「花ざかりの方程式」大滝瓶太

SFマガジン2020年8月号』掲載


これは……すごいな。かなり好き。
めちゃくちゃパワーズっぽい。というか、『ガラテイア2.2』しか読んだことがない(しかもまだ途中)ので、要するにガラテイア2.2っぽい。

 

ひとつの発想とか思考実験で勝負しているのではなく、細部の文章の言い回しで細かく点を稼いでいる感じがSFというよりも純文学っぽくてすき。SFが一般に苦手な理由のひとつは、文章が面白くない(こと多い)点が挙げられると思うが、さすがにそこは瓶太さん、文を追っているだけで楽しい、文を頭のなかで反芻するだけで面白い文章を書いてくれる。書かれている文章が志向する内容よりも、書かれている文章それ自体に魅力があるのが純文学の内在的な特徴のひとつだと思う。(純文学の外在的な特徴については他でもない瓶太さん自身が以前書いていて、その主張には全面的に同意する)

 

瓶太さんの著作でこれまで読んでいるのは阿波しらさぎ文学賞の受賞作と、ブンゲイファイトクラブ1回戦のやつと、その時期にnoteで公開されたチェスっぽいボードゲームの短編(いま調べても見つからない。削除された?)の3つ。
どれも数理のロジック×純文学のポエジーを特徴としているが、しかし阿波しらさぎ文学賞BFCのやつは自分には難しすぎてついていけなかった。

 

しかしこの「花ざかりの方程式」は読みやすい。すらすら読める。まずそこに驚いたし、個人的にはめちゃくちゃ嬉しい。
読みやすくなっているのは、ミサとサクという年子の姉弟の存在が大きいだろう。彼女らが出てくるパートは純文学どころか児童文学のようなやさしい語り口で、ピンチョンの短編のなかでは「シークレット・インテグレーション」を推してしまう私にとっては高評価せざるを得ない。

 

本作は大きく分ければ、「花ざかりの方程式」を発見した桜塚八雲の物語と、元妻ハルナに出ていかれた秋津恒生とその二人の子供ミサ&サクの家族の物語という互いに関連があるようで独立しているような2つの物語が交互に語られる形式となっている。
それぞれの時系列も幾らかシャッフルされており、そうした複数の回想のあいだを軽やかに揺蕩う感じがとてもパワーズっぽい。(=ガラテイア2.2っぽい)

 

本作について考える上でポイントというか厄介だなあと思うのは、「2」と「3」が混在している点だ。
「2」というのはミサとサクが二段ベッドの上下から互いに語りかけるような上下方向のモチーフであり、三途の川に象徴される「此岸と彼岸」のモチーフでもある。
いっぽう「3」というのは、「この世」と「あの世」に、冒頭に引用されているカート・ヴォネガット「死圏」が加わることで作られる三位一体の構造である。
うーん、しかしどうなんだろう。こう書いてみると「死圏」だけが特異点っぽくて、あんまり二元論と三元論が並立している感じはしないな。
ただ、リフレインされるミサとサクの上下(鉛直方向)の呼びかけが最後には左右という水平方向に転倒するのは重要だろう。重要だろうが、いまはあんまりそこを深く考える気分じゃない。まぁ両者の大きな違いは、上下のときはミサとサクが互いに声を掛け合っていたけれど、左右では二人の間のパパ(秋津恒生)に喋りかけている点だろうな。あ、ここでも2と3のコントラストが。……え、やっぱりそれ大事なん?
(あ、今気づいたけど落ちにシークレット・インテグレーションとの共通点がある……けどこれこそ双方にとっての重大なネタバレや)

 

ただ、終盤のほうになるにつれてやっぱり難解になってきて、着いていくのに大変だった(ちょっとだけ振り落とされた)
わからないのが、ナビエ=ストークス方程式もとい花ざかりの方程式は桜塚八雲にとっては三途の川、「幽霊」とか「魂」とかの方向性で意味を見出していたような気がするけれど、秋津恒生は数学と言語学に橋を架けるもの、あるいは飛躍して全ての学問を統一的に理解する研究の文脈で同方程式を見出していたような気がする。全然ちゃんと読めてないから自信ないけど。
つまり、ここでも「数学」と「魂」と「言語学」が三元論的構造を成していて、これらの根底にあるのは「思考」なのだろうか。
うーん、読み返さなきゃわからんな。



・好きなところの引用

 

「おもう」のと「考える」のは、「この世」と「あの世」くらい遠い。「そのメタファーで死圏はなに?」サクが下からきく。「感じること?」ミサが上からきく。
p.52中段

 

ここに付箋をはったのは、突如として地の文の語りに作中人物たるサクがツッコミを入れてきてびっくりしたからで、ひょっとして語り手≒ミサ?とも思ったけど、いま考えるとミサはサクのツッコミに答えてるんじゃなくて、同じように聞いている(提案している)と読むのが自然だな。つまり、語り手が二段ベッドの"真ん中らへん"にいて、二人が上下からツッコんでいるイメージか。こうして語り手の位相がふわふわ軽やかにぶれる(たゆたう)のは、それこそピンチョンとかに近い。すき。



工学的応用は研究者によって発行された研究者にとっての免罪符だ。
p.53中段

 

この一文は……なんというか、なかなか罪深い一文で、初見のとき「うわぁ・・・」と唸ってしまった。しかも後に伏線回収的に再言及されるから笑っちゃった。あまり笑える話でもないが、小説だからね。現実にも成り立つようなこと、現実ではぎりぎり成り立たないようなことについてフィクション内で言及することによって、その言説の正当性や魅力が昇華される現象については『ガラテイア2.2』を読んでいたときにずっと考えていた(考えさせられていた)ので、ここでもそれに通ずるものを感じた。
すき。



だけど困ったことに、人生は往々にして思い通りになってはくれない。ここでため息。ふたりはたいした不幸を知らないくせに、人生という主語をなにかと使いたがる癖がある。
p.54上段
ここは素直にすき

 

押入れのなかはちがう季節の服がたくさん詰まっていて、本棚のなかにはニュートン力学に従わない無数の世界が詰め込まれている。秋に夏服を着て恋をするとサンタクロースが星をつかまえて靴下にねじ込んでくれるのだとしたら、ふたりに与えられた八畳というスペースは意外と狭くない。ロケットはレゴブロックで作れるだろう。想像力は荷物にならない。
p.54中段

 

ここがいちばん刺さった。
押入れのなかはちがう季節の服がたくさん詰まっていて、 →ふむ。
本棚のなかにはニュートン力学に従わない無数の世界が詰め込まれている。 →ふむふむ。
秋に夏服を着て恋をするとサンタクロースが星をつかまえて靴下にねじ込んでくれるのだとしたら、ふたりに与えられた八畳というスペースは意外と狭くない。 →!?!?!?
って感じ。「秋に〜」の文がいまだにどういうことなのか理解できないんだけど、この理解できなさは大好き。ここに出会った時には思わず顔を上げて「うわ〜〜〜〜」って言っちゃった。理解できるラインとできないラインのぎりぎりの境界領域をふらふらたゆたっている感じが最高。

 

ふたりは認めないだろうけれど、10歳なんてまだ現実のうちに入らないのだ。
p.56上段
素直にすき

 

ファーストクラスの老人が心臓発作でひとり亡くなったがかれは遺書を残していなかった。
p.56中段
こういう些細な乾いたユーモアがすき。

 

肉体がなくなってしまったために八雲とは少し疎遠になってしまったが、年に1回はメールを送ってくるしフェイスブックの更新は毎日欠かさない。
p.57上段
ここも最高。「少し疎遠になってしまった」じゃねえんだよ!肉体なくなってんだぞ!やはりユーモアこそが文学性の要ではないか?

 

ただふたりは恋がなにかを知るにはまだ時間が必要だったが、よくよく考えてみれば「恋とはなにか」の問いに答えられる大人は信じるに値しない。
p.57上段
たしかに……。ここも上述のパワーズ的言説の範疇。




これはまだ情景の素描で、まだ物語じゃない。はじまりはこうだ。
p.62中段
これぞまさにパワーズって感じ。有名なガラテイア2.2の冒頭「言ってみればこんな話だが、本当はそうじゃない。」




めちゃくちゃパワーズ読みたくなってきた。ガラテイア2.2を再開するか〜〜〜(でも読まなければいけない本が何冊もある
というか、『ガラテイア2.2』の訳者である若島正さんが同じ誌面に載っていて勝手にエモさを感じた。
 
とりあえず『コロニアル・タイム』をKindleで購入した。
本作を読んで、とりあえず私のなかでは大滝瓶太氏はSF作家というよりも純文作家として位置づけたいと思った。ジャンルに拘るのはくだらないし、これは要するに「大滝瓶太は好みの作家だ」と言っているのとほぼ変わらないけれど。
ここでこうして書いてしまうことにともなう厄介さを更に引き上げるのは、まさに本作がSFと純文の関係性や統一をテーマにしているように(いとも簡単に)読めてしまう点だ。が、ここではこれ以上深入りしない。




コロニアルタイム (惑星と口笛ブックス)
大滝瓶太
惑星と口笛ブックス
2017-10-23


 
ガラテイア2.2
リチャード パワーズ
2001-12-21