「兎」「アカシア騎士団」金井美恵子

 

 

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

 

 東京でフォロワーさんとオフ会したときに頂いた本

金井美恵子は自分からは読まないだろうな〜と思っていたのでありがてぇ

表題作ではなく、特にオススメされた短編2つを読んだ。

 


・兎

 

少女の名前は小百合といい、とりわけ悪い名前とも思わないけれど、鬼百合とか姫百合という名前だったら、自分でも満足できただろう、と説明するのだった。「でも、もちろん、今では誰もあたしの名前を知りませんし、覚えている人もいないのでしょうけれど。だから、あなたはあたしを姫百合と覚えていてくださった方が、いいと思います」 p.162

……? 自分でその場で改名したのか。
「姫百合と呼んでください」とかでなく「姫百合と覚えていてくださった方が、いいと思います」なのが不思議な印象を受ける。

 


兎の語りが自分が前に書いた掌編にちょっと似てる。「〜なのでした」「〜したのです」的な語り口調
金井美恵子ではなく川上弘美に影響されて書いたものだが、ここらへんの女流日本文学作家は似ているのかなぁ。迂闊なことは言えない

 


複数の兎や鳥を飼育して屠殺, 調理するシーンで、コルタサルの、喉から無限に雛鳥を吐き出すようになってしまった男の話をちょっと思い出した。

 

 

こんな調子の会話が繰りかえされ、最後のラム入りココアを飲むころは、二人ともすっかり満腹して眠くなり、父親は葉巻きを吸い、あたしは口の中で舌に滲みて行くココアとラムの味をゆっくり味わいながら、満足しきって、眠ることを考えていました。物置小屋から庭を横切って家に帰り、二階の寝室に入るまでに触れる、少しばかりの冷たい空の空気は気持が良く、眠りを益々心地良いものにしてくれるのです。 p.168

「満腹して/満足しきって」「眠くなり/眠ることを」「ラム入りココアを/ココアとラムの味を」など、長めの1文のなかに同系統の単語をわざと重複させて粘ついたリズムを生み出しており、これが次の文の、物置小屋からの移動という動的な内容と「冷たい空の空気」の気持の良さを読み手にまで豊かに想像させる効果を発揮していると感じた。そして「眠り」で締める。
つまり、物置小屋→庭→二階の寝室という空間的移動の最中に"あたし"が感応する「リラックス/温かさ」→「忙しなさ/冷たさ」→「リラックス/温かさ」という緩急の往還を文章によって見事に演出している。

 


ある朝とつぜん家族がいなくなるという「事件」を目の当たりにしてもさほど動じず、むしろ少し喜びさえしている感じ(を端正な文体のレベルから表現している感じ)はありがちというか、すごく既視感がある。なんだっけな……ハルキ?
とにかく、こういうのはあまり新鮮に感じない。

 

兎少女の語りは「 」で大きく閉じられた長文が幾つか連なる構成だが、内部で一度も改行しない「」もあれば、何度も改行する「」もあって、その使い分けがよくわからん。


短編全体に社会の気配がしない。閉じられている。かろうじて社会の気配を遠くに感じられる箇所は、兎少女の「学校」や父親の「事務所」、それから冒頭の真の語り手の「医者」と「原稿用紙」(作家業?)あたりか。

 


捌いた兎の血を全裸で浴びる。なかなか官能的というか鮮烈だ。それまで匂いとか色彩で感じていた兎の血肉を肌で直接堪能し、遂には兎の毛皮の中に入ってしまった。
少女の暴力性の発露は、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』で藻屑が男子を殴るシーンもそうだが、やっぱりなかなか印象に残る(好き)

 

 

眼の中に、燃える火竜が飛び込んだように、深紅の闇がひろがり、白熱した炎が頭部で燃えあがり、そして、まっ黒な闇の中に落下して行きました。 p.175

父親が投げた水差しが顔に当たって割れたガラスが左眼につきささった時の描写。
「燃える火竜/白熱した炎」「深紅の闇/まっ黒な闇」ってやはり明らかにわざとらしく同系統の単語をくり返してるよね?
炎の眩しく燃え上がるイメージと、闇の冷たく広がるイメージを1文のなかで交互に提示している。炎→闇の推移を一度描けば十分な気がするが、炎→闇→炎→闇 としつこく二度も重ね書きする。


こういうのを文中のところどころで見かけるが、癖なのかな。本作に限って道具的に用いているのかな。

 

 


「兎を殺して調理して食する」ことと、「父親を殺す」ことがタブーとして扱われている?
前者によって「普通の人間」ではなくなり、後者によって「もう人間の世界には戻れないということを、改めて、はっきりと確認し」て、「兎の亡霊が自分にとりついたのをはっきりと自覚し」た。
とつぜん家族が消えるとか、兎を殺すことに快感を覚えるようになり、毛皮をかぶって兎になりすます(学校には行かなくなる)とか、ファンタジーとまではいかないがわりと非現実的なことを淡々と描写してきたが、上の2点がタブー的に作用していることに関しては現実の「常識」の範疇に物語が留まってしまったようで少し残念。


怪我した左眼だけでなく、そのうちに右眼まで見えなくなってくる。(兎は視力があまりよくないらしい)
左眼に兎の眼を模したガラスの破片が突き刺さった自分の顔を鏡越しに見た時のぞっとするほどの美しさが忘れられず、その姿を呼び起こすために飼っている兎たちの両眼をみんな刳りぬいてしまった。以前より兎を殺すことに快感を覚えなくなった。

 

ふーむ……グロテスクな光景に甘美さを感じる向きとか、「その時のあたしは、ぞっとするほど綺麗でした」というやや使い古された言い回しとか、結構ありきたりなことをやっている感じもする。殺して皮をかぶっていた兎に眼を傷つけられて兎のようになっていく流れも凡庸な変身譚というか、自分ー兎ー父親の三項をかなり理知的に取り扱っているように思える。

 

 

そして、私が彼女の素顔を見たのはこれが初めてだったのだが、彼女の顔が美しかったかどうか私にはわからない。 p.179

安直に「彼女の顔は美しかった」でも「醜かった」でもなく、「美しかったかどうか私にはわからない」なのめっちゃ良いな〜と思ったのだが、その後を読んでみると、「美しかったかどうか私にはわからない」のは、彼女の両眼とも潰れて酷いことになっていたからであって、「(原型を留めていないので、彼女の元の顔が)美しかったかどうか私にはわからない」ということらしいと気付いた。それじゃあそんなに好きでもないや

 

 

最初に「私」が兎少女に出会って語りだしたあとどうなったかが一切書かれずに「私が二度目に彼女にあったのは、ずっと後になってからだ」と飛ぶのは驚いた。一度目の邂逅と長話以後のやり取りが気になるが、そこはブラックボックスなのだなぁ
彼女が死んでいた(おそらく右眼にガラスを突き刺しての自死だろう)という展開も、兎のコスチュームを「私」が受け継いで、彼女ー兎ー私という三項をシステマティックに構築するオチも、想像の域を越えなかった。

 

 


というわけで、初・金井美恵子だったが、激推しされていたのでハードルが爆上がりして辛口というか穿った読み方をしてしまった感は否めない。自分でコントロールできるものではないが。
文体はうまぶってるな〜という感じ。(その超絶劣化版みたいなものを書いといて恐縮だが)
話の内容に関しては、社会から隔絶された空間で少女の静かかつ暴力的・官能的な振る舞いを辿るの自体は結構好みだと言える。ただし、兎と少女と私の三項の憑依-変身譚としてキレイにまとまり過ぎているところは好みでなかった。
それから、

書くということは、書かないということも含めて、書くということである以上、もう逃れようもなく、書くことは私の運命なのかもしれない。
と日記に記した日、私は新しい言えの近くを散歩するために、半ば義務的に外出の仕たくをした。
p.159

という、いかにも〜〜〜〜〜な冒頭には非常に辟易する。
一度目の長話以降を思い切ってカットしたのは「書かれないということ」なのだろうけれど。

 

 


・アカシア騎士団

「兎」と同じくルイス・キャロルが原文で冒頭に引用されている。どの短編もそうなのかと思って軽く調べた限りでは、本短編集でこの2編のみで Lewis Carroll 引用されているっぽい。なんたる偶然。一つの記事にまとめるのにちょうど収まりが良いな
最初の「愛の生活」では『鏡の国のアリス』が日本語で冒頭引用されているが。

 

 

私は彼の話を書こうと思う。ようするに、木やワニスの揮発性のにおいでも鎮めることの出来ない神経の話ということになるだろうか。 p.219

「神経の話」とな。たのしみ
語り手は小説家ということで、「兎」とともに私小説的な体裁をとっているのだろうか。

 

序盤の「私」の一人称部分を読んで、おそろしく稚拙で下品な言い回しになるが、「女性版村上春樹」という単語を想起してしまった。ほんとうに申し訳ない

「青年もしくは少年(と思えた)」風貌なのに、15年以上前に小説を書いていたということは軽く30は過ぎている筈だが、どういうことだ。めっちゃ若く見られるタイプなのか、作中人類の寿命がめちゃ長いのか、それともわずか数歳で小説を物したのか。なんか勘違いしてる?


プーサン(ニコラ・プッサン)のナルシス(ナルキッソス)とサロメ、絵画を全く知らないので調べた。
こういうポーズね、なるほど

 

 

彼は、今では木工場の経営者で、とっくに小説のころなのは忘れてしまっていて、時たま、書物のいっぱいつまった自分の部屋で、長い時間を一人きりで過すことがあっても、それは本を読むためというよりは、古い本の埃臭いにおいを嗅ぐためで、その臭いは、本の内容自体よりも、はるかに実在感のある、物質の臭いをたてるのであった。 p.220


埃「臭い」「におい」を「嗅ぐ」ためで、その「臭い」は……と、これまた露骨にすげぇ重ね書きしてくる。
「はるかに実在感のある、物質の臭い」という表現は感覚的な狙ってる感を感じてしまった。

 

 

こうして無事に暮らしていられるというのも、小説を書くなどという馬鹿気たことを、早い目にきっぱりと見切ったことのおかげで、わたしは、自分の文学的才能より、木材を信用するという、そんじょそこらの自己愛のかたまりじみた三文作家には、とうてい出切っこない客観的で物質的な、汚れのない人生を選ぶことが出来たのだ。本当に作家をやめてよかった。いわば悪夢から解放されたようなものだ。
どうやら、彼には新進作家だった時分に養ったらしい自己愛だけは、まだ残滓をとどめているようで、彼の言うように、作家が自己愛のかたまりであるのならば、まだ十分に作家として通用しそうな気配だったが、おそらく、そこまで自分を分析しない自己追求の姿勢の欠如のために、彼は小説というものにおのずから行きづまりを感じたのだろう、というのが当時の、なんらかの意味で枯れに注目していた、もしくは批判的だった数も多くはない批評家の意見の一致したところで、ああいった幼稚な小説は、いかに何でも発展性がなさすぎた、というのであった。 p.221

ここ草 辛辣ゥ!
どちらの段落も流石に文を狙って伸ばしてる感には若干イラッとくるが。

 

 


「彼はひどくもどかしい苛立ちを、手紙のために感じて腹を立てた」?
……あ、わかった。やっぱり勘違いしてたわ。彼=『アカシア騎士団』の著者=木工場の経営者("私"に物語っている人)で、彼のもとに手紙を書いた青年もしくは少年というのは別の人物ということね。完全に理解した。

 

 


「まったく新しく、同じ小説を書く」と聞けばボルヘス「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」を連想せずにはいられんよなぁ。こっちは(15年が経った)同一人物による取り組みで、ボルヘスのは別人物(実在の人物, 小説と、架空の人物)であるのが相違点。

 

 


学校に生息する秘密組織アカシア騎士団。こういうのワクワクするなぁ。地下鉄に生息する秘密組織を描いたコルタサルの短編「ノートへの書付」を思い出す。学校に潜む謎と殺人事件といえば恩田陸六番目の小夜子』か。
「小学校と一緒に卒業してきたつもりの〜」とあるが、中学校なのだろうか。というか、舞台が日本なのか若干怪しい。

 

 

そして、不正を見のがすことのない騎士たちは、不正を制裁するために呼び出し状を送りつけ、送りつけられる側には、それなりのことをされるに足る理由があって、しかもその理由は、正統と正義によって批難されるべき過誤や不正と決っていた。 p.227


ここも通り過ぎそうになる寸前で「ん?」と引っかかった。
「しかもその理由は」という文節の後ろで前の理由を説明するはずだが、ちょっと言葉を変えたくらいであんまし説明になってなくない?「不正を制裁するために」と「それなりのことをされるに足る理由」と「正統と正義によって批難されるべき過誤や不正」って言ってることほぼ一緒じゃん。


というか、木工場の主人が語り始めたこの枠内物語は、しかし「」で括られるような彼の直接の語りではなく、また"私"の一人称のままのようにも思えず(「私」がまったく出てこないため)、神の視点的な三人称で語られている、と見なしていいのだろうか。「今や、〜なのである」のように、工場長から話を聞いている「私」の時制からすると明らかに今じゃないだろという内容を今として語っているし……

 

とか言ってたら次パートで「ぼく」による一人称になった。「龍生」という転校生の名からおそらく舞台は日本。

 


「(前略)少年たちの組織に似合わぬ不釣合な豪華さに、ぼくは面食らった」(p.229)とあるが、「似合わぬ」と「不釣合な」の片方で良くない?頭痛が痛いよう。 やっぱり意図的に重複させて文/文章のリズムをコントロールしてるんかな。僕には冗長で稚拙だとしか思えない。あ、中学生(たぶん)の「ぼく」による一人称だからわざと拙くしてるとか?にしては語彙ありすぎだよなぁ


校長と担任教師が騎士団の書記とかw いきなりコミカル・戯画的になってワロタ


ボルヘスとか言ってたらまんまドン・キホーテについて語られ出した。現実と虚構。絵画を元に書いたはずの『アカシア騎士団』は作者が知らぬままに全て現実に起こった出来事だという……いかにも〜〜(どんだけ〜〜の抑揚で)

 

 

そして、何事も起らず、ぼくらは再び目隠しをされて、林の入口に連れ戻された。 p.233

うおお。何事も起こらないんかい!すげえ丁寧というかダラダラと場面を描写していたから、一気に省略されるとビビって新鮮に感じちゃう。「兎」でもそうだったな。


「ぼく」と聡明な友人が二人だけの秘密を抱えて過ごす日々……というと、どうしてもミルハウザーエドウィン・マルハウス』を連想しちゃう。「ぼく」側の情報が少なく意図的に隠蔽されている感があるのもそう。死の匂いが立ち込めているのも。
それから化学実験室の細かい情景描写もちょっとミルハウザーっぽい。

 

 

なだからで妙に明るい不眠と孤独が、ぼくの感覚を敏感にさせた。 p.236

この1文好きだな

 

 

よく晴れて冬だというのに、ぼくの部屋は、かすかに湿っていて何種類かの薬の匂いがその湿り気の中にまじっていた。 pp.236-237


ずっと思っていたが、読点の位置がヘンテコというか独特じゃない?
ここの文も、「よく晴れて冬だというのに、ぼくの部屋はかすかに湿っていて、何種類かの……」とするか、もっと減らして「よく晴れて冬だというのにぼくの部屋はかすかに湿っていて、何種類かの……」とするのが自然な気がするんだけど、「ぼくの部屋は/かすかに湿っていて」を読点で切り離すにも関わらず「かすかに湿っていて/何種類かの」は一息で切り離さないのがとても不自然に思える。わざと?僕の読点の感性のほうがバグってる?
この文のみならず、入れないでいいところに読点を入れて、入れるだろうというところに入れてないことが2ページに1ヶ所くらいの頻度である。

 

それから龍生は、その短い冬の黄昏の南の空の雲のかたちや、わずかの時間に、インジゴの濃度を深めて行く空の色や、死体(……)の見開かれた眼に映っていた枯れた偽アカシアの枝の形、身体から切り離されて首だけになってもまだ見開いた眼が、小さな鏡のように偽アカシアの枝を映し、さらに龍生の顔を映し、それ等がやがて、濃さを増す林の中の夜に飲みこまれ、枝と樹の編み出す大きな籠の編み目ごしに、星が煌めいて見えたことを語った。 p.237


おい!!!これは流石に狙ってるでしょ!
「見開かれた眼に映っていた枯れた偽アカシアの枝の形」と「まだ見開いた眼が、小さな鏡のように偽アカシアの枝を映し」なんてほぼ同じ内容なのにひとつの文中で並んじゃってるし、「その短い冬の黄昏の南の空の雲のかたち」と「わずかの時間に、インジゴの濃度を深めて行く空の色」もわざわざ言い直さなくても「その短い冬の黄昏の南の空の色や雲のかたち」で良くない?「かたち」「形」と表記を変えるのももはやお馴染みの手法。極めつけは「枝と樹の編み出す大きな籠の編み目ごし」!!! 編み出す編み目ごし……笑ってしまった

 

 

だから、あくる日の新聞に、学校の裏手の林の中で、首を切り落とされた生徒の死体が発見された、というニュースが載っていることを両親に聞いた時、ぼくは、親たちとは別の意味で驚いたのである。非現実の世界で起きたことが、新聞に報道される、ということに、驚いて耳を疑ったのだ。 p.238

こはちょっとおもしろいな。
当の犯人から前日に直接聞いていても特になにも動揺しなかったのに、翌朝新聞の報道を見て驚くという倒錯。前日彼に言った「非現実だと認めてしまえば、かえってそれを受け入れるのは簡単なことだと思うね」という台詞そのままの反映なんだけど、「現実/非現実」とか、「現実/虚構」のような抽象的な対立構造で弄ばれても(凡庸過ぎて)響かなかったことが、こうしてニュースを見て驚くという現実の行為に移植・反映されるとおもしろく感じる、ということを発見した。


学校の秘密組織、顔は白い紙で覆い隠す、そして密告……もしかして和田たけあき『チュルリラチュルリラダッダッダ』の元ネタってこれ???知らんかったわー

 

 

あくる年、冬休み明けの学校へ復学してみると、龍生の席には誰もいなくて、あいつは今日は休んだの? と同級生に聞くと、彼は神妙な顔をして、あいつ? 誰のこと言ってるの? とたずね返し、ぼくは、質問をかえた。 p.239

死神代行篇でルキアが尸魂界に連行されたあとに登校した一護と桃原の会話じゃん

 


「ぼく」の語りは意味深な閉じ括弧"』"で締められるんだけど、これに対応する"『"が見渡しても見つからない。やっぱそういう意味深なやつですか。

 

 

締め方はやはりやや唐突というか、工場長のお話しを聞いての「私」の反応などは一切語られずに、『アカシア騎士団』と手紙についても宙吊りになって終わる。(純文あるある)
ただ、

私は、もちろん、あの木工場へ通うこともなくなった。なぜ、作家にあうために木工場へ通う必要があるだろう。そこは、もう私のあこがれていた静かな仕事場ではなく、ありふれた凡庸な作家の書斎で、それならば、自分の部屋にいるのと同じことだった。 p.240

という後日譚で終わる。(言わせて。「ありふれた凡庸な」!!!)

こういう終わり方をされると、木工場長の「作家辞めて良かった〜〜」という自己愛あたりの描写が本作の重要なテーマというか、虚構/現実うんぬんというより、結局のところ「作家」についての小説だったのかな、と思わされてしまってなんか嫌だ。終わり方ひとつで全体の読み方を左右されとうない〜


区切られたパートごとの語りの位相の関係や最後の意味深な』の件とか、わりとフクザツで作り込まれてそうだとは思うけれど、文体も話もそれほど惹かれない。エド丸やなぁ……で終わってしまう。

 

 

というわけで初の金井美恵子、短編を2つ読んだが、どちらも今ひとつだった。

わかったのは、
・一文が長い
・読点の打ち方が独特
・似た単語, 表現を重ねがち
・小説家である「私」を語り手にした枠物語を書きがち
・文体は端正だが個人的にそれほど面白みがない

あんまし好きになれる気がしないな……

 

そういえば書いてるときに気付いたのが、自分は好みでない小説を評するときに「いかにも」という単語を使いがちであるということ。要するに何らかの意味で「いかにも」だと思ってしまうようなやつは苦手だ。

しかし、「いかにも」だから苦手というより、苦手だから「いかにも」だと思うのかもしれない。にわとりたまご

結局は個別の事例を具体的に検証するしかないのかなぁ

 

 

 

ちなみに、各20ページほどの短編2つをメモしながら読むのに、合計5時間以上かかった。読むの遅すぎィ!

 

 

 

 

 「喉から無限に雛鳥を吐き出すようになってしまった男の話」じゃなくて「喉から無限に子ウサギを吐き出すようになってしまった女の話」だった。

「パリにいる若い女性への手紙」

 

愛しのグレンダ

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「ノートへの書付」:地下鉄に潜伏する秘密組織の話

 

伝奇集 (岩波文庫)

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 みんなだいすき「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」

 

六番目の小夜子(新潮文庫)

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