『カンディード』ヴォルテール(1759)

 

植田祐次訳, 岩波文庫, 2005年刊行

 

2024/4/8~18

 

2024/4/8(月) p.263〜276まで
爆速テンポで進む流浪冒険譚 16世紀のラブレー、17世紀セルバンテスの流れを汲んではいるのかな。
3人称の叙述がなかなか風変わり。戦争で両陣営を対等にまなざす感じとか。

副題の「最善説」、オプティミズムとは、楽観主義のことではなく、ライプニッツの思想で、すべては最善なように決まっている予定調和説みたいなことらしい。「充足理由」も関連するキーワード

 

4/9(火) p.276〜283
性病(梅毒)に関する諷刺  総じて、エログロの諧謔?を衒いなくぶち込んでくる

 

4/10(水) p.284-295 5章〜7章
船が難破してなんとか漂着したリスボンで1755年の大地震。泣きっ面に蜂。(リスボン地震

 


p.286 悪漢水夫が「これでも日本へ四回旅して四回踏み絵を踏んできた」と発言。ポルトガルを舞台にもしてるからか、日本への言及もちょくちょくある。18世紀って江戸時代真っ盛りだよな…… やっぱり「踏み絵」が海外から見た日本の代名詞なんだ。

「はばかりながら猊下」と、パングロスは言った。「自由は絶対的必然と両立しうるのでございます。なんとなれば、われわれが自由であるのは必然であったからでございます。なんとなれば、要するに断固たる意志は……」 pp.288-289

哲学の自由意志論っぽさがある。そこまで考えてないだろうけど最善説をゴリ押したら結果的に。

パングロス先生まであっさり処刑されてしまった。人の命が……軽い! 

「忍び階段」? p.293 隠し階段とは違うのか。

キュネゴンド嬢生きてたんかい。腹を裂かれて強姦された(!?)のはマジらしい。
登場人物がよく気絶する ラテアメ文学っぽい誇張法

 

4/11(木)     8章p.296~12章p.320
カンディードからしたらかつての両想いの女性から寝取られ話を直接聞かされているわけだけど、キュネゴンドがかなりたくましい女性なので陰惨なかんじはあまりしない。聴き手カンディードの意識に焦点が当たらず、滔々と語るキュネゴンドが前面に出ているからか。

8章のキュネゴンドの語りは注釈によれば、『マノン・レスコー』『運命論者ジャック』など17、18世紀フランス小説でみられた、ある章でサブキャラの身の上話を滔々と語る手法らしいけれど、個人的には『ドン・キホーテ』を連想した。当時のヨーロッパ「小説」全体の風潮なのだろう。 

 

キュネゴンドを匿っていたお婆さんの人生語り。悲劇マウント合戦。「お尻が片方しかない」実は彼女は教皇の娘だった。はじめから貧しい生まれであるよりも、高貴な身分から転落すればするほど可哀想、という価値観。
身分差別や人種差別や性差別がかなり直球できついところがあるのは古典を読む醍醐味か。

 

4/12(金) 12章p.320~329

何度も自殺しようと思いましたが、まだ命に未練がありました。そうしたばかげた意志薄弱は、きっと私たち人間のもっとも悲惨な性向の一つなのでしょう。だって、いつも地面に投げ捨てたいと思う重荷をたえず抱えていたがること以上に、愚かなことがあるでしょうか。自分の生をひどく嫌悪しているくせにそれに執着する、要するに、心臓を食いつくすまで私たちをむさぼり食う蛇を可愛がる以上に、愚かなことがあるでしょうか。 pp.321-322

いいね
注67によると、ルソー『新エロイーズ』やモンテスキューペルシア人の手紙』など、18世紀フランス小説では自殺論も盛んだったらしい。このへんが同時代なんだ~てか全員フランス人なんだ

私は、運命に翻弄されてめぐり歩いた国々や女給として働いたいろんな酒場で、驚くほど沢山の人たちが自分の生活を憎悪しているのを見てきました。そんな人たちのうち、自分の意志で不幸にけりをつけた人は十二人だけでした。 p.322

要するに、お嬢さま、私は経験を積んでいますし、世の中を知り抜いています。お嬢さまも気晴らしをなさって、乗客のみなさん一人一人に身の上話をするよう勧めてごらんなさい。自分の人生を何度も呪ったことがなく、自分はだれより不幸だと何度も思ったことのない人が一人でもいたら、私を真っ逆さまに海に投げ込んでくださって構いません」 p.322

このお婆さんはじめは自分がいかに不幸かでキュネゴンドにマウントを取ろうとしているのかと思ってたけど違った。ごめんなさい。ものすごく悲惨な人生経験を積むことでむしろ、世の中には自分を「だれより不幸」だと思って人生を呪った(けどまだ生に執着している)人がたくさんいるし、そうでない人のほうが珍しい、というひとつメタな認識に辿り着いている。そういうマウントではあるかもしれないが、単純な不幸の多寡比べではない。

 

4/13(土) p.330〜357
パラグアイイエズス会でキュネゴンドの兄に再会するも、妹との結婚願望を話した途端に決裂して殺してしまった… これで3人目の殺害。
運命的な再会はドン・キホーテ前篇を思い出す。

カンディードはいろんな国や地域を旅していろんな派閥を渡り歩くなかで最善説に関して再確認したり懐疑したりする。彼だけでなくキュネゴンドや老婆もそう。波瀾万丈な旅程がそのまま啓蒙主義の表現に繋がっている。

ガリバー旅行記リスペクトの大耳族のエピソードに、地上の黄金郷、エルドラードの王国への旅。

 

4/15(月) p.358〜386
エルドラードを発ち、カカンボと別れる。カンディードの次のパートナーはアムステルダムの老学者の男マルチン。超ペシミスティックなマニ教の信者を自称する。
パンクなタイトル回収 p.366

にしても、この物語はきわめて多国籍的・無国籍的というか、汎ヨーロッパ主義が根底にあるなぁと思う。プロイセン、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガルなど、いろんな国が出てきてそれらに対して等しく距離を取っているような。それが啓蒙思想なのだろう。現代でいうところのコスモポリタニズムか。

 

4/16(火) p.386〜
ヴォルテールが脚本を担当した演劇の主演俳優に作中で言及する。ズブズブの関係。彼の論敵、政敵をコケにしまくる風刺性も併せて、基本的に作者の現実社会でのあれこれを直截に持ち込んでフィクションを作っている。

某エロゲライターのdisにも使えそうな酷評表現だ p.391

ヴェネツィアでパケットに再会 誰だっけ、故郷の城にいた人?

最善説を信仰するカンディードが、世の中を無理やり楽観的に見ようとするが、悲観主義者マルチンのほうが優勢。この作品において最善説は否定されるためにある?

 

4/17(水) p.416〜426
第25章 ポコクランテ邸にて
ついにはホメロスまでdisり始めてる。注によれば作者ヴォルテールもほぼ同意見だったらしくて震える。
あまりにも自分の意見を貫いて偉大な古典を酷評しまくるポコクランテ(=ヴォルテール)親近感が湧く。純粋無垢なカンディード君を曇らせる展開が続く。かわいそう

 

4/18(木) p.427〜
第26章
カカンボとの再会。ヴェネツィアでカーニバルを過ごしにやってきた各国の元皇帝や元王様たち6人(全員実在する)に囲まれる晩餐の席。再帰的なコメディ

 

第27章
キュネゴンド嬢が奴隷にされているコンスタンティノープルへ向かうガレー船にて、処刑されたはずのパングロス先生と殺したはずのキュネゴンド兄と再会する。えぇ……どゆこと
とにかく、カンディードの出会ってきた男たちが勢揃いした

 

第28章
なんとか、パングロスとキュネゴンド兄の生きていた経緯をギリリアリズムの範疇で理屈づけた。さすが啓蒙主義者!
ふたりともキリスト教イスラム教の食い違いによって捕まって漕役刑に処されていた。パングロス先生が再登場したことで、最善説が再興するか?

 

第29章 醜くなったキュネゴンドとの再会。カンディードも本心では結婚したくないと思っててキュネゴンド可哀想

 

第30章 結末
パケット(誰だっけ)も加わってキャラ大集合の大団円ハッピーエンド!
カンディード達がぶち当たった最後の試練は「退屈」 それを労働礼賛、イマ風にいえば「日常をなんとかやっていく」スタンスをとることで乗り切って、終わり良ければ総て良しの最善説大勝利エンドではあるものの、哲学的な小難しいコトを考えずに沈黙してひたすら働くことにしたカンディードにとってはどうでもいい、というオチ。形而上から形而下への軌跡。ほえ~そうですか…………

 

読み終わったけど、これどうなんだろうな。テンポよくサクサク進む波乱万丈な流浪譚としてはそこそこ面白かったけど、文学的にも歴史的にもすごく偉大なのかはわからん。読み易いのはいいですね

ストーリー的には、明らかに南米インカ文明のエルドラードの存在が浮いていて、そこだけこの作品が描こうとしている「現実」世界から離れた異世界として設定されていた。後半はほとんどエルドラードから持ち返った宝石でピンチを凌ぐし……。「フィクションのエルドラード」の元ネタが分かったのはいいけど、正直これをどう捉えればいいのかわからん。単なるエキゾチシズム、オリエンタリズムじゃん、と切り捨てて終わりでいいのかどうか。

18世紀当時のヨーロッパ世界の様子がなんとなくうかがい知れたのは良かった。百科全書派、啓蒙主義者のヴォルテールが、けっこう素朴に自分(たち)の派閥・思想を肯定して、敵対する派閥・思想を貶しているっぽいのは、まぁそういうものとして仕方ないと受け入れるべきか……。

自分が読んできた、16世紀のラブレー、17世紀のセルバンテスなどの他のヨーロッパの超古典文学と比べると、一段劣る印象は拭えない。単純にボリュームの問題なのかもしれないが……

 

4/19(金)
巻末の訳者解説読んだ。

 

4/20(土)
カンディード』読書会当日
参加者3人の小規模な会だったけど、3時間じっくり話し合って楽しかった。(訳者によれば『カンディード』は数字 "3" に縁のある作品らしいですよ)

ラストの日常回帰、労働礼賛オチに対して、最善説の哲学者パングロス先生が「理屈をこねずに働」くことに同意しながらも形而上学的なおしゃべりを一向にやめようとせずにカンディードから軽くあしらわれている点を逆に肯定的に解釈して、「「理屈をこねずに働こう」と言葉で言うだけで自身は手を動かさない奴がけっきょくいちばん強い」こと、パングロスカンディードたちが畑を耕すときの作業用BGMとして「役に立」っていたのだと妄想することに至った。そもそも、沈黙を志向して実直に労働することを礼賛するところに最終的に着地するにせよ、そういうテーゼを体現するために「言葉」で編まれた『カンディード』という物語が必要とされている以上、やはりパングロス的な、「働かずに理屈だけこねる」一見役に立ちそうにない存在もまた大宇宙の最善には組み込まれている……  というか、パングロス、哲学者といいつつ一回死の淵から生き返ってるし、シンプルに身体がタフ過ぎるのがおもろいんだよな。それに本人が無頓着なのも含めて良い。不死鳥のようなステゴロのしぶとさの上にはじめて形而上学的な言葉の重みが生きてくる。 みたいなあることないことを、3人でのおしゃべりのなかで議論できてとても楽しかったです。

エルドラードについても、訳注によれば、当時のスペイン人の「新大陸」征服主義の口実としての黄金郷伝説を諷刺しているらしいけれど、じっさいカンディードはそこから持ち返ったダイヤのおかげで後半のヨーロッパ編の難局すべてを切り抜けているので諷刺・批判になっていないのでは?→でも、そういう主人公カンディード自体を作者ヴォルテールが諷刺して相対化して書いていたと見做すことは可能である…… など考えを深められた。

それ以外にも、アラビアンナイト→『デカメロン』『カンタベリー物語』などの物語群に枠だけ付いているやつ→圧倒的な主人公のメインストーリーの冒険譚が各エピソードをまとめ上げる最強の『ドン・キホーテ』→ひとりの主人公の物語だがただ流れ去っていくだけのゲーム的なピカレスク小説(『トム・ジョウンズ』『カンディード』もここに入る)→主人公が色んな経験をして成長する19世紀の〈小説〉、ビルドゥングスロマン…… みたいな見取り図の紹介はめちゃくちゃ刺激になった。

また、原文への想像も含めて、細かい文章表現・言い回しの魅力などを丁寧に確認し合うことができたのもたいへん良かった。やっぱり「小説」がちゃんと成立する前の、18世紀以前の古典文学はおもしろいな~~と思いました。