『ヴェネツィアに死す』トーマス・マン



1章 p7-16
文が読みにくい!長いし硬いし周りくどいし…岩波だと訳はどうなんだろう。『トニオ・クレエゲル』のときはそんな読みにくい印象なかったような。だいぶ前で覚えてないけど。読み通せるか不安だ…

 

50代のストイックな作家アッシェンバッハが散歩中に謎の外国人を見かけることで、とつぜん旅に出たくなる。意味わからんな。密林の幻覚とか見ちゃってるし。

 

2章 p16-29
いやマジでキツい。哲学書かよってくらい抽象的な思想が語られる。
古典文学あるある。登場人物のやけに長い経歴紹介。
悪い意味でめちゃくちゃ文学って感じ。

 

5/27
3章 p80まで
アドリア海の島に行ったものの民度が悪く1週間後ヴェネツィアへ。無免許ゴンドラでぼったくられる。
海水浴客用のホテルで母と3人の姉たちと滞在中のポーランド人の14歳ほどの少年タッジオに出会い心酔。(ちょうどp.50)
その後、ヴェネツィアの暗く暑苦しい気候にうんざりして突如去ることにするが、決めたあとに後悔しはじめる。
結局チェックアウトして駅に着いたが荷物をどこかに誤配されたため、返還を待つ口実で再びチェックインできてウキウキ。
アッシェンバッハは少年の存在のためにヴェネツィアを去りたくないのだと自覚した。

 

いよいよストーカーものっぽくなってきた。(あらすじはどこかで見て知っている)
にしても海岸でタッジオと同年代の少年がとつぜん接吻したのにはビビった。友好のキス?
ヴェネツィアを出ると決めてしまったことにめっちゃ後悔して、幸運にも引き返せて大喜びする心理描写は共感性が高く良かった。
訳は相変わらず読みにくい!と!思います!

 

自分を犠牲にして精神の中に美を作り出す人間が、美を体現した者に父親のように好意を寄せ、心からの愛情を捧げる、そう思うと彼の心は満たされ、感動にふるえた。 p.66
アッシェンバッハと少年のわかりやすい対比構造が出てきた。
精神と肉体、理性と感性、美の制作者と体現者、見るものと見られるもの、愛するものと愛されるもの。親と子

 

ストーカー文学といえば川端康成の『みずうみ』だが、あちらは背徳的な耽美さを描いているのに対してこちらはむしろ崇高な行為として描いているから余計にたちが悪い。まったく後ろめたさがない。時代や国の背景も鑑みる必要はあるかもしれない。

 

にしてもバカンス文学を読んでいると純粋に羨ましいなぁと思う。何にも縛られずのんびり過ごしてぇ〜〜〜〜
サガン悲しみよこんにちは』、コレット『青い春』、ウルフ『灯台へ』、ウエルベック素粒子』などなど…
(このラインナップだとウエルベックの異物混入感がすごい)

 

p.100まで
ストーカーものでは鉄板だが、やはり見られる側(タッジオ)の視点や心理描写がほとんどないのが恐ろしいというかなんというか。
しかし、この2人の関係性を外野である我々が観察してあーだこーだ言うのも、それはそれでひとつのストーキング行為なのでは?この理論だと読書は一般にストーキングだな。

 

5/30(土)読了
最後のシーケンスの息もつかせぬ美しさといったら!物語の締め方だけならベスト級に好き。
終わりよければ全てよし、を地でいってる感じの作品だ、わたしにとっては。

 

読んでしまえば、「老いた男が恋に落ちて奈落へ落ちる」だけのきわめてシンプルな話だ。
コレラはアッシェンバッハを物理的に死へと導くためだけの道具として使われた感が拭えないが、精神的に奈落へ導いたタッジオさえも感染する危険性があり、その回避のためにヴェネツィアを発つというのはもう少し意味を見出せそうな気もする。

 

そして結局タッジオはアッシェンバッハのことをどう思っていたのだろう。ラストを読むと、なんだかアッシェンバッハの妄想・理想の産物として捉えたくもなってしまう、安直だけど。p.140に、散歩中のタッジオが後をつけるアッシェンバッハを時々振り返って「確かめる」描写があるように、自分が執着されていることに気づいていたのは確かなようだ。



〜読書会を終えて〜
とりあえず読みにくいのは訳のせいではなく原文のせいだとわかって安心(?)した。
もうしばらくはトーマス・マンはいいかな……課題本に指定されない限りは……



トニオ・クレーガー (光文社古典新訳文庫)
マン,トーマス
光文社
2018-08-06

 

 

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)
トオマス・マン
2003-09-18