見開かれた眼に映っていた枯れた偽アカシアの枝の形、身体から切り離されて首だけになってもまだ見開いた眼が、小さな鏡のように偽アカシアの枝を映し、さらに龍生の顔を映し、それ等がやがて、濃さを増す林の中の夜に飲みこまれ、枝と樹の編み出す大きな籠の編み目ごしに、星が煌めいて見えたことを語った。 p.237


おい!!!これは流石に狙ってるでしょ!
「見開かれた眼に映っていた枯れた偽アカシアの枝の形」と「まだ見開いた眼が、小さな鏡のように偽アカシアの枝を映し」なんてほぼ同じ内容なのにひとつの文中で並んじゃってるし、「その短い冬の黄昏の南の空の雲のかたち」と「わずかの時間に、インジゴの濃度を深めて行く空の色」もわざわざ言い直さなくても「その短い冬の黄昏の南の空の色や雲のかたち」で良くない?「かたち」「形」と表記を変えるのももはやお馴染みの手法。極めつけは「枝と樹の編み出す大きな籠の編み目ごし」!!! 編み出す編み目ごし……笑ってしまった

 

 

だから、あくる日の新聞に、学校の裏手の林の中で、首を切り落とされた生徒の死体が発見された、というニュースが載っていることを両親に聞いた時、ぼくは、親たちとは別の意味で驚いたのである。非現実の世界で起きたことが、新聞に報道される、ということに、驚いて耳を疑ったのだ。 p.238

こはちょっとおもしろいな。
当の犯人から前日に直接聞いていても特になにも動揺しなかったのに、翌朝新聞の報道を見て驚くという倒錯。前日彼に言った「非現実だと認めてしまえば、かえってそれを受け入れるのは簡単なことだと思うね」という台詞そのままの反映なんだけど、「現実/非現実」とか、「現実/虚構」のような抽象的な対立構造で弄ばれても(凡庸過ぎて)響かなかったことが、こうしてニュースを見て驚くという現実の行為に移植・反映されるとおもしろく感じる、ということを発見した。


学校の秘密組織、顔は白い紙で覆い隠す、そして密告……もしかして和田たけあき『チュルリラチュルリラダッダッダ』の元ネタってこれ???知らんかったわー

 

 

あくる年、冬休み明けの学校へ復学してみると、龍生の席には誰もいなくて、あいつは今日は休んだの? と同級生に聞くと、彼は神妙な顔をして、あいつ? 誰のこと言ってるの? とたずね返し、ぼくは、質問をかえた。 p.239

死神代行篇でルキアが尸魂界に連行されたあとに登校した一護と桃原の会話じゃん

 


「ぼく」の語りは意味深な閉じ括弧"』"で締められるんだけど、これに対応する"『"が見渡しても見つからない。やっぱそういう意味深なやつですか。

 

 

締め方はやはりやや唐突というか、工場長のお話しを聞いての「私」の反応などは一切語られずに、『アカシア騎士団』と手紙についても宙吊りになって終わる。(純文あるある)
ただ、

私は、もちろん、あの木工場へ通うこともなくなった。なぜ、作家にあうために木工場へ通う必要があるだろう。そこは、もう私のあこがれていた静かな仕事場ではなく、ありふれた凡庸な作家の書斎で、それならば、自分の部屋にいるのと同じことだった。 p.240

という後日譚で終わる。(言わせて。「ありふれた凡庸な」!!!)

こういう終わり方をされると、木工場長の「作家辞めて良かった〜〜」という自己愛あたりの描写が本作の重要なテーマというか、虚構/現実うんぬんというより、結局のところ「作家」についての小説だったのかな、と思わされてしまってなんか嫌だ。終わり方ひとつで全体の読み方を左右されとうない〜


区切られたパートごとの語りの位相の関係や最後の意味深な』の件とか、わりとフクザツで作り込まれてそうだとは思うけれど、文体も話もそれほど惹かれない。エド丸やなぁ……で終わってしまう。

 

 

というわけで初の金井美恵子、短編を2つ読んだが、どちらも今ひとつだった。

わかったのは、
・一文が長い
・読点の打ち方が独特
・似た単語, 表現を重ねがち
・小説家である「私」を語り手にした枠物語を書きがち
・文体は端正だが個人的にそれほど面白みがない

あんまし好きになれる気がしないな……

 

そういえば書いてるときに気付いたのが、自分は好みでない小説を評するときに「いかにも」という単語を使いがちであるということ。要するに何らかの意味で「いかにも」だと思ってしまうようなやつは苦手だ。

しかし、「いかにも」だから苦手というより、苦手だから「いかにも」だと思うのかもしれない。にわとりたまご

結局は個別の事例を具体的に検証するしかないのかなぁ

 

 

 

ちなみに、各20ページほどの短編2つをメモしながら読むのに、合計5時間以上かかった。読むの遅すぎィ!

 

 

 

 

 「喉から無限に雛鳥を吐き出すようになってしまった男の話」じゃなくて「喉から無限に子ウサギを吐き出すようになってしまった女の話」だった。

「パリにいる若い女性への手紙」

 

愛しのグレンダ

愛しのグレンダ

 

「ノートへの書付」:地下鉄に潜伏する秘密組織の話

 

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

 みんなだいすき「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」

 

六番目の小夜子(新潮文庫)

六番目の小夜子(新潮文庫)

 

僕が読んだ数少ないホラー(?)小説

 

 

 

www.youtube.com

 

 

「くじ」「背教者」シャーリイ・ジャクスン

 

 

akosmismus.hatenadiary.com

 

色んなところで「くじ」の名を聞いていたが、信頼している読書家が「完璧な短篇小説」と書いていたのが決め手となり、早川書房異色作家短篇集シリーズの「くじ」を借りてきた。が、こちらのサイトで手軽に読めたらしい。

 

 (今は文庫でもっと新しいのが出ている)

 

 

・くじ

各所で言及されており、あらすじは既に知った状態で初めて読んだ。

本当に聞いていた通りの話で、それ以外の細部の描写やプロットがほとんどない、あっさりしているというか、研ぎ澄まされた短編だった。


既にオチは知っていたので、「何のためのくじなのか」という通常初読者が思うであろうことはすっとばして、「誰がくじに当たるのか」だけが気になって読んでいったが、いちばん意外性のない、妥当な人物であった。

みかんさんの記事にもあるが、あたかも最初から当選者が決まっていたかのような、合理的で辻褄の合う選択で、それが自分にはあんまり魅力には思えない(「よく出来た」小説があまり好きではないため)のだが、では本作がまったく合わないかというと、そういうわけでもない。確かにこの最後には、読者を突き放して感情をかき乱すおぞましさと凄みがあると思う。
それは、メルヴィルの「バートルビー」を読んだときに感じるものに近い。
「えっ、これで終わり……? どういうこと……?」と、読んだ者を不安の只中に突き落とし、居心地を悪くさせる──がゆえに、それを包括する形での爽快感がある作品。こういう小説こそ、「正しく」文学的な作品だと思う。(ただし、これを「寓話」だとか「不条理」とかいう言葉に押し込めて分かった気になるのは最悪だ。「どういうつもりでこれを書いたのか説明してください」と作者に手紙を書いた当時のニューヨーカー読者たちと同じになってしまう)

 

あたかも初めから犠牲者が決まっていたかのような周到な伏線?の貼り方は、むしろ『オイディプス王』や『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のような王道の悲劇として読むのが適切かもしれない。

 

小さな集落の広場で行われる催しを描いた話としては、ブンゲイファイトクラブ第1回の蜂本みささんの掌編「いっぷう変わったおとむらい」を思い出した。

 

この話の不気味さは、「くじ」という慣習がこの集落の住民にほとんど何の疑問もなく受け入れられている点にあるが、当選した夫人は「こんなのフェアじゃない!」と激昂し反抗する。その反応だけは、読者の常識の側に立っているのである種安心する。しかし、当選者さえもが平然と運命を受け入れるプロットのほうがより不気味で強烈な読後感を残すのではないかと思い、個人的にはそちらのほうが読んでみたかった。
もちろん、それではこの集落にとっての「くじ」の意義と、周到に用意された"妥当な"当選者──という本作の根幹は完全に変容してしまうだろうが、それでも、読者に一切の解釈の余地さえ与えないやり方を見てみたかった。

 

 

 

・背教者

「くじ」1作だけでは心許ないので、もうひとつ読んだ。

 

犬が好きなひとは気分を害するから読まないほうがいい

飼っている愛犬がご近所さんの鶏を食い殺してしまい、今後の処遇に悩む主婦の話

これも「くじ」と同様に、身の回りの凡庸な人間に内在する嗜虐性を露骨に描いたものとして読める。
子供こそが最も無自覚に残酷に振る舞える(無邪気さ=冷酷さ)のを強調するのも同様だ。("すげえいい天気の平和な一日"という舞台設定まで同じ)

 

「くじ」と違うのは、明確に主人公となる視点人物(ウォルポール夫人)が設定されている点だ。
彼女だけは愛犬に残酷な処置をしたくないと考えており、読者は彼女に感情移入しながら、彼女が他の人物の発言から受けるショックを一緒になって感じることができる。

 

読者側の人物が1人だけなのは、やはり「くじ」と同じとも言える。

「くじ」はその構造上、その唯一の読者側人物(=当選者)が終盤までは伏されているのが大きな違いで、この点で「くじ」は本作よりも優れているのだろう。

 

ただ、明確な主人公を設定したことで、「普通の小説」的な面白みは増えている。

ナッシュ夫人は、どんな種類の混乱も惹き起こさずにドーナッツを揚げられる、不思議な人物なのだ。 p.91

 

「もう二度と犬を飼おうとは思いなさるまいね?」
愛想よくしなければ、とウォルポール夫人は胸のうちで呟いた。田舎の標準でいけば、老人は裏切り者でも悪人でもないのだ。 p.91

このような(アメリカ的な?)ちょっと気の利いた細部の言い回しに魅力を感じた。

 

本作では田舎-都会という二項対立も持ち込まれているが、これも「共同体の存続には合理的な残酷さが必要である。共同体の輪を乱す部外者は排除される」という意味ではやっぱり「くじ」に回収される。


短編を2作読んだが、作風がわかり易すぎるので他も読みたいとはあまり思えない。

 

 

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

書記バートルビー/漂流船 (古典新訳文庫)

 

 

こっちの長篇も読みたい。 

『ヴァインランド』(3)トマス・ピンチョン


 

hiddenstairs.hatenablog.com

続き

 

4章・5章まで(約100ページまで)読んだ。

 

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https://vineland.pynchonwiki.com/wiki/index.php?title=Chapter_4

 ヴァインランドwiki

 

4章 pp.54-83

 

なんとか借りられたのが「リトル・ハスラー」の異名をもつダットサンの小型トラック。近くに住むトレントがキャンパーに改装したものだが、そのつくりがユニークで、コーナーリングのハンドルさばきが大変そうだった。「だいじょうぶだよ、ただね、ガソリン表示が満タンと空っぽの間のときは、右折と左折は控えたほうがいい」などとトレントは真顔で言うのだが、問題がキャンパーのほうにあるのは明白だった。 p.54

全然大丈夫じゃねえ!!!


ダットサンって何かと思ったら日産のブランドだった)

vineland.pynchonwiki.com
ピンチョンwikiに画像あった。ヤバww

 

 

トレント=詩人兼画家


まさか2章で言ってた近隣のヴェトナム帰還兵がほんとうに登場するとは
亭主RC、連れ合いムーンパイ、子供たくさん。川でザリガニを獲って稼ぐ
ゾイドとは70年代はじめ以来の付き合い(長っ!)

 

実をいうと、ゾイドがムーンパイに出会ったのは、フレネシとの離婚が最終的に決まった晩のこと──それは同時に、ある意味、離婚の取り決めと一緒に盛られた協約にしたがって、彼が最初の窓破りを敢行する前の晩のことでもあった。 p.55


ギグって小規模な演奏会(ライブ)のことか。

 

 

「フレネシ・マーガレット、ゾイド・ハーバート、汝らは、困難の日々も幻覚の日々も、ラヴという名のグルーヴィなハイに留まることを誓うなりや……」式は数時間も続いたのかもしれないが、三十秒で終わったようにも思われた。そこでは誰も腕時計などしていなかった。メローなるシックスティーズの住人は、デジタル以前の、TVによってさえ切り刻まれていなかった時の中を、ただゆったりと流れるように生きていただけ。この日のことは、後のゾイドの記憶にソフト・フォーカスの映像として焼きついた。 p.58

ノスタルジック〜〜〜
いかにゾイドが過去に囚われているかが分かる
こっちまで感傷的になる

 

野外の宴が続く間、花嫁はしずかな微笑みを保っていた。当時からスキャンダラスなほど青かった瞳が、ふんわり大きな麦藁帽の下で燃え立つのがゾイドの脳裏に焼きついた。小さな子供たちがフレネシの名を呼びながら駆け寄ってくる。演奏の休止時間、ふたりはイチジクの木の下のベンチに腰を下ろした。フレネシはコーンに盛った七色のフルーツ・アイスを舐めていた。祖母が着て母も着たウェディング・ドレスに、溶けたアイスの雫が垂れないようにと前屈みになってペロペロやっていたのだけれど、そのアイスは不思議と色が混じり合うことなく、いつまでもくっきりとした原色を保っていた。そのライムやオレンジやグレープ色の冷たい雫が、どこからともなく現れた三毛ネコの背中にかかる。ネコは驚いたかのようにミャウと鳴いて、土の上で体をくねらせ、狂ったようにクルクル目玉を動かし、全速力で向こうへ走っていっては戻ってきて雫を浴び、それを一からくり返していた。 pp.59-60


なんだこれ・・・感傷マゾのオタクが死ぬ間際に見る夢か!?!?


ルネ:フレネシの従妹。長身でド派手。LAに住んでいた


なんだか一気に話が急展開したな。
えーと、よーするに、フレネシをゾイドから奪ったワシントン連邦検察のブロック・ヴォンドがなぜか今になってゾイドの家を強襲し差し押さえた。
で、TV中毒者ヘクタがフレネシを追うわけは、60年代の不法薬物乱用についての映画を彼女に撮らせるためである、と。
(フレネシはバークレー大卒の映像作家)
家もなくなり娘プレーリーの身も危ないので、彼女はボーイフレンドのイザヤ達バンド御一行に預けることにした。

 

「ひとつ合点がいかないんだが」仏教徒に囲まれてテーブル上に立ち往生している麻薬捜査官にゾイドは訊ねた。「なんでまた、ブロック・ヴォンドの軍団が、今になってオレをいじめにやってくるのよ?」
吟唱がピタリと止んだ。まるで、これから主役のアリアが始まるかのように、みんな静かにヘクタを見上げる。頭上のステンドグラスの模様は、八つに切り分けられたピザのマンダラ。太陽の光によって、まばゆい深紅と金色に染まるそれが、近づく車のヘッドライトに、サッと一瞬、不気味に色づく。 p.77

 

仏教徒に囲まれてテーブル上に立ち往生している麻薬捜査官」の時点ですでにカオス度が振り切れてるけど、ピザマンダラのステンドグラスでとどめを刺された。降参降参

というか仏教徒の健康志向のピザ屋さん〈菩提達磨〉って何やねん。プレーリーのバイト先、癖がありすぎる。

 

このときである。〈菩提達磨〉の表と裏の入口から、NATO軍の迷彩模様の軍服を着たTV解毒隊が押し入ってきた。兵士らは男も女も、甘い言葉でなだめながら、ヘクタの手を引き、「きみを救ってあげられる場所へ」連行すべく、ふたたび吟唱を始めた〈菩提達磨〉の仏教徒らの間を抜けてドアに向かった。ドクター・ディープリー、顎ヒゲを撫でつけながら大股でやってきてバーバ・ハヴァバナンダとハイタッチ。
「いや、助かりましたよ。ウチのほうでできることあったら何なりと──」
「あの男がしばらく出没しないようにしてくれれば、それが一番だね」
「そりゃ保証できませんな。ウチのセキュリティは実に貧弱で、観察つきにしておくので精一杯。本人がその気なら、一週間もせずに外を飛び回ってるでしょうな」
「制作契約、成立じゃい!」解毒隊の護送車に積み込まれながらヘクタはなおも叫んでいる。その護送車が猛然と走り去ったのと交代に、ヴァンに乗って猛然と走りこんできたのがイザヤ君と仲間たち。 pp.79-80

 

ここのスピード感もすごい。「NATO軍の迷彩模様の軍服を着たTV解毒隊」とか「レストランで吟唱を始める仏教徒」とか「60年代ドラッグカルチャーの映像制作に固執するTV中毒の麻薬捜査官」とか「娘のボーイフレンド率いる荒くれ若者集団」とか、濃い面子の頂上決戦か?ってくらい。(最後の若者集団が相対的に存在感薄いと思ってしまうのがヤバい)

 

 

 

 

 

4章おわり。

 

ちょっと待って……めちゃくちゃ感動するやんけ……
プレーリーとのやり取りの最後数ページ、すべて完璧すぎて引用しきれない。


とりあえず帯にも載ってるこれを

「マリワナばっか吸ってんじゃないのよー」去りぎわに娘が放つ。
「股をきちんと閉じてるんだぞー」父が返す。
p.83

そういや、この帯文を見てヴァインランドめちゃくちゃ面白そうだと最初に思ったんだっけなぁ……
父と娘の一時の別れ。直球なテーマを直球にいい文章で描く。
その気になればいつでも感動させられるんだぞ、という圧倒的な筆力を感じる。

トレーラーで親子最後の夜を過ごすときの、二段ベッドによる空間的な2人の位置関係とコミュニケーションの流れとかマジで完璧。

ここまでで、やっとイントロが終わって、ここからが本番の予感

 

5章(p84.-p.101)

 

いやこれ凄いな。


「別れ際にゾイドは、とある偶然から日本人を助けたお礼にもらった名刺(お護り)をプレーリーへ渡した」という、その日本人との出会いをこの章まるごと使って語るわけだけど、脱線に次ぐ脱線……というか、そもそも日本人とのエピソードを目指して話が進んでいるとは微塵も思わせないほどサイケでポップでスピーディなストーリーテリング。語られるエピソードがいちいちカオスでフザケていて最高。


ゾイドとフレネシが離婚する前日譚も描かれるのだけど、なかなか無慈悲というか、前章でゾイドが懐かしんでいた結婚当時は本当に「2人の関係の絶頂」であって、あとは陰鬱たる地獄しか待っていなかったんだなぁ……まぁ一時的別離といいながらハワイまで追いかけるのは普通にヤバいと思うが(しかもホテルの隣の部屋!)

 

その後にゾイドシンセサイザー奏者の職を得るカフーナ航空のエピソードも馬鹿馬鹿しくはっちゃけていて最高
高度1万メートルで謎の飛行物体が接近して接合し、謎の部隊がドカドカ入ってくる(しかも機内はハワイ風のクラブハウスで乗客は皆ぐでんぐでんに酔っ払って踊り狂っている)とか、マジでそれ書いてんの?って話がずっと続く感じ。

 

ブギに踊り狂い、あるいは脱力発作に襲われている客を、侵入した隊員たちは調べて回っているが、ここでウクレレを掻き鳴らしている男のことは眼に留めるふうでもない。さらにゾイドは気がついたのだが、最高音のBフラットを鳴らすたび、侵入者たちが無線受信に支障をきたしたかのように、ヘッドフォンを両手でつかんで耳に押し当てるのだ。そこでゾイドは可能な限りそのキーを押し続けてみたのだが、そしたらじきに彼らは、うつろな当惑をあらわにしてジャンボ機から引き上げていった。 p.100

常にツッコミ待ちで大真面目にフザケ倒しているから、こっちも大真面目にツッコミまくれる


名刺をくれた日本人の名は、タケシ・フミモタ(調整師)
「フミモタ」の、「外国人が頑張って考えた日本人姓」感がいい。「フミモト」を英語話者が聞くとこう聴こえるのかな。

ここまで読む限りヴァインランドは、『V.』や『重力の虹』のなかのポップなドタバタパートだけを抽出してきた感じで、要するに超自分好み。
ただ、初期長篇は、シリアスでお硬いパートがあるからこそドタバタパートがそのギャップでより魅力的に思える面はあって、本作ではそのギャップによるバフは無いため、どっちもどっち説もある。
まぁ自分はピンチョン作品にお硬い文学性はそんなに求めていない一般読者なので、今のところ一番のお気に入りになりそう

ピンチョンが難解とか言ったやつ誰だよ!世界一面白くフザケた小説を書く作家の間違いだろう

 

 

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ヴァインランド (トマス・ピンチョン全小説)
 

 

『ヴァインランド』(2)トマス・ピンチョン

 

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2章と3章を読んだ。(p.53まで)

 

https://vineland.pynchonwiki.com/wiki/index.php?title=Chapter_2

ヴァインランドwiki, chapter 2

 

2章


毎年の恒例行事としてメディアに報じられてるのか…思ってたよりずっと大規模な取り組みだった。
めちゃくちゃふざけてんな〜競売ナンバーの序盤のモーテルでのカオスなくだりとか、早めにキャッチーな展開を入れてるのかな

 

「おい、オレは金がないって言ってるだけだぞ。誰だ、このごろおまえにヘンなこと吹き込んでるなぁ」
長くしなやかな首と脊椎の上で、少女の頭が微妙に回り傾いた。父親と話すための適切な角度に微調整したふうである。「そうね。イのつく人が、ひとことふたこと言ってたみたい」 p.27

ここの地の文いいなぁ

 

 

「そいでさ、思うんだけど、イザヤと組んでビジネスする気ない?」ゾイドの耳に聞こえた限り、たしかにプレーリーはそう言った。「彼ならノルわよ。パパは心を開きさえすればいいの」
どういう意味だか理解できないゾイドは軽口で受け流した。「心かい、心だけなら開いてやってもいいね。アイツがヘンなところをオレに向けて開かなけりゃね」──と言うが早いか、顔面めがけてスポーツシューズが飛んできた。中に足が入っていなかったのはラッキーで、首をすくめるとそれは耳をかすめて飛んでいった。 p.29


プレーリーの彼氏?イザヤ。モヒカン。地元のヘヴィメタバンドのメンバー。親がヒッピー
「ヴァイオレンス・センター」なるふざけた小型テーマパークの設立を目指しゾイドに連帯保証人を頼んでくる

 

登場するなりイザヤがやってみせたのは、ヴェトナム兵士の挨拶と彼が信じる、複雑な手のひらパチンの挨拶である。この少年はなぜかいつも、ゾイドをヴェトナムと結びつける。このあたりに住みついた帰還兵や監獄の囚人たちから仕入れたネタの部分はゾイドにも伝わったが、私的な解釈になっているところはついていけない。演技中、イザヤはずっとジミ・ヘンドリクスの「紫のけむり」をハミングしていた。「ヘーイ、ミスタァ・ホイーラー、ハウ・ユ・ドューイン?」 p.30

この辺のカオス感たまらん

 


3章

ゾイドとヘクタの馴れ初め回想
1967年、ゾイドがキーボードを務めるザ・コルヴェアーズの仲間たち数人で南カリフォルニアのゴルディータ・ビーチのボロ家に住んでいた頃、ドラッグ捜査のためヘクタが訪ねてきた。

 

現在時制
ボウリング場〈ヴァインランド・レーン〉併設の食堂にゾイドは呼び出される。ヘクタの奢りが条件で。

ゾイドの元妻フレネシはヒッピー過激派で体制の監視下に置かれている?
彼女のデータが何者かに消されて行方がわからない……こっちへ向ってる?

 

シックスティーズ=60年代世代=ヒッピー世代?

 

人生にくたびれた中年のオッサン2人……お互いに若かりし頃の威勢やプライドはもう無く、妥協と惰性で生きている。
追いかけ追われる関係であっても、置かれた状況や心境はとても似通っており、お互いに共感できることが多そう。
相手を非難しても、それが結局自分に跳ね返ってくることを知っているから自嘲気味になってしまう。

 

これまで何人もがヘクタを狙って時間を無駄にしたらしいが、彼の暗殺にもっとも適した悪漢は他ならぬヘクタ自身であっただろう。いつどこでどんなやり方でやったらいいのか、ベストの選択肢を知っているのは彼だったし、動機にしても誰より彼自身が一番持ち合わせていたわけだ。 p.47

哀しい……

 

ヘクタはゾイドと元妻のよりを戻そうとしてる?
何にしろ、元妻捜索の件でゾイドを特別に雇うっぽい。普段どおりの生活をするだけで給料がもらえる。

 

若い娘が片方の親と暮らしていて、離婚したもう1人の親は行方知れず……っての、フランゼン『ピュリティ』っぽい。
というか王道の設定よな。親探しの旅
しかし本作では父親たるゾイドが主人公

 

 

勘定書を持ってウェイトレスが近づいてきた。条件反射で席を飛び出たヘクタを見て、慌ててゾイドが一緒に飛び出てゴッツンコ。びっくりした彼女が後ずさりした拍子に落ちたチェックは、それに飛び掛かった三人の間を巡り巡って回転式の調味料トレイにヒラヒラ舞い降り、端っこが半透明化したフルフルのマヨネーズの丘に半分沈み込んだ。 p.51

お得意のコミカルでスピード感あふれる描写

 

先日、ピンチョンの文体はハードボイルド探偵小説のそれだと言ったが訂正する。
ピンチョンの三人称の語りは変幻自在で破天荒なんだけど、例えるなら講談とか、芝居の口上、あるいは魚屋のたたき売りみたいな弁舌に近いと思う。「寄ってらっしゃい見てらっしゃい、今日も面白い素っ頓狂な大冒険譚を仕入れてるよ〜」的な。
リズムが小気味よく、スラスラ読める部分があることはおそらく翻訳の佐藤さんも意識しているだろう。


え、ヘクタもまた精神的に問題があり、組織から追われてるの!? TV中毒の伏線だったとは……
ピンチョンにオタクを主題にした小説とか書いてもらいたいな。パラノイアとも相性良いし。

 

 

今のところかなり読みやすい。視点人物もゾイドに一貫してるし、コミカルだし、時系列も舞台も超絶シャッフルされてないし……

なんかヴァインランドでは文章のなかで流れるように過去と現在を行き来すると聞いているけど、それはこれからなのかな。ワクワク

 

 

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ヴァインランド (トマス・ピンチョン全小説)
 

 

ピュリティ

ピュリティ

 

 

『スワロウテイル人工少女販売処』(2)籘真千歳

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第1部第2章(p.90)まで読んだ。

 

自治区の大半の人間と人工妖精は、世界一の福祉に守られ、時間を持て余している。(中略)
憂いのない都市。安寧と平穏と平等と充実の詰まった二十八万区民だけの玉手箱。 p.71


お手本のようなユートピア。そういえば前章に「世界一の福祉」とやらのおかげで人種差別などのあらゆる差別は無くなった、みたいな描写があり、流石に楽天的過ぎるというか雑過ぎて有害なのではと思った。魔法のアイテムで一足飛びに差別が解消される描写は、差別の根深さを何も捉えておらず、それどころか実際にジェンダーマイノリティ的な差別意識を内包し隠蔽しているためにきわめて危険であるとさえ言える。

こうした「間違った」描写が、ユートピア=ディストピアの批判的検討の伏線である可能性もなくはないが……

 

それにしても、こうしたユートピア下では子供を持って子育てをする人の割合はどれくらいなんだろう。

時間を持て余しているから暇つぶしも兼ねて子育てする人が多いのか、それとも生活に満足して子供を欲しいとも思わない人が多いのか(精神的な去勢)

あと、子育ては女性型の人工妖精にある程度任せるのか、人間男性がちゃんとやるのか。女性区画側だとどうなるのかも気になる。というか、そもそも人工妖精は生殖能力が無いのだから、人工妖精と結婚して家庭を持つことと、受精センターで自分の子供を持つことは特に関係なく独立しているのか?人工妖精のパートナーがいないと子供は持てないのか?
独身だけど子供を持つ人っていないのだろうか。

こうした子育て周りの詳細が気になる。

 

 

『ご首尾はいかがです?』
「どうせご存知なんでしょう?」
『左様かもしれませんね?』
全能抗体(マクロファージ)は絶対に断定をしない。揚羽が確認しても決して肯定も否定もしないし、肝心な部分は言うつもりだったこと以外たずねても言わない。 p.72

新キャラ全能抗体、キャラ立ち過ぎてて草
数学ガールのノナちゃんを連想した。。o O

r.binb.jp

コールセンター的なアレかと思ったら揚羽からは唯一の友人とみなされていて「おっ百合か!?」と腰を上げそうになった。
ステイステイ……

 

人と人工妖精は、心身の仕組みが同じでも結局は人間から生まれるか、人間から造られるかで区別される。 p.79

「心身の仕組みが同じ」と断定しておきながら、区別意識も常識化していることに違和感を覚えるが、まぁこの島の住人にとってはそうなんだろう。

 

きっと儀式だ。これも、それも、あれも、全部。電気を溜めて空回りする歯車、人を思って人を殺めてしまう人工妖精、人工妖精と人間が相憎むことを恐れて殺して回る故障品の自分。
意味がないというならそれまでの、何もしない人々の、空回りする歯車と儀式。 p.81

ああ、男女を分担するクソデカ歯車を「空回り」というモチーフでも利用してくるのか。なるほど〜上手い

歯車というモチーフから喚起されるイメージは、「回転」「噛み合う/噛み合わない」「空回る」「社会の歯車=実存が無い」など。これらをユートピアという舞台のもとで上手〜く展開しているなぁ

 

 

一年で一生を終える花が、種を残し、次の年にまた咲いたとして、その二つが同じ花だと言えるかどうか、そんなことを全能抗体は言いたかったのだろうか。(中略)
「愛でる」のが、「愛する」ことであるなら、愛するモノが死んだ後に、よく似た別のモノを愛することは、「不貞」にあたるのだろうか。それとも、人間は横に並べて愛していいモノと、ただひとつだけを愛すべきモノとの間に何かしらの一線を引いているのか? p.82

すげぇ露骨にテーマを提示してくれている。
主人公が妻に先立たれたのといい、微細機械によるアイデンティティ概念の揺らぎといい、実に上手く様々なモチーフを絡めているなぁと感心する。

 

 

それが悲しいと人は言う。彼女たちの夢が、希望が、人生が人間たちに利用され、尊厳を踏みにじられているのだと人は言う。そして幼いままの彼女たちは、君たちは不幸だと教えようとする人間たちに言葉を返せるほど大人には、いつまでもなれない。 p.84

まんま『彼女の「正しい」名前とは何か』じゃん!と思ってしまった。併読している本に影響を受けやすい


西洋フェミニズムによる「第三世界」の女性たちへの抑圧。「あなた達は可哀想だから私たちが解放してあげるね」と言いながら植民地主義的に彼女らを支配し、その支配・搾取構造じたいを隠蔽しようとする。

自分たちに安易な同情を寄せてくる火当事者に対して声を挙げられない人工妖精の少女は、女性割礼を受けた女性であり、ホロコースト被害者であり、クッツェー『敵あるいはフォー』の舌を抜かれたフライデイである。

 


"性の自然回帰派" の描写はちょっと過剰にネガティブさを演出し過ぎているきらいもある。明らかな悪役ではなく、もっと常識人のほうが問題の根深さを表現できるように思えるのだが。でもまぁ、話の都合上仕方ないのだろう。

 

 

水気質は公共のプラットフォームを臨時決起集会場に変えた青年の傍らへ歩み寄って、取り囲む人々の邪魔にならないようにひっそりと咲いた。
青年の恋人か、伴侶なのだろうか。
モノレールのドアが閉じ、人間たちの熱狂と揚羽の世界を分け隔て、ゆっくりとずらしていく。 p.88

この辺の描写にやられた

「ひっそりと咲いた」という表現のハッとするほどの静けさ・慎ましさとその奥にある衝動。ドアによって分断され、引き離されていく2つの世界の隔絶感と、モノレール車内の何とも言えない静けさ。

男女が分断されているという設定から、「分断」「隔離」というモチーフを見事に応用している。

さらに、ここでは静的な分断ではなく、モノレールという移動機関を用いた動的なイメージを生成しており、それをすぐ後で鮮やかに昇華している。

やがて、隣の車両から覗き見る同級生の少年たちの顔を見つけ、顔を輝かせる。しかし、少年たちが悪戯を大人に見とがめられたように首を引っ込めると、女子児童は突然顔をくしゃりと歪め、揚羽の手を離して反対側の後方車両へ走っていってしまった。
どこへ逃げるというのだろう。時速六十キロで走るモノレールの中では、彼女が全力で駆けても前へ前へと引きずられるのに。 p.89

シーンの空間的なデザインがあまりにも完璧……

 

 

人間は優しい。
人間はいつも、自分たちがいつか、人造人間や言葉を話す動物や、あるいは言葉を話すことも出来ない生き物ともつかないモノたちを迫害し、尊厳を奪い取り、虐げてしまうことになるのではないかと恐れてきた。でも、そうはならなかった。
人間は人間が思っているよりずっと優しかった。愛おしいぐらい繊細で、泣きたくなるほど純粋で、抱きしめたくなるくらい儚い。
だから、殺したくなるぐらい冷たい。 pp.89-90


直球のリベラル思想へのアンチテーゼだなぁ。人造人間を取り上げることでこうした角度の応答ができるのか。
この島にはヴィーガンとかいないのだろうか。というか人工妖精って人間と同じように食事するんだっけ

 

ここで提示された人工妖精側の思想は検討に値するが、しかし、彼女らが「人間の手でそう思うように造られている」という事実をどう扱うべきかが難しい。

例えば、第三世界で女性割礼や父権制を素朴に擁護する女性に対して、先進国の人々が「あなた達は環境・文化によってそう思うように育てられてきた。でも真の人権主義的な立場からは、あなた達は間違っている」と言って介入しようとすることと似た問題があり、そして、まったく異なる問題であるとする向きもまた存在するだろう。(第三世界の女性は人造人間ではない)

 

これはむしろ、『トイ・ストーリー』のオモチャたちの実存的な問題に近い。
自分はある道具的な目的のために造られた存在であることを認めることで真に実存的な存在への道が開ける?

その存在の根本に他者の意図が根付いている存在における当事者性の問題、と呼ぶべきか。これは高度に哲学的だ……
人工妖精にとって、自身を造った技術者は非当事者なのか?部分的な当事者なのか?

 

 

1-2章は20ページと短かったけど、思想的にも物語的にもよく纏まってて完成度が高かった。

 

 

 

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