「症候群」大滝瓶太

 

『徳島文學 第三号』収録

 

大滝さんの書いた小説(短編しか読んだことがない)で、数理要素があからさまに出てこない、いわゆるふつうの"純文学"を読んだのはこれが初めてだと思う。読み味としては、noteやはてなブログで書いているエッセイ等の記事に近い。

 

ただ、物語の筋は単純ではなく、保育士の男女二人──援助交際でしかセックスをしない柚月(24)と、同僚から男性的に見られず、「なにも考えずにただ生きていたい」時生(26)──それぞれの過去のエピソードが折り重なって矢継ぎ早に語られる。現在時制での出来事はほとんどない。二人で飲みに行って駄弁るだけだ。

 

どちらのエピソードにもSNS(おそらくTwitterのようなもの)が登場することなどから、とても現代的、"イマ風"の小説であると感じた。文体は基本的には少し砕け気味で軽やかで、それこそwebの記事を読んでいるよう。しかし、ところどころで急に文学的でレトリカルな言い回し、文章が差し挟まれる。例えば

 

時生から「カノジョがいた」という事実を知らされるまで、柚月はかれがホモセクシュアルである可能性を予想していた。男の子が好きそう、というひとことを投げかけるかどうか、喉元まで出かかったがそれは堪えた。そういわれることを予期していたのか、あるいはそういわれていることに慣れているのか、時生は彼女の逡巡を察知して、ぼくはヘテロですよ、といった。無機質な声だった。その無機質さがまとうある種の異様さにふたりが気づいているのかは第三者の目からは推し量れない。世間にとって圧倒的多数派であることをカミングアウトする、ただそれだけのことに、なにか得体の知れないものが海の底で深い眠りから醒め、重たい頭をもたげ、この世界になんの影響も与えることのない些細な海流が生じるような、そんな運動をとらえる目は、はたして人間に備わっているだろうか。 p.35

 

「無機質な声だった。」までは端正で普通の文章だが、それ以降は一気に修飾的になる。しかも、最後の「そんな運動をとらえる目は、はたして人間に備わっているだろうか。」って、地の文がいきなり読者か他の何者かに疑問を投げかけて段落が終わる。「第三者の目」って誰だよ、こわいよ。いかにも文学的。



そう考えると声なんてまさに人間から常に切り捨てられ続けている頼りない信号に思えた。 p.46

 

ここの一文にはハッとさせられた。小説を構成する一文としてではなく、独立した一文として好き。要するに、普通に上手いこと言ってるな〜と思ったということ。正直、小説内で「上手いこと」を言われるのはあんまり好きじゃない(小説は上手いことを言うコンテストではないので。)けど、それはそれとしてここに惹かれてしまうことも事実である。

 

この男はもしかしたら死のうとしているのかもしれない。そんな想像がパッと脳裏をよぎったのだが、実存の切実さに直結しうる抽象を脊髄反射的に生き死にの問題に還元してしまうじぶんの思考の陳腐さを、未だ効果が表面化しない睡眠導入剤の悪意のせいにしなくては柚月自身の情緒の安定を保てそうになかった。 pp.46-47

 

ここも素直に好き。自虐的メタ認知の描写の解像度が高い。「脊髄反射的に生き死にの問題に還元してしまうのは陳腐だ」までだったら大したことないけど、そこから更にもういち段階メタってるところに好感が持てる。(柚月にではなく作者に好感が持てる)



他人の感情や真実を推し量っても決めつけてもいけない気がした。しかしそこになんらかのかたちのかなしみがあるのならば、わたしは、と柚月はおもった、最後まで出会ったかなしみに寄り添い、そのかなしみがたとえかなしみじゃないとしても、最後まで、そしてその感情の憑代よりもふかくかなしみ抜きたい、そうせねばならないとおもった。それが最高にかわいいから。 p.47

 

「かなしみ」とひらがなで書くところといい、露骨に力の入った、引用を待っている重要な文って感じに嫌気がさすが、「それが最高にかわいいから。」という最後で、その露骨さがすこ〜んと抜けて気持ちよい。この前振りだったのか〜してやられた〜
「かわいい」という発言をめぐるあれこれは本作の核のひとつ。

 

だからさ、かさしみを見つけ出したゆずちゃんの心はきっと祝福やよろこびだよ。本質的に、っていうことばを使うと胡散臭くなってしまうから使わないけれども、かなしみを見出した瞬間だけはゆずちゃんの心はまちがいなく祝福であり、よろこびだった。 p.48

 

「感情を見つける心は反対の感情を持っている」という時生のトリッキーな説は、正しいような正しくないような……という微妙なラインで、このくらいのラインの言説が小説には適している感じがしてよい。
ここも、よく考えると、途中までは「ゆずちゃん」と言ってるから時生が発言者っぽいけど、最後には「まちがいなく祝福であり、よろこびだった。」と断定形で"第三者"っぽい語り口にいつのまにか遷移している。



女は何者かを決して明かすことなく、受話器から次々に生み出されるあたらしい声をすぐさま霞みがかった過去へと変えながら、慎重に生きている気配を隠していた世界だった。 p.49

 

「おれは世界になる」という妄言を吹聴する男のエピソードを出したすぐあとで、こうして伏線回収的にしれっと使うノリがすき。



こうしているあいだにも、ぼくらはなにかに傷ついているのかな。何にだって傷つけるよ、ことばとまなざしを残酷にとがらせることでじぶんが傷つかないでいられるけど、それがだれかを傷つけてしまったなら永遠の射程において傷つかなかったことにはならないんだ、かならず傷つく運命をみずからの時間にうがっただけにすぎないよ、生き死にの区別のない、どこかにある「いつかかならず」でわたしはぜったいに傷つくんだ。傷つくよ、傷つくんだよ。 p.51

 

ラストから一つ前の段落。二人の会話の末尾で、あきらかにここがこの小説のクライマックスといった趣。ここらへんがすごく刺さるひと(特に若い子たち)はそこそこいそう。自分はこういう文にたいして、「いかにも」とか「狙ってる」とかいった斜めに構えた受け取り方しかできなくなってしまって、それがいかに悪いことだろうが、「どうしようもない」の一言を免罪符にできると思いこんでいる。思いこもうとしている。



さっきも書いたが、この小説にはプロットと呼べるものはほとんどなく、プロットを練って展開で魅せる小説たちをクラシック音楽とするならば、こちらはその場その場での小出しのエピソードや文章を味わうジャズのような小説だと思う。
(クラシックもジャズもまったく聞かないので馬鹿げた比喩になっているのがこわい)

 

「傷ついていないことに傷ついている」といい、「かわいいは正義」といい、ここらへんの本作のテーマを真面目に考えようとするとめちゃくちゃめんどくさそう。というか、論理的に考えようとしてもダメで、わかるひとにはすぐに「わかる」タイプの作品という気がして、自分はその顧客には入れなかった。
だからといって本作がつまらなかったかといえばそんなことはなく、上に挙げたように、良いと思った箇所は多数あり、楽しい読書だった。要は、本作がジャズというよりも、私は本作をジャズとして楽しむことしかできない(それで満足している)というのがより妥当だと思う。



徳島文學 第三号 2020 Volume3
徳島文学協会
2020T