『車輪の下』(1)ヘルマン・ヘッセ

 

 

 

義務教育で読んだ「少年の日の思い出」を除けば、初ヘッセ。
「お前好きそうなのに読んでないの意外」と複数名に言われながらもここまで通ってこなかった。

荒野のおおかみ』とか『ガラス玉演戯』とかを本当は読みたいのだけれど、そうした後期の名作をじゅうぶんに味わうには初期の有名作をかじっておいたほうがいいのではと考えて、自宅の本棚にあったこちらを手に取った。

 

 


1章と2章を読んだ。神学校へ入学するために故郷の町を発つところまで。

 

 

ザ・文学って感じの作品。文章は端正で美しく、プロットがわかりやすい。情景描写まで、それが主人公のどのような心情を反映したものか、あるいは物語の上でどんな意図をもって差し込まれているのかが露骨にわかってしまう。初心者向けの文学というか、これが古典的名作として多くの人に読まれているのは非常に納得がいく。

 

情景描写の露骨さにはじめ苦笑していたのだが、次第に慣れてきたのか、とはいえやっぱり美しくて良いなぁと思うようにもなった。特に「静けさ」の表現が好みだ。

まったく静かだった。橋を渡る車の音もほとんど聞こえなかった。水車のがたがた鳴る音もここではごくかすかに聞こえるだけだった。白くあわ立つせきの穏やかなたえ間ないざわめきだけが、平和に涼しく眠たげに響いて来た。それから、いかだのくいに水があたってぐるぐるまわる低い音がした。 p.51

また、夏の暑さを以下のように表すのにも感嘆した。

見上げると、ムックベルクの上に、手のひらほどのまぶしい小さい雲が二つ三つ浮かんでいた。暑くなった。青空の中ほどに二つ三つじっと白く浮かんで、長いあいだ見ていられないほど光をいっぱいに吸いこんでいる静かな小さい雲くらい、晴れた真夏の日の暑さをよく現しているものはない。そういう雲がなかったら、どのくらい暑いかを気づかぬことが多いだろう。青空でも、ぎらぎら光る川面でもなく、丸くかたまった真っ白い真昼の雲を見ると、たちまち太陽のやきつくのを感じ、日かげを求め、汗にぬれた額の上に手をかざすのである。 p.50

入道雲とかでもなく「小さい雲」に夏の暑さを最も感じるというのが、ピンとくるようなこないような微妙なラインで印象に残る。

 

それから、三人称の語り手がかなり雄弁であり、それが何らかの実験的意図を持っているのではなく、あくまで自然な小説の作法として行われている感じに、昔の小説だな〜と思う。(ここでいう「昔」とは、ジョイスプルーストモダニズム以前の小説?)

冒頭で主人公ハンスの父親の凡庸さについて2ページほどかけて描写したあとに「彼のことはこのくらいにしよう。この平板な生活とみずから意識しない悲劇とを叙述することは、深刻な皮肉屋だけのよくすることだろう。さて、この男には一粒種の男の子があった。その話をしようというのである。」(p.6)という語りによって主人公の紹介へと移っていくところなんかは特にそうした古風な趣を感じた。

 

基本的には "お行儀の良い" 作品だが、ときたま、シニカルなユーモアを交えた文章があって、そこはかなり好みだ。ひょっとするとユーモラスな意図はなく、大真面目に書いているのかもしれないが、わたしはオモシロ描写として受け取った。


例えば、神学校の入学試験中に故郷のみんなが思い思いに(合否に賭けたりなどして)ハンスのことを気にかけている、という描写のあとの一文。

心から思いやりのこもった願いと深い同情は大きい距離をたやすく越えて遠くまで達するものであるから、ハンスにも、故郷でみんなが自分のことを考えているということが感じられた。 p.28

 

あるいは、誇張した言い回しの面白さもある。

「通りますとも。通りますとも」と、校長はうれしそうに叫んだ。「あのくらい利口な子はちょっといませんよ。よく見てごらんなさい。まったく精神そのものになったように見えますよ」
最後の一週間のあいだに、精神そのもののようになる傾向は目立って強かった。かわいらしい、きゃしゃな顔に、おちつかないくぼんだ目が、濁った光を放っていた。 p.12

「まったく精神そのものになった」というオモシロフレーズが登場人物の口から発せられ、すぐ後の地の文でそれを茶化したり否定したりせずにむしろ肯定してしまう、という一連の流れに笑ってしまった。うまい

 

また、以下のシーン/セリフは単純に痛快で良かった。

「おめでとう。さあ、なんとかいわないかい?」
少年は、意外さと、うれしさにまったくこわばっていた。
「おや、何にも言わないのかい?」
「そうだとわかっていたら」という言葉が思わず彼の口をついて出た。「完全に一番になれたのに」 p.42

主人公ハンスは、プロット上「そういうキャラ」として作られている感が強く、作中でも周囲の大人たちに翻弄されるために彼自身の内面の個性や息づかいが感じにくいのだが、このような奔放で傲慢な言動をしてくれると親しみがぐっと湧く。

 

 

ストーリーについての感想は今のところ「中学受験を思い出すなあ」くらいで特になにか言うべきところはない。あらすじが色んなところでネタバレされているし……

息子へと期待しているくせに、親が受験中に会場で待っていたり、迎えに行ったりしてあげないんだ・・・とは思ったけど、そのほうがハンスも1人で町をぶらつきながら帰れるから良いんだろうな。

 

 

『縛られた男』(1)イルゼ・アイヒンガー

 

20世紀のユダヤオーストリア作家であるイルゼ・アイヒンガーの短編集で唯一邦訳されている『縛られた男』を借りてきた。

 

 

 

じぶんが愛読している読書ブログのひとつである『もれなくついてくる何か』にて紹介されていたのが直接のきっかけだ。

blog.livedoor.jp

『もれつい』では同作者の第一長篇『より大きな希望』を「殿堂本候補」として絶賛しており、ここ数年1冊も「殿堂本」に認定していないこの人がここまで言うなら……!と強く興味を持った。すぐさま図書館で調べると、この短編集『縛られた男』のみ収蔵されていたので、こちらを読むことにした。

 

 

序文を含め最初の5篇を読んだ。

 

 

・この時代に物語るということ

この短編集への序文・まえがき的な立ち位置の短いエッセイ

「死に相対するためのもの」としての物語論を展開する。

フォルムというものは安心という感情からは決して生まれるものではない。フォルムはいつでも終末に向かい合ったときに生まれるものだ。 p.18

まさしく終末から始めて終末に向かって語り始めるのだ。そうすれば世界は再び我々に向かって開かれる。そうして絞首台の上から物語り始めて、人生そのものを物語るのだ。 p.19

これから読もうとする小説の姿勢・位置づけをあらかじめ読者に説教するようなことはあまり好みではないが、しかしナチス・ドイツ下での戦争体験から紡ぎ出される言葉には、さすがにそこらへんの「とりあえず死を匂わせておけばいい感じにエモくなるでしょ小説」とは格が違うと思わせられた。

(筆者のプロフィールを知っているからこそ、それに引っ張られてこのように思えるだけではないのか、という向きもあるだろうが、それを抜きにしても文のうまさと凄みは感じざるを得ない)

このなかの物語のひとつにひとりの少女が出てくる。この少女は、死に際にその一生を鏡で映したようにもう一度体験する。そこで少女は恋人と最後に会ったときに出会い、最初に会ったときに別れ、物語の最後の方ではお下げ髪がまた伸びて、試験のたびに知っていたことを一つ一つ忘れ、最期の瞬間にはついにこの世に生まれ出るのである。 p.19

 

 

 

・縛られた男

目が覚めたら身体を(絶妙な具合に)縛られていた男がサーカスにスカウトされて活躍する話

唐突に始めた興行が超スピードで大ヒットする展開にはサエール『孤児』の中盤を連想した。

 

「さあ、縄男の登場です!」夏が近づいていた。夏は窪地にある魚の住む池にだんだん深くかがみ込み、暗い鏡の中の自分の姿にうっとりと見とれ、川面をなで、平野を元の姿へと戻していった。 p.33

多分ちゃんと縛る暇がなかったんだと思います。だってどう見ても、動かないように縛ったにしては緩すぎますが、かといって動くにはちょっときつすぎるんですよ。でもあなた動いているじゃないですか。と観客は言った。ええ、でも他にどうしろっていうんです。男は答えた。 p.34

前の晩の歓声はもうかなたに薄らぎ、夢うつつのなかで、首と頭だけが自由にうごくのだ。首吊りとちょうど逆の状態だ。全身がんじがらめだったが、首の周りだけ縛られていない。 p.37

 

言ってしまえば「カフカ的」な、不条理性と諧謔性にあふれた短篇でそこまで面白みはないのだが、一点、サーカス団長の妻との関係の描写が面白かった。

「縛め(いましめ)」が、単に男ひとりの行動を制限するものというだけでなく、女性との不倫疑惑へのアリバイ・貞操帯のように機能していて、なるほどなぁと思った。

そのうち団長の妻には縛めが心配なのか縛られた男が心配なのかわからなくなってきた。(中略)縛めが解けたら男は去って行くだろう。あの歓声も一緒に去って行くだろう。誰にも疑われずに川岸の石の上に男と並んで座ることも出来なくなるだろう。あの縛めがなければ男はこんなに近づいてはこないだろう。あの明るい夕暮れの語らいは縛めがあってこそのものだったのだ。話題はいつも縛めのことだけだった。彼女が縛めの利点を話すと、男はその負担の話をした。そして縛られているゆえの喜びに話が及ぶと、彼女は縛りを解いてくれと男に迫った。それはいつまでも終わらぬ夏のような堂々巡りだった。 pp.39-40

冒頭、縛られた男が目を覚ますくだりには執拗な「光」の描写があり、また上記のように「夏」も重要なモチーフとなっている。季節が夏から秋へと変遷し、肌寒くなることが縛られた男にはクリティカルに作用する。

 

人間を敗北させる自由な身ゆえの致命的な優越性を自分は失っていることを、男は軽い興奮のうちに感じていた。 p.43

このへんはなかなか難しい

 

オチはまぁ……という感じ

 

 

 

 

開封された指令

重要っぽい指令を届けるように命じられた男が道中で開封しちゃう話

 

男は落ち着いてしっかり運転を続けた。しかし道が突然めまいを起こしたように自滅的に急勾配になっているところを上手く切り抜けたと思ったとたん、車はぬかるみにもろにはまり込んでしまった。 p.56

「突然/めまいを起こしたように/自滅的に/急勾配になっている」道、という表現の修飾過剰さがおもしろい。

 

最初の一発が発砲されたとき、男は自分の意志に反して早く発砲してしまったと思った。しかし、弾が前に座っている若者に当たったのなら、運転手の幽霊はすごい反射神経をもっているのだろう。なにしろ車はさらにスピードをあげて走りつづけていたのだから。 p.58

「彼は撃たれたはずなのに運転をやめない」=「彼の幽霊はすごい反射神経をもっているのだろう」という発想がおもろい!

 

最初の三十分が沈黙のうちに過ぎていった。時間と道のりは互いを食い殺す狼のようだった。 p.59

かっこいい

 

彼らは広場を回った。車の中でまっすぐ座ろうとがんばっている間、男は世界中でここほど目的地らしくないところもないと思った。ここのあらゆるものが出発点に思われた。 p.60

良い

 

出血は鍵のかかった扉からの脱出のようだと男は思った。あらゆる検問所を突破するようなものだと。向いの壁に反射した明かりで雪明かりのように照らされている部屋は、一つの状況としての顔をあらわにした。あらゆる状況の最も純粋なものは孤独、そして流血は行動ではなかったか。 p.62

テンションあがる

 

「指令は実は暗号で、文面通りではありませんでした」というオチには肩透かしを食らった。

 

 

そういえば、上記3篇とも「川」「岸辺」の存在が無視できない。

序文で

しかし岸というのは川にとっては以前から境界を意味してきたのではなかっただろうか。川はその憩うことない河床にいつでもその流れを預けてきたのではなかったか。そしてかつて語られていた物語もみな境界によって、しかも恐ろしい境界によって摂理されてきたのではなかっただろうか。 p.18

と象徴的に書いている通りのことを実作でも表現しているのだろうか。(あんまり興味はない)

 

 

 

 

・ポスター

「お前は死なない!」
ポスターを貼っていた男は言って、自分の声に驚いた。 p.67

つかみが満点

 

真昼の静けさは、重い手のように駅の上にのしかかり、光は自らの氾濫に呑みこまれたかのようだった。ひさしの上の空は暴力的なまでに青く、守るようであり、また同時に崩れ落ちてきそうでもあった。そして電線はとっくに歌をやめてしまっていた。遠くは近くを絡めとり、近くは遠くを絡めとった。 pp.67-68

「お前は死なない!」
男はふてくされたようにもう一度言って梯子の上からつばを吐いた。白い敷石の上に血が落ちた。頭上の空がぎょっとして目をみはったようだった。それはまるで誰かが空に、お前は決して夜にならないと宣告したかのようだった。それはまるで、空自身がポスターになって、海水浴場の宣伝のように大きくてかてかと駅の上に貼られているかのようだった。 p.68

この辺まではほぼ完璧だと思う。直喩が非常に多いが、高確率で決まっている。

 

ただ、その後、リゾート海水浴場のポスターの中の若い男の視点に移ってしまい、やや残念だった。「絵のなかの人物の語り」はありふれているし、前向きな広告(プロパガンダ)にひそむ不気味さ・グロテスクさ──というテーマもわりかし陳腐だ。

 

波しぶきの中の若者だけがただひとり、黄色い浜辺の果てにあるはずの陸のような反逆心を抱いていた。 p.69

「陸のような反逆心」……?

 

死ぬというのはもしかしてボールを飛ばすような、そして腕を広げるようなものなのかもしれない。死ぬというのは、潜水したり問いかけたりすることなのかもしれない。 p.72

 

明るい色の服を着た女の子が三人ばたばたと階段を降りてきた。そして梯子の周りに寄ってきて、男をじっと見詰めた。ちょっといい気になった男は今日三度目ではあるが「暑いな」と話し掛けずにはいられなかった。三人はようやく喜びや悲しみの原因がわかったかのように、もっともそうにうなづいた。 p.73

最後の直喩がえぐい

 

遠くで次の電車がゴーゴーと近づいてくるのが聞こえた。音が聞こえたのではなく、それによってますます静けさが増したようだった。明るさが極限まで行きつくと、黒い鳥の群れに姿を変えて羽音をたてながらやってくるようだった。 p.74

直喩のオンパレード

現実の代替物たる「ポスター」と、描写の代替表現としての「直喩」を結びつけてうんぬんかんぬんできそう

 

梯子のそばにいた女は手が空いているのに気づいて、近くを手探りした。彼女は天国を掴み取るかのようにして誰かの服の裾を引っ張った。 p.75

 

 

「僕は死ぬ!」若者は叫んだ。「僕は死ぬぞ!誰か僕と踊らないか?」 p.78

 

 

終盤で大きく物語を動かしてラスト数行/1ページでいい感じに余韻を残す着地をする、この人の常套手段。

ポスターが剥がれたのはいいけど、結局女の子がどうなったのか直接描かずに意味深な感じにしていてう〜ん……

 

決してつまらなくはないのだが、同じプロットをコルタサルあたりが書いたらもっと面白く(=自分好みに)なるという気がする。『愛しのグレンダ』収録の「猫の視線」を連想した。

 

「川」と「岸辺」にこだわりのある作者だが、本作でも「線路」と「駅のホーム」がキレイにそれらに対応している。

 

 

 

・家庭教師

部分的に引用して「ここがおもしろい!」と言いたくなるところは無いが、全編を通じてイヨネスコの不条理演劇のように子供と家庭教師の会話がすれ違っていてちょっとおもしろかった。

最終的には不条理ホラーのようになる小品。

 

 

 

 

 

 

 

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続きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

「猫の視線」

 

 

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「黒い豚の毛、白い豚の毛」閻連科

 

 

書店で閻連科の新刊『心経』をパラ読みして「世界五大宗教の信徒たちが一堂に会して綱引きをする」的なあらすじにめっちゃ面白そう!!!となり、しかし長篇に手を出すのにビビってまずは短篇集から……ということで、図書館で自薦短篇集『黒い豚の毛、白い豚の毛』を借りてきた。

 

 

 

その表題作を読んだ。

 

 


・黒い豚の毛、白い豚の毛

 

最後まで読むと、なんだか(日本の)高校の現代文の教科書に載せてもいいくらいキレイにまとまった短編だった。
人殺しの罪をかぶり牢屋に入ることが、村の皆に自慢できる超光栄なこととして扱われていることの倒錯的なおかしみが根底にある。家父長制・階級制という保守機構のなかで反発しようにも適応しようにも失敗し、生の尊厳をすり潰されていく貧民の話。
最後のオチは、言われてみればそりゃそうだ、と納得するしかない展開で、惨めな人生に一筋の光が差したかに見えた主人公に、救いがたい現実を突きつける。
まぁこれを国語の教科書に載せたら、それはそれで中国という国の印象操作だイデオロギーだと問題がありそうだが。

 

初・閻連科だけど、これだけ読むと、評判で聞いていた、発禁処分を受けまくりソローキン並にヤバい作家、という印象はまったく受けず、むしろ基礎をきちんとこなす正統的に上手い作家だと感じる。訳者あとがきでもそのようなことが書かれている。だからこそ閻連科入門にぴったりだと。


嗅覚と視覚と聴覚の描写のコラージュ具合が巧み。
冒頭から匂いを色で表しているし、季節や一日の移り変わりを音で表現しがち。

夜は底なしに深く、屋根の李の家の店からときどき伝わってくる豚の鳴き声のほかに、村には月光が移っていく音さえもなかった。荷物の仲の新しい靴や古い服、半分腐りかけの石けんの匂いや靴底に粘り着いた穀物の甘い匂いが、部屋の中に淡くふんわり漂っていた。(中略)おやきやネギやごま油の匂いが川のように流れて、テーブルの上から床へサラサラと流れ落ちていた。 p.29


「〇〇は〜〜のよう」という直喩で例えられる「〜〜」の部分が、日本に住むわたしにはいまいち馴染みのないものであることがしばしばで、とても面白い。

直喩以外にも、ふとした仕草がじぶんには奇異に思える(が、作中では平然と行われているし、平然と描かれている)ことがあり、それが本作を読んでいてもっとも興味深かった。
家の庭で父親の前に座るときに靴を片方脱いで敷くとか、そもそも「もし自分が約束を破ったら俺はあんたの孫(曾孫)じゃ」という言い回しで、孫=奴隷のように扱われているのが凄い。メインテーマの家父長制の抑圧にもばっちり繋がっているし。

 

長距離トラックの運転手が、急ぎに急いでアクセルを踏んだまま緩めないのも、その東の部屋に泊まりに行くためなのだ。 p.9

この言い回しおもしろくない?「急ぎに急いでアクセルを踏んだまま緩めない」

 

父親と母親はそう言われて言葉を失い、座っている尻の下から靴を引っ張り出すや投げつけるものだから、飯場じゅうに埃が舞い上がり、みんな自分の茶碗を胸元に隠すのだった。 p.10

尻の下から靴を引っ張り出して投げつけるのもおもろいし、埃が飯にはいらないよう「自分の茶碗を胸元に隠す」のはもっとおもろい。

 

息子の根宝はまた父親をじっと見た。夜で、父親の顔に、どれだけ分厚く、一体何斤の重さの驚きが浮かんでいるかははっきりと見えず、ただ漆黒の塊が、木の切り株のようにそこに立ち、そこに固まっているのが見えるだけだった。はっきり見えないので、もう見るのはやめ、靴を片方脱ぐと、それを敷いて父親の目の前に座り、両腕で膝を抱え、両手は豆の皮でも剥いているかのように、ポリポリ音をさせて動かし、父さんの質問にはすぐに答えなかった。 p.12

驚きの程度を重さで、しかも「何斤」単位で表現するのが新鮮
靴片方脱ぐのは上記の通り

 

 

 

 

 

 

 

『踊る自由』大崎清夏

 

おとといの夜、雨が降りしきる新宿をわたしは歩いていた。わたしの隣にはお腹をすかせた人が歩いていて、わたしはその人に連れられるままに、ブックファーストへ向かった。地下の入口へ下る階段に、まるで映画の撮影をしているかのように、ダイナミックに寝そべった男女が顔を密着させていた。雨などまったく気にしていないか、むしろ雨だからこそその行為を決行しているかのどちらかであるようにわたしには思われた。わたしはぎょっとして階段に踏み出すのをためらったが、お腹をすかせた人は力強く階段を下っていった。その背中がわたしにはたいそう頼もしく見えた。

 

店内に入り、海外文学の棚の前にふたりで立った。そこは、以前わたしが別の人と待ち合わせたのと同じ場所だった。そのときと同じ赤いボストンバッグを床に置いて──これは迷惑な振る舞いである──わたしはもうひとりの人と本棚を眺め、そこに刺さっている本について言葉を交わしあった。まずラテンアメリカ文学の棚から──もうひとりの人がわたしに合わせてくれたのだと思われる──次第に左側の、ドイツ文学やフランス文学のほうへと移動していった。

 

一面の棚についてひととおり言葉をかわしあった後、右側の壁面の岩波文庫コーナーへ行き、似たようなことを繰り返して──「トリストラム・シャンディが無い!」「絶版ですよ」──「響きと怒りは他の文庫からも出ていたのでしたっけ」「文芸文庫にあります」「ああ、講談社文芸文庫」──そろそろ閉店時刻だからとレジへ向かう際に、先ほどの、海外文学の棚と向い合せになった棚に足が止まった。背後にあって気付いていなかったところに、ピンチョン全小説だとかなっちゃん全集だとかが並んでおり、その右側には詩歌のコーナーがあった。

 

海外文学の棚の前で言を弄していたときから、表紙や装丁の良し悪しが話題になっており、わたしは詩歌の棚に平積みされていた本に惹きつけられた。(いや、正確には表紙に惹かれたのではなく、その見慣れぬ出版社名──左右社──に引っかかったのだったかもしれない。)それはチョコレート色の地に金色の図形があしらわれた詩集だった。

 

 

踊る自由

 

踊るのが好きなわたしはタイトルにも惹かれないわけにはいかなかった。悔しいが。

 

 

以前から言っているように、最近のわたしは、小説の枠組みに入るか怪しいような、散文詩に近いぶっとんだ小説を好むと言いながらも詩をほとんど読んだことがないことに焦燥感を抱いている。わたしよりずっと詩にも詳しいもうひとりの人もそのことを知っているので、この本を手にとってパラパラめくり、「良さげ」と呟くわたしを好ましく見ていたのだろうと思う。

 

手にとってひらいて、最初の二篇「触って」「両性の合意」を読むというより見て、わたしは「これ良いかも」と呟いたのだった。もちろん、現代詩を1冊も通読したことのないわたしがここで発した「良いかも」とは、同時代の作品と比較したり、歴史的な文脈と照らし合わせたりしたのでも、またわたしの詩の好みに合いそうだということでもなく(どうして読んだこともないのに「詩の好み」を形成できるだろう)、もっと主観的かつ行為遂行的な理由──夜の、雨の、新宿の、他人に見られながら、わたしの目で見つけてわたしの手でとってひらいた、こうした出会い方をした一冊の詩集を買うことでしかわたしは詩を好きになれないのではないか、このタイミングを逃したらもうわたしは──によってわたしは「これ良いかも」と口に出したのだった。おそらく。そうでないよりは。

 

ということで、岩波文庫響きと怒り(上)』(日和って下巻は買わなかった)とともに、大崎清夏『踊る自由』をレジへ持っていき、有料の袋ごとリュックサックへいれて、コンビニおにぎりを食べて少しだけお腹が満たされた人と別れ、夜行バスに乗り込んだ。バスに揺られているあいだじゅう、足元にはリュックサックが──つまり、購入した詩集が──あった。早朝に帰宅し、デスクトップPCを起動してエロゲを少しやり(そういう気分だった)、就寝し、起床し、登校し、下校し、エロゲし、就寝し、起床して、買ってきた詩集を読み始めた。その翌日の午前中、さきほど、読み終えた。

 

詩集の内容の感想に入るまでにこれだけ前置きを書き連ねたことからわかるように、わたしは作者の名前もまったく知らないこの本に対して、詩の経験が乏しいわたしを豊穣な詩の世界へ導いてくれるような「運命の一冊」として期待していた節がある。(理想的な書店の使い方!こういうことがないからネット書店は、電子書籍はダメなんだ!)

 

白馬の王子様を待ち焦がれる可憐な淑女のそれとまったく同様に、わたしの期待は成就しなかった。ここですかさずわたしは幾つかのエクスキューズを挿入しなければならない。ひとつ、「期待はずれ」といっても字義通りのものではなく、ただわたしの期待が不当に高く非現実的過ぎただけで、決してつまらないものではなかった。ひとつ、そもそもわたしは詩集を読んだことがほとんど無いのだから、その良し悪しの判断や、もう少し穏当に言っても好き嫌いの判断をする能力がまだ十分に醸成されておらず、めくるめく感動を経験できないのはきわめて自然なことである。(数年前、海外文学を読み始めて最初の頃は読む本読む本ちっとも面白いと思えなかったことを思い出せ!)ここで訳知り顔の先達たちはひょっとすると次のように言うかもしれない。「詩を読むのに経験などいらない。誰しもが、あなた自身の感性に基づいて詩を楽しめばよい」などと。「訳知り顔の先達たち」の台詞としてこのようなハリボテしか生成できない点にわたしの詩の教養の無さを感じ取ってほしいのだが、自衛と同義の自虐は置いておいて、すべての建前や自分語りを乗り越えて、わたしはそろそろ詩の内容に踏み込まなければならない。

 

 

『踊る自由』は凝った装丁の詩集だ。普通の本にあるような表紙カバーが存在せず、本編の紙束と一体となっている。カバーの折返しのそではあるが、そこからカバーをめくろうとしても取り外せずに驚いた。

100ページ強のなかに「ふたりで」「ひとりで」「松浦佐用媛、舞い舞う」という3つの連作詩(であってるの?)が収録されている。それぞれの連作詩は10作の短い詩から成り立っている。10×3=30作 ≒ 100ページ

 

ひとつひとつの作品の感想を述べはしない。(述べられるほど特に思うことがない。読んでいる最中はあったのかもしれないが今はもう忘れてしまった。読中に書き残さないのも、直ちに再読をしないのも、ひとえにわたしの怠慢である。)

 

全体的に、わたしがなんとなく「現代詩ってこういうものなんだろうな」と想像していた現代詩っぽさ、ポエジー、意味のわからない部分とわかる部分の塩梅、抒情、エモさ、そうしたものは感じられた。そうしたものとしてしか感じられなかったのはわたしの怠慢か、控えめにいってもわたしの責任である。

 

ところどころ「良いな」「すごい!」と思う部分はあったと思う。ただ、それは一文や数行やせいぜい一段落しか続かずに、その詩を最後まで読むと、最初に感じた良さが霧散してしまうような印象を受けることがしばしばあった。

 

例えば、連作「ひとりで」より「プラネタリウムを辞める」の冒頭

 

Iさんがプラネタリウムを辞めた。雨の
   降っている日だった。毎朝いちばん早く起きた
 人が空を見ていい天気かわるい天気か決める街でその日はわるい
ということになっていたけれど、雨はわるくないことを誰も
     わるくないことをIさんは知っていた。誰も
  わるくなく雨もわるくなくてもプラネタリウムの仕事を
辞めなくてはならなくなることもあるのだった。地球

(「地球」の後も次の行に文は続く。ぶつ切りを避けると全文引用することになってしまうので許してほしい)

 

この冒頭はなかなか好きだ。

「毎朝いちばん早く起きた人が空を見ていい天気かわるい天気か決める街」という設定はチャームに溢れているし、「雨はわるくないことを誰もわるくないことをIさんは知っていた。」のようなそれ自体すこし意味が取りづらい攻めた言い回しの面白さが、文の途中の改行による読み手の意識のコントロールによってさらに高められていると感じた。

 

このあとの行で蠍座や傘、水滴といったモチーフが重ねられていき、冒頭の「Iさんがプラネタリウムを辞めた」に宿る詩的な世界はより鮮明になっていく。それが、わたしはあまり好ましく受け取ることが出来なかった。作品世界の解像度があがっていくことが、わたしのなかで、作品の魅力を高めることにつながらず、むしろ損なう方向に奉仕してしまっていた。つまり、簡単に言えば「最初のインパクトは良かったけど説明しすぎで落胆した」ということだ。

 

 

次の詩「図書館の完成を待つ」には更にその傾向があった。

 

胸の高鳴るような犯罪がもっと満ち溢れるべきだ
この街には。だから駅前に新しい図書館が建つのは
十分悦ばしいことだ、とHさんは思った。

 

この冒頭はやはり素晴らしい、と思った。

「胸の高鳴るような犯罪」が「もっと満ち溢れるべきだ」という一行目の清々しい痛快さが、犯罪とは結びつきにくい「図書館」という単語によって飛躍する。Hさんって一体どんな人物なんだ、と興味が湧く。

 

この詩の最後には、この冒頭3行がリフレインとして置かれている。冒頭の文とまったく同じなのに最後には違う意味合いとなって立ち現れる──当然リフレインにはそうした狙いがあるだろう。

しかし、わたしには、冒頭の3行のほうが、末尾の同じ3行よりもずっと魅力的に映った。冒頭3行のあとで、Hさんについて、この街の開発状況についての描写がある。それらの描写はこの作品世界を、わたしの頭のなかのイメージを広げ、より鮮明にして、物語を形作る。そして再び同じ3行が現れてこの詩は終わるわけだが、リフレインを読んでも「な〜んだ、そんなことか」と、まるでマジックの種明かしをされてしまったように、原初の興奮と鮮烈なイメージが色褪せてしまったかのように感じられた。「Hさんって一体どんな人物なんだ」と思いはしたが、その実、Hさんの正体について、わたしの頭の中のHさんのイメージについてそれ以上情報が加わることを望んでいなかったのかもしれないと、事後的に確認された。

 

 

これらは、要するに、文学作品のサイズの問題だ。小説でも似たようなことは頻繁にある。序盤はワクワクしていたけれど、読み進めると肩透かしを食らった。序盤で脳裏に焼き付いた作品世界のイメージと「違った」から落胆するのではなく、そもそも、それ以上イメージの解像度が上がることを望んでいない、曖昧なままで、多義的なままで、理解不能なままでいい、そうした意識があるように思われる。重厚なストーリーテリングによって作品世界を練り上げる長編小説にはできないことが短編小説にはある。短く、描写や説明が満足になされない、そもそも「説明」する対象の輪郭や存在が危ういままに作品世界を閉じて完成させてしまえる崇高さ、自由さ。そうした感慨をわたしは詩にも求めているのかもしれない。

 

 

「ふたりで」収録の「照明論」も、さいしょの一段落がいちばん面白かった。

 

「ふたりで」の最後を飾る「東京」でも

いま、天使みたいな頭痛が通り過ぎていって、私は砂漠にひとりでいる。

というフレーズが途中に出てきてから、最後に

天使みたいな頭痛が通り過ぎていって、
朝が来る。

という段落で詩が(そして連作「ふたりで」自体が)終わる。

 最後にリフレインが来ると「あぁ、このフレーズ気に入ってるんだな……」と少し微笑ましくも気恥ずかしいむず痒い心持ちになってしまう。

 

 

結局、最後まで面白く読めた、あるいは最後まで読むことで面白いと思えた作品は、この詩集そのものの冒頭の「触って」「両性の合意」「遺棄現場」あたりかなぁと思う。「線画の泉」の不穏さもなかなか良い。

ちなみに、これら連作「ふたりで」を構成する詩篇たちは題名通りどれも「私」と「あなた」についての描写が続くわけだが、これらがどうしても女性同士の関係でしか想像できなかったのは百合オタクの悪いところだと思う。百合オタクにはなりたくないと思いながらも結局このような実地体験で自身のスティグマが嫌でも露呈してしまう。STY(そういうとこやぞ)

 

最後の連作「松浦佐用媛、舞い舞う」は10篇どれも「ま」から始まる単語が冠され、8行×23列のフォーマットの非常にコンセプチュアルな作品となっている。

ただ、これらはピンとこなかった。先ほどのように「最初良かったけど落胆した」とかですらなく、本当に何も引っかからないまま、「お、おぅ……」という感じで読み終えてしまった。まだこの詩を堪能できる感受性が身についていないようなので、レベルを上げて戻ってきたい。

 

 

 

否定的な感想をいろいろ書いてしまったことに日和って既防線をはっておくと、そもそも最後まで読めた時点でかなり好きだった、少なくとも途中で投げ出すほど苦手でも嫌いでもなかったことは確かだ。

「わかってしまうと面白くない」と言いつつ、本当に何も理解できなければ好きになりようがないという非常にずるいシステムをじぶんは抱えているのだなぁと強く感じた。

 

また、これも初心者ならではの感覚だろうが、自宅で詩を読んでいると、「詩を読んでいる自分」という状況を客観視して、その状況、その行為の世俗との隔絶感に唖然としてしまう。もっと詩を読むことが日常的な行為となれば、詩を世俗の対極にナイーブに対置するこうした振る舞いはしなくなるのだろう。

 

ともあれ、「人生初、書店で予備知識ゼロのままフィーリングで詩集を買う」実績を解除できたこと、その一冊目が本詩集であったことをとても嬉しく思う。

これはまぎれもなく、わたしの「運命の一冊」である。

 

 

 

踊る自由

 

『ヴァインランド』(7)トマス・ピンチョン

hiddenstairs.hatenablog.com

 

やや時間が空いてしまいましたが、12章をやっと読みました。

 

 

12章 (pp.315-383)

 

<あらすじ>

(フレネシに撃たれて?)サナトイドとなったウィード・アートマンの遍歴

84年、カリフォルニアの北の奥にある心霊スポット〈ブラックストリーム・ホテル〉にて、年に一度の宴「サナトイド・ロースト'84」の第10回が進行中。幾世代にもわたる因果応報のパターンが立派なサナトイドを"顕彰"する。

そこで演奏する即席バンドのベースはヴァン・ミータ(ゾイドの元バンド仲間の相棒)

 

このときゾイドはホリーテイル近くの谷あいのマリワナ農家の知り合いの家に滞在していた。
ヴァインランド群のシェリフ(保安官)ウィリス・チャンコが難攻不落のホリーテイルを潰そうとするが守備網は堅い

その牙城を崩そうと、CAMPが雇った元ナチス・ドイツの空軍士官カール・ボップ率いる偵察部隊の飛行機がヴァインランドの空を舞う

そこに「忍びの者(ステルス・リグ)」の異名を取る特殊改造トラックがやってきて、ヴァインランド群じゅうの家庭に物語を語り聞かせられるオウムを売りさばいた。
<キューカンバー・ラウンジ>裏手にあるヴァン・ミータの賃貸小屋でも子供たちがオウムに熱狂し、その超常体験に参加できなくて焦りながら今夜もギグへ向かう(ここで話がサナトイドの宴に戻る)

 

常人とは時間の流れが異なるサナトイド達の宴は夜が深まるほどにスローテンポになっていき、ヴァン・ミータらのバンドは演奏に困る。

昔CMで見た覚えのある歯科医ラリー・エラズモ博士(宴に迷い込んだ)と会ったウィード・アートマンは、生前サーフ大学での最後の日々をおぼろげに思い出す。

エラズモは当時ウィードにつきまとい、半ば強制的に旧市街のオフィスへ呼びつけて怪しい診察を繰り返していた。(ブロックの陰謀)

〈ロックンロール人民共和国〉の長としてますます崇められるウィードと、BLGVNの残党に会うためパリへ行こうとしているレックスは次第に決裂していく。

ウィードがFBIのスパイだったと自分から言った、そうフレネシとレックスはハウイ(秒速24コマの男子)に語る。

もちろん、それはフレネシを操るブロックの陰謀である。ブロックからフレネシに渡された銃でレックスがウィードを撃つ。その決定的な瞬間をカメラは逃していた。

包囲された〈ロックンロール人民共和国〉は自壊する。たった3名の残党DL、ハウイ、スレッジは車(シボレー・ノマド)でブロックに連れ去られたフレネシを追う。ハイウェイを疾走して収容施設にDLは潜入、地下のオフィスで夢を見ていたフレネシを速やかに奪還する。バークレーに戻り男2人を降ろし、2人はメキシコの太平洋沿いの漁村キルバサソスへ。DLとフレネシはブロックの件で口論する。ドラッグを投与されて操られていたとフレネシは主張して慈悲を乞う。

その後、合衆国のラス・スエグラスでDLは彼女を降ろして別れた。そこでゾイドはフレネシと出会ったらしい。

 

ようやく話は現在時制、フィルムを観終わったプレーリー、DL、ディッツァの3人へ。ディッツァが双子姉妹のズィピから電話を受ける。田舎に引っ込んだが再び占星術に舞い戻ったミラージュ曰く、冥王星の逆行が滞っており不吉らしい。実際、ハウイがコカインで命を落としたのを筆頭に、〈秒速24コマ〉のメンバーらが次々と理由なく姿を消している。

DLは編集作業場に仕掛けられたに安物の盗聴器を見つけ、直ちに安全な場所へ避難することを決める。3人を乗せた車は夜のロスを疾走する。

 

 

<感想メモ>


オウムのしゃべる物語を聴きながら眠りについた子供たちが夢の国の熱帯林で落ち合って、木々の上すれすれを一晩中飛び続けるってめちゃくちゃ良いエピソードだな。

 

フレット:ギターの腕に横にいくつか付けられた金属の棒のこと。これに弦を抑えつけることで特定の振動数=音程が鳴る

これをヴァン・ミータは外したと。そりゃあ音程も何もあったもんじゃないわな。でも決まった音色から自由になってフラフラ飛び回る感じはまさしくピンチョン的でいいなぁ

 

歯医者といえば『V』の手術シーン!!!

 

p.332
これがほんとのカーセックス
アーンド愛車NTR

 

めちゃくちゃ甘ったるく感傷的な筆致だ・・・「革命に燃えていた若かりし自分たち」へのノスタルジーがすごい

郷愁というか、リアルタイムで自分たちの理想が破れていく敗北の美学みたいな
その回想を、自分たち(プレーリーからすれば母親)が撮った映像フィルムを観るという形式に収めて語るので、より一層魅力が増す。フレネシの照明・光周りの表現も多彩で、きわめて映像的な文章

 

アクロバティックかつシームレスに、語る年代や人物やシーンをスライドさせていく手法には『JR』っぽさも感じる。

 

〈秒速24コマ〉の常套句「ビー・グルーヴィ、でなきゃBムーヴィ」 めっちゃ良いな!!!

 

368
フレネシがよく見ていた高潮に沈む町の夢とても幻想的で美しい。
そこから現実のDLとの再会に繋がるのもめっちゃアツい。フレ×DLしか勝たん

 

373, 375
ピンチョン、ふざけたハイテンションでカオスな文体もあるけど、それを支えているのは正統的に上手い文章なんだよな。まじで普通に文章がめちゃくちゃ上手い。

 

375
長時間白熱した映像を観終えたプレーリーの心境を「LAレイカーズの試合後のバスケット・ボールのよう」と喩えるセンスすげ〜
的確よなぁ

 

 

あと3章、170ページ!!!

 

 

どうも、命知らずの猛者です。 
これら4冊のうち読み切れるのは果たして幾つなのでしょうか・・・乞うご期待!!!

今のところの読み易さは順に

ブラス・クーバス>>コレ愛>>>ヴァ>>>>夜みだ

です。

(ヨイヨルさん主催の毎週末読書会が無ければヴァインランドもとっくに投げ出していました。ほんとうに感謝しています)

 

 

 

 

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 もちろん買いました。何年も待たされたことはもちろん、ガイブンを読み始めて以来、初めて体験するピンチョン邦訳出版なので非常に感慨深いです。が、まだまだ読むのは先になりそう・・・・・・

 

 

『別荘』ホセ・ドノソ

 

 

「わからない、わからないわ。その話には分厚いベールを掛けておきましょう」(p.60) 

 

 

現代企画室から、ラテアメ邦訳界のシバニャンこと寺尾隆吉氏による翻訳で出ているホセ・ドノソ『別荘』を読んだ。550ページ、鈍器と呼べる小説を最後まで読み切れたのは今年は本書が1冊目かもしれない。(それほどに最近は長篇が読めない……すぐ飽きて別の小説に浮気してしまう)

 

ドノソは昨年『三つのブルジョワ物語』を読みはじめ、文章が読みづらく冒頭20ページほどで挫折したきりなので、ちゃんと読んだのはこの『別荘』が初めてだった。こちらは驚くほど読みやすい文章で、550ページを2週間で読み切れた。これは普段10ページ読むのに1時間かかる自分としては破格のスピードである。

 

本書の裏帯文に「理屈抜きに面白い傑作」とあるように、とにかく娯楽作品としてめちゃくちゃ面白かった。こんなにストーリーが躍動的かつ大量のキャラが立っている文学はあまり読んだことがなかったので新鮮で楽しかった。

 

 

そう、本書を読み始めてわたしが抱いた感想は「大量の美少女キャラが出てくる萌えアニメじゃん!!!」だった。

 

というのも、本作は総勢35名もの子供たち──ブルジョワ貴族ベントゥーラ一族の"いとこたち"──が別荘に子供だけで置き去りにされる話なのだ。なんというチャーミングな設定。

子供は女子17人・男子18人で、5歳から17歳までよりどりみどりである。

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この登場人物表は、『百年の孤独』の家系図とは異なり、原書にもとから付いている公式の表である。

 

やけにキャラの立った大量の美少女がひっきりなしに画面に入れ代わり立ち代わり登場する、ソシャゲのアニメ化作品。それがわたしの本作への第一印象であった。

 

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イメージ画像

 

備え付けの登場人物表に書き込んでいってもいいのだが、わたしは人物相関図を書きながら読んだ。『百年の孤独』では家系図を書いたが、こちらは100年でなくたった2日間の話なのに50人をゆうに超えるキャラが出てくるため、非常に煩雑な図になった。

 

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多くの萌えキャラのなかでもわたしの最推しは、図書室に引きこもっている少女アラベラだ。

彼女は、あることを企んでいる主人公ウェンセスラオ(9歳, ♂)が彼女を頼りにして図書室を訪ねる場面で初登場する。

男物の服を着て髪を短く切ったウェンセスラオを見ても、アラベラは黙ったまま驚きの表情すら見せなかった。それでも、頭を後ろへやることで、小さな鼻の上を滑り落ちていた眼鏡の焦点を合わせながら、四倍に強化された視力で彼の姿を見つめた。アラベラが相手であれば、大げさな反応をされるのではないかという心配は無用だった。ほとんど図書室から出ることもないまま十三歳になっていた彼女にとって、もはや目新しいことなどまったく何もなかった。 (p.24)

「頭を後ろへやることで、小さな鼻の上を滑り落ちていた眼鏡の焦点を合わせながら」の部分を初めて読んだとき、「そんな萌えキャラみたいなヤツいる!?!?」とマジで声が出た。

 

アラベラの脳内イメージはパチュリーアグネスタキオンベアトリスだった。

 

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他にも作中で「美人」と明確に言及されているキャラが何人もおり、お姉さん属性キャラ、病弱系キャラ、愛憎うずまく巨大感情姉妹百合などオタクの好きなやつがてんこ盛りの小説である。

もちろん男子キャラも非常に多彩で面白い。"小悪魔"の異名を持つ主人公の美少年ウェンセスラオなんて、母親から溺愛されるあまり日頃から長髪にフリルのスカート・レースの下着などで女装をさせられている超クセの強いキャラクターだ。(彼は開始4ページで性器を開陳し、その4ページ後に従姉たちからスパンキングされる)

 

また、もちろん子供だけでなく、その両親たちも重要なキャラクターだ。ベントゥーラ一族の大人たちは、我々が「貴族」と聞いて思い浮かべるステレオタイプな負の側面を誇張したような戯画的な性格をしている。高慢で他人を見下していて、自分たちの既得権益の保持を第一に考え、都合の悪いことや変化には「分厚いベール」を覆いかぶせて見ないふりをする癖が染み付いている、保守主義の権化のような人物像だ。

 

このように、本作に登場する人間は、大人も子供も戯画化された「キャラクター」として設計されている。リアルな人物像ではなく、わざと虚構的・記号的に作られているのだ。

 

本作の大枠としては、醜いベントゥーラ一族の大人たちの保守主義と、それに反抗する子供たちや、『別荘』のあるマルランダ地方の抑圧されている原住民たちの革新主義の対立という、あまりにもシンプルな構図がある。

 

 

しかしながら、ラテンアメリカ文学史に残る大傑作と言われている作品がそんな単純な内容であるはずがない。

まずは「大人/子供」とか「貴族/原住民」といった粗野な図式によって理解されるが、読んでいくうちに、より複雑で有機的な構造をもっていることが分かってくるのである。

というのも簡単な話で、ベントゥーラの子供たちが35人、大人たちが13人いるなかで、彼らがそれぞれ一枚岩であるはずがないからだ。どいつもこいつも秘密の陰謀を抱えており、それぞれの利害関係のなかで同盟を結んだり裏切ったりする。

そうした、荒野に佇む1つの別荘で繰り広げられる陰謀と裏切りにまみれた群像劇が本作の読みどころである。

 

序盤わたしは「萌えアニメじゃん!」という感想をもったが、中盤になりストーリーが大きく動き出してくると、今度は「進撃の巨人じゃん!!!」と叫んだ。

 

槍の鉄柵に囲まれた閉鎖的な別荘の敷地と、その外の、食人種が蔓延ると噂されるグラミネアの危険な荒野。こうした「塀の内側/外側」という空間設計が途中で根底から覆る衝撃の展開、塀の内側の子供たちがそれぞれに秘密を抱えながら画策し、協力と裏切りを繰り返して進んでいく先の読めないストーリー・・・

 

完全に『進撃の巨人』ですありがとうございました

 

諫山創の次作、『別荘』コミカライズらしいですよ

 

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『別荘』アニメ化時のメインビジュアル(中央は女装したウェンセスラオ)

(もっと言えばリヴァイ→フベナル、エレン→マウロ、ミカサ→メラニア かな)

(もちろん、大量の子供たちが1つの閉鎖施設で共同生活する設定から『約束のネバーランド』を引き合いに出してもいいだろう)

 

 

このように、本作は、あの悪魔的な奇書『夜のみだらな鳥』の作者が書いたとは思えないほどに読みやすく、熱い展開が盛りだくさんの少年マンガのような文学作品だ。そりゃあ「理屈抜きに面白い傑作」なんて出版社が宣伝するのもうなずける。だって実質『進撃の巨人』なんだから。

 

 

 

・・・つまり、

 

萌えアニメ×少年マンガ

(『Lapis Re : LiGHTs.』×『進撃の巨人』)

 

 

これが、一読したわたしの端的な『別荘』観である。

つまり、ひじょーーーにオタク向きの作品といえる。

あと、わかる人だけわかってもらえればいいが、前半/後半の断層のしかけに「『凪のあすから』じゃん!」と叫んだ。

 

 

・・・しかし、それは読んだわたしがオタクだからそう感じただけのことではないのか?
わたしの文学鑑賞時に連想できる作品ストックがオタクコンテンツしかないだけのことではないか?

 

・・・・・・

 

いや、そうではない。というのも、本作は「現実に対して虚構を打ち立てて逃避する」というきわめてオタク的な命題が根底のテーマであるからだ。

 

それは何よりも、子供たちが別荘で行う「伯爵夫人は五時に出発した」に象徴されている。この即興のごっこ遊びは、子供らがベントゥーラ一族の大人としての資質──都合の悪いことは忘れて自らの見たいように世界を見る──を育むための教育的慣習のような側面があり、別荘の安定した現実世界が脅かされたときに、この劇に逃避することで子供たちのパニックを抑えて統制するために用いられてもいた。後戻り出来ないほど状況が変化してしまったなかで、「伯爵夫人は五時に出発した」の役に完全に入り込んで現実に戻らない選択をする子供もいた。

 

大人側も、ごっこ遊びは卒業して見下すようになったとはいえ、先ほど述べた「分厚いベールをかける」慣習によって本質的に同等な行為を常日頃繰り返している。たとえ自分の娘が亡くなっても「分厚いベールをかける」ことでその事実を忘却することができるのだ。

 

君たちに何か質問されるたびに大人たちは、驚きを隠してその場で適当な答えをでっち上げなくてはならなかったからね。それが単なる作り話だと認める勇気は誰にもなかった。楽園が現実のものとして定着してしまうと、この一家の人間にとって「現実」ほど重い言葉はないから、知らぬうちに彼らは、何の根拠もなく勝手に自分たちが作り上げた仮想世界にのめり込み、ありもしない鏡の向こうへ突き抜けて、そこから出られなくなったんだ。 (p.141)

 

 

それだけではない。

本作では要所要所で「作者」が顔を出して、作品の構成や今後の展開についてアレコレ語っていくメタ要素も特徴の1つとなっている。

 

もしこの話が創作でなく事実ならば、この場面を目撃した者が事件後に残した証言に基づいて、この最初の驚愕が引き起こしたあまりに不吉な重苦しさに耐えかねた子供たちや原住民たちが泣き出したばかりか、無知な者か若者か、密かにアドリアノ・ゴマラを崇拝していた者か、マルランダで起こっていた衝突の意味がよくわかっていなかった者か、ともかく、使用人の中にもこの悲嘆に声を合わせた者がいた、と書いてもいいところだ。 (p.330)

 

このように、本作はあくまで「創作」であることが定期的に作者によって強調される。そんな無粋なことをされると萎えると思われるかもしれないが、虚構だからこそ真に迫った体験ができる、現実よりも強度の高い虚構を構築してそこに逃避する、という本作の人物たちの思想がそのまま反映されているのだ。きわめてオタク的ではないか。

そもそも夏の三ヶ月の間だけバカンスを過ごす豪華絢爛な「別荘」という設定自体が非常に虚構的で、『アッシャー家の崩壊』などの正統ゴシック文学の流れを汲んでいる。

 

更には、終盤ではどこかのクンデラのように、作者である「私」が、登場人物であるベントゥーラ一族の大人と街で会ってバーで語り合い、書き上げた『別荘』の原稿を本人に読んでもらい感想を聞くシーンまである。

クンデラ『不滅』が92年、本書は78年なのでこちらのほうが早い。(筒井康隆朝のガスパール』も91-92年)

 

「なあ、もう行かないと、いいか……」
立ち上がろうとする彼に、どうだったか感想を訊く。彼は答える。
「さっぱりわからなかった……」
私はバツの悪い思いで笑う。別に珍しいことが書いてあるわけではないし、頭をひねって考える必要のあるほど凝った理念や構造に貫かれているわけでもない、文学的見地から言っても難しい作品ではないから、純粋に物語として受け入れてくれればそれでいいんだ、こう私は反論する。 (p.440)

 

他にも、別荘のダンスホールの壁面に描かれている騙し絵("トロンプ・ルイユ")が重要なモチーフとなっており、騙し絵のなかの「あちら側」の世界で暮らす人物たちと、それを騙し絵として認識する「こちら側」の人間たちの対比や交歓が幻想的に描かれている。

 

このように、実に様々なレベルで虚実のあわいを提示して幻惑させてくる。

 

ただ注意しておきたいのは、決してこうしたトリッキーなメタ形式が本質ではなく、何よりもまずベントゥーラ一族の子供たちによるストーリーが単純にめちゃくちゃ面白いということだ。あまりにメタフィクション性を強調するのは本作の受容にとって実りある行為ではない。

 

 

 

 

 

というわけで、『別荘』はソシャゲアニメ的な大量の美少女(や美男子)の記号的なキャラ造形が魅力的で、少年マンガのように陣営が流動的に変化する熱いストーリーと、とにかく面白い作品である。敷地を脱出して馬車で荒野へ駆け出すシーンなんて『進撃の巨人』中盤のようなワクワク感に大興奮しながら読んでいた。

 

ドノソといえば《グロテスク・リアリズム》なんて言葉があてられることもあるが、本作にそういう雰囲気はほとんど無い。序盤に一箇所だけかなり趣味の悪い事件が回想として語られるが、それ以外は狂気的というよりも疾走感や開放感、保守的すぎる大人たちの諧謔性など単純に面白い要素で満ち溢れている。

 

 

こんなにエンタメ的に面白いオタクコンテンツのような小説をドノソが書いているなんて思いもしなかった。

次はいよいよ本丸『夜みだ』に挑戦しようと思います……生きて帰ってこれるかな……

 

 

 

owlman.hateblo.jp

『別荘』が中ドノソ、『夜みだ』が大ドノソらしい。こわい

 

 

dain.cocolog-nifty.com

今まで小説のリアリティは、「小説世界がどれだけ現実らしいか」こそがスケーラーだった。しかし、小説が現実らしさをかなぐり捨て、「フィクションを読む現実」を突付けてくることで、今度は物語が現実を侵食しはじめる。

やっぱりdainさんの感想記事はすばらしい

 

 

tomkins.exblog.jp

 

 

blog.goo.ne.jp

全27記事にも及ぶ大変な労作感想。本作がいかにゴシック小説として完璧であるか、という点を軸にして語っていく。愛がすごいが、たしかにここまで書かせるほどの小説だというのも今ならうなずける。

 

 

note.com

そういえば『百年の孤独』の感想でも「本作を楽しむコツは限界オタクになること。マルケスはオタクに優しい」と書いていた。オタクはラテンアメリカ文学を読め

 

 

 

<以下途中までの読中メモ> ※ネタバレ注意

 

 

てっきり別荘を目的地に大人と子供でピクニックへ出かける話かと思ったら、避暑のため別荘で生活しているのがデフォルトで、別荘を出発地として大人が子供を置いてピクニックへ出かける話だった。30人を越える子供たちを別荘に置き去りで、召使いも皆ピクニックの従者につかせるなんてことある?非リアリズムではないが非現実的な塩梅の設定で良い。

waterplants.web.fc2.com繁茂する植物

 

開始4ページで性器が開陳された。
9歳の悪童ウェンセスラオが主人公か。図らずも『継母礼讃』に引き続き幼い子供の無垢なグロテスクさを描いた作品だ。こっちはアルフォンソと異なり邪悪な自覚があるっぽいけど。

母親から女装させられ人形扱いされることに嫌気が差している。かわいそう

 


p.24 図書館の主アナベルが萌えキャラすぎる。リゼロのベラトリクスか、アグネスタキオンみたいな感じ

 

今のところマジで大量の美少女が出てくる萌えアニメを観ている気分

男子キャラもいるけど、過激な百合厨じゃないからそんなに気にならない……というか異性愛規範を内面化しているのでむしろアド。(というか主人公の男子からして女装(させられ)属性持ち(の悪童)なので強い)

作者(を名乗る人物)が所々で顔を出して「これは私が発案した物語です」と口を挟むのはクンデラっぽい

え、図書館の本は背表紙だけで形骸的なものなの!?
じゃあ確かにアラベラはどうやって知識を…


31
大人というか、貴族・ブルジョワ階級の醜さしょうもなさを露骨に風刺してるな……

42
いちおう子供たちだけで置き去りにすることを問題にはしてたのね。17歳のフベナルがお目付役として残るので十分ということになったが。


2章

52
寓話的過ぎる要素で溢れたこの小説が、作中の語り手によってフィクションに過ぎないと強調されているという点に、どんな連関を見出せるか。
寓話性と虚構性

70
いくらなんでもアイーダとミニョン姉妹かわいそう過ぎる
こういう突き抜けたホラ話っぽいプチ挿話はいかにも南米というかマルケスっぽい

72
アイーダ-ミニョンの愛憎渦巻く姉妹関係いいな。
2人とも不細工で親からも誰からも愛されず、美しい弟への嫉妬が募り、妹は姉を虐めるが、姉の豊かな髪だけは「世界で一番美しい髪だと言って褒めていた」……いい……
ミニョンの暴力(殺人未遂)やウェンセスラオへの虐めは許されることではないが、根底には「外見のせいで誰からも愛されず貶められる2人は可哀想」というアドがあるために魅力へと昇華されるのが強い(めちゃくちゃ非倫理的な消費の仕方)


75
バルビナは色々とクソ女だけど何だかんだで夫には甘えたがりというかちゃんと愛してるのがかわいいな

インディオ?の原住民の描写は、サエール『孤児』よりも断然凄みがある。本作はわざと誇張してそのように演出してて、孤児は逆に淡々と描いているという狙いの違いがある

88
はい


3章

98
「伯爵夫人は5時に出発した」って何かと思ったら、いとこ達のごっこ遊び(アクション)の一種なのね。
大人の保守観を子供なりに引き受けるための儀式みたいなやつか

113
いちばん気に入ったの柵の槍に自分の好きな女の子の名前を付けるとかマウロなかなかやばくて草

121
ラテアメ文学あるある:何かにつけてオーラ出がち

そういや、起源のわからない槍の柵に囲まれて危険な外の世界から守られている内側で暮らす子供達…って場面設定まんま進撃の巨人やん
約ネバとかもそうか

132
これまで僕らが必死にやってきたことは何だったんだ!と世界観が大きく揺らぐ点も進撃っぽい

別荘に残された子供の人数と同じ33本の槍が、これまでは「地面か引き抜いて外れた槍」だったのが、今や「他とは違ってちゃんと埋まっていた槍」へと鮮やかにも反転した。とても面白い展開

子供達だけの生活といえば孤島モノ、『蠅の王』や『笑いと忘却の書』の5章に少し似てるかも

クレメンテ6歳とは思えないほど大人びた言動で良い
エドウィン・マルハウス』とか、歳の割に聡明過ぎる子供に弱い(科学の天才のような頭の良さじゃなくて、大人びている、世間をよく知っているかのような物言いをするのがタイプ)

138
アツい展開

141
作り話だと認める勇気……
これは作り話だとハナっから主張してくる本作の語り手はベントゥーラの大人たちとは真逆なのか

4章

152
男性器を見て文字通り目が潰れるの草

160
オレガリオ、セレステ、メラニア、マウロの4者関係めっちゃ複雑やな

174
あ、マジで騙し絵から出てきてたのか
直球の非現実要素は意外にも初?

5章

198, 201
カシルダ×コロンバはこれもう濃厚な姉妹百合判定出してもよろしいのではないでしょうか
※本書での濃厚な関係はだいたい嫉妬したり憎み合ったり蹴落としたり殺したりしてる。どいつもこいつも性格悪くて最高

公式で美少女/美人だと言われてるキャラがすでに4, 5人いる気が。
不細工/醜いと書かれてるキャラも複数名いる。
なにしろ33人も子供がいるので属性に困らない。
アイドルマスターシンデレラガールズか?

209
カシルダは金の亡者と言っても、金(きん)という物質自体に執着してるんだな
音だけで蝶番の番号を割り出すの草
それ話盛ってるやろ!って誇張法マルケス然りラテアメらしくて好き


6章

地味な顔を表現するのにこの文章が書けるのすげえな

240
進撃の巨人の中盤みたいな面白さ、ワクワク感がある

7章

247
槍のメラニアほんと草

第一部おわり!
いや〜アツい展開。これで半分か。ここからどうなるんだろう……楽しみだ〜

第二部
8章

本作での「人食い人種」もパラノイア的な存在だが、ピンチョンは権力や統治に反抗し解体する萌芽としてのパラノイアなのに対して、「本作の人食い人種」はむしろ大人たちの現実・秩序を維持するために敷いているパラノイアであるため真逆といえる


最後にフベナルとその両親のフクザツな三角関係がフィーチャーされて良かった

空気中に漂う微細粒子によって窒息するってちょっと『砂の女』を思い出す

 

 

 

 

『エバ・ルーナのお話』(1)イサベル・アジェンデ

 

これまでに読んだアジェンデは、岩波文庫『20世紀ラテンアメリカ傑作選』に入っていた「ワリマイ」のみ。

『精霊たちの家』に挑む前に、こちらの短篇集に手を出してしまった。『エバ・ルーナ』は未読だが問題ないらしいので。

 

プロローグと、最初の4つの短篇を読んだ。 

 

 

 

・プロローグ
冒頭からめっちゃシェヘラザードを押し出してくるやん・・・
いや文章うまいというか迫力あって好みだけど。

 


・二つの言葉
自分で自分に名前をつけた、言葉を売って暮らす少女暁のベリーサ


いきなりめっちゃ「言葉」を大事にします感出してくるやん・・・
言葉を大事にしている自分に酔ってそう(ひどい) Twitterによくいる感じのひと

 

文章がわかり易い。誰が何をした、というお話し口調なので。(タイトル通りのシェヘラザード設定)

これわりと原文も読みやすそうだな。スペイン語の勉強に使えそう

 

彼の顔は木の陰になっていた上に、それまで危ない橋を渡ってきた人間特有の陰もあって、彼女にはよく見えなかった。 p.15

こういう「そうはならんやろ……なるか?……なるかも……」と思わせられる描写すき
マルケスやドノソのような誇張法マジックリアリズムとは別物)

 

もしあの演説が輝くように美しくて腰の強い言葉で書かれていなかったら、たちまち使い古されてぼろぼろになっていただろう。 pp.18-19

「腰の強い言葉」!!! 日本文学では絶対にお目にかかれない表現だ

 

彼が広場の真ん中にしつらえられた壇上で演説をぶっているあいだ、エル・ムラートと部下のものたちはキャンディーを配ったり、金のスプレーで彼の名前を紙に書いたりしていた。けれどもそうした商人まがいのやり方は必要なかった。人々は、演説でうたわれている公約がじつにはっきりしており、論旨も詩のように明晰だったのでそちらに心を奪われていたのだ。彼がぶち上げる歴史の犯したあやまちを正そうという言葉に動かされて、彼らは生まれてはじめて笑みを浮かべた。 p.19

色々と面白すぎてズルいだろこれ
「論旨も詩のように明晰」:詩ってほんらい明晰さの象徴とされるものなんだなぁ
「生まれてはじめて笑みを浮かべた」:誇張!!!

 

彼らが立ち去った後には、夜空を美しく彩る彗星の記憶のように、希望の余韻が何日も空気中に漂っていた。 p.19

ラテアメあるある:なにかの香りや余韻や雰囲気などが実際に空気中に何日にもわたって漂いがち。『百年の孤独』でも何回も見た表現

 

けっこうジェンダー的なステレオタイプを意識的に押し出してる

「この魔女があなたの耳もとに囁きかけた言葉を返し、もとの男らしい人間に戻ってください、大佐」
言葉を操るのは神秘的な力を持つ(周縁化された)女性である、みたいな価値観
プロローグでも女性=言葉、男性=写真みたいなナイーブなこと言ってたな。
「男はAV、女性は官能小説」みたいな言い分

 

ベリーサの言葉というよりむしろ肉体に大佐もエル・ムラートも誘惑されて腑抜けにされたんじゃね?とすら思える

 


・悪い娘
の悪戯!!!(それはリョサ

十一歳のエレーナ・メヒーアス

 

「ひょろひょろに痩せていた上に血色が悪く(中略)身体は細く、妙に骨ばっていて、肘や膝の骨が今にも飛び出しそうな感じがした。」とか「本当は熱っぽい夢を心に秘めた情熱的な女の子だったのだが」とか「幼い頃は引っ込み思案のおとなしい子で」とか(全てp.22)、やけに重複する表現を連続して使ってない?金井美恵子か?

 

言葉vs歌

 

内気少女のわかいい初恋のお話かと思ったらガチストーカーというか犯罪者やんけ

 

中年になると、子供服の店に足を向け、綿のパンティーを買ってそれを愛撫して楽しむようになった。 p.34

エレーナのせいでベルナルがレベル高い方のロリコンになってて草

 

「男は別名保存、女は上書き保存」みたいな、また陳腐な男女論みたいなところにオチた。

 

 

・クラリーサ

クラリーサは町にまだ電灯がともっていない時代に生まれたが、長生きしたおかげでテレビの画面を通して最初の宇宙飛行士が月面をふわふわ遊泳するところを見ることができた。しかし、ローマ法王が来訪したときに、ゲイの男たちが尼僧に扮して法王を出迎えたのを見たが、そのショックがもとであの世へ旅立つことになった。 p.36

こんな書き出しある? 一撃必殺狙ってきてるやん
どの短篇も冒頭の導入(主人公の紹介)で読者(聞き手)を物語世界に引きつけようとキャッチーで魅力的に書いているのがわかる。「お話」のひとつの鉄則か。

「飲みすぎからくる不快感や兵役に取られる苦しみ、ひとりぼっちの寂しさに耐える力を与えてくれる」奇跡ってめちゃくちゃありがたいやん。

 

その後私が勤めを代えた関係でクラリーサと会えなくなったが、二十年後に再会してからは今も彼女と親しくしている。その間にはいろいろな障害があった。彼女の死もそのひとつだったが、さすがにあのときは彼女と意志の疎通をはかるのがむずかしくなった。 pp.37-38

あ、死後も頑張れば普通に交流できる系なのね。ペドロ・パラモ

 

夫がずっと引きこもっているのにどうやって身籠るんだ……

あ、普通に不倫してたのね。そこはリアルに行くのか・・・

 

マジックリアリズムを俗っぽく使っている、という見方もできると思う。
エンタメ的な面白さに奉仕している

 

指摘してもしょうがないけど、「知恵遅れの子供たちの世話をするために、二人の子供が生まれてきた」という神様の運命の釣り合わせを称揚する価値観は現代リベラル思想からするとかなりキツい(禍々しい)

個人の生の道具化、ハンナ・アーレントの「全体主義に反抗するために子供を生もう」みたいな思想とは全然違うがアウトプットは似たようなもの

ただ、そのわりに知恵遅れの子供2人がサクッと死んでいるのは、こうした単純な図式化による批判をかわす要素かもしれない。

 


ヒキガエルの口
これまた男性を惑わす魅力的な女性のお話

「遊び」楽しそう。目隠しされて下半身裸の状態の男たちがやる「鬼ごっこ」ってイメージすると面白いな

 

今の所どの話も女性主人公だけど、あんまりフェミニズム的にはよろしくない、保守的・伝統的な価値観に基づいているものばかり。もちろん話としては面白いんだけどね