「息吹」テッド・チャン

短編集『息吹』に収録されている表題作「息吹」のみ読んだ。

○息吹
「僕がなぜSFを好きになれないか」という懸案について多くの洞察が得られたという点においてのみ、読んで良かったと思う。

 

僕が本を読むときには、大きく分けて2つのモードを半ば無意識に使い分けている、と考えよう。
数学書や物理の教科書、哲学書なんかを読むときの「合理的・論理的で理屈っぽい」モード(クリティカル・シンキングというやつ?)と、文学作品を読むときの「情緒的・感情的・非論理的な」モードだ。
そしてSFを読むときには前者のモードになってしまうため、提示される設定や展開、描写にいちいち真正面から理屈で向き合って考えてしまい、語られている理屈の穴や粗をあちこちに発見してしまって、一気に魅力が失せる。
 
SFのSFとしての魅力とは、科学的・合理的な想像力に基づいて世界観を提示する、理屈に裏打ちされた面白さだ。だからそこに乗れなければ何も面白くない。
ブラッドベリSF小説は好きだが、それは文学的な描写が好きなのであって、SF要素を取り除いてくれればもっと好きになるだろう。

 

この「息吹」もいろいろと頑張ってアイデア勝負で世界観を練ってきて、その語り方、披露の仕方も上手いのだろうとは思うが、だからこそ様々なところに突っ込みたくなって、全然楽しめない。(「様々なところ」の具体例をいちいち列挙するのはもっとうんざりする行為なのでやりたくない。ひとつだけ挙げるならば、「気圧差」と「密閉された世界の大気圧上昇」の2つもギミックが必要なのか?要らなくね?と思う。というかこれらの関係性がよく掴めていない。)
 
さらに悪いことに、最後にはそのSF的設定よりも、謎のヒューマニズムというか、安っぽい自己啓発のような希望を称揚し始めたので反吐が出そうだった。それまでの論理での展開の仕方から急転直下、あまりにも一気に雑になってびっくりした。

 

こういうSF小説を楽しめるひとは……なんだろうね、理屈が目の前に現れたときにこちらも反射的に理屈で武装をせずに、そのまま素直に受け入れられるひとなんだろうか。こういう作品の鑑賞という点においてはそのほうが幸せだろうと思う。

 

意固地になってしまうのは、僕がどこまでも理屈っぽい人間で、なおかつ「自分は理屈っぽい人間である」ということに対して無意識に強いアイデンティティを抱いているからなのだろうか?
SF小説(=他人の論理的想像力!)に感動することは、自分の論理性の「敗北」であり、ひいては自分自身を否定されたように錯覚してしまう、とか?

 

SFというジャンルの必然性が分からずにいたが、この王道かつ最高峰のSF小説を読んで、むしろSFというジャンルの特性が自分の中で明瞭になったと感じられる。それは同時に、自分はSFが嫌いだとより強く主張できるようになったことも意味するのだけれど。


このままSF作品をマゾヒスティックに摂取し続ければ、「論理とは何か」そしてその裏返しとなる「文学(性)とは何か」について自分なりの考察がめちゃくちゃ捗る可能性が高い。しかしSFを読むのは苦痛である。読みたくない。うーむ、ジレンマ…… 

息吹
テッド チャン
2019-12-04