『万延元年のフットボール』(1)大江健三郎(1967)
前半(1~7章)まで読んだので、暫定の感想メモを投稿します。
2021/12/23
まず、巻末の「作者から読者へ」を読んだ。
・第一章
当たり前過ぎることだが、文章がとても上手い。これぞ純文学というような、カッコよく示唆に富む言い回しと不穏で生々しい雰囲気に満ちた文体。まだ10ページちょい読んだくらいだが、そんなに身構えていたほど難解で読みにくくはない。「そこそこ」くらいかな。ところどころ意味が捉えられなかったり、文法に引っかかる箇所はありつつも、概ねそこそこなめらかに読み進められそう。
動物や植物をよく比喩に使っている印象。人間とそうでない生き物、という境界が副次的な主題となっていそう。あるいは「植物人間」の語が浮かび上がるような、"まともな"人間とそうでない人間、という境界について。
「犬は病気」というフレーズも関係づけられそう。
(『同時代ゲーム』に浮気して読みかけるも、こちらも第一部までで途絶)
~3年半が経過~
2025/6/8(日)深夜
1章読んだ。
動物・生物の比喩が多い。犬は実際に出てくる。
ぶよぶよ 湿度・粘性が高い 死体 デビュー作以来のオブセッション
身構えて読むと、そんなに読みにくくもない。
一人称叙述だが、「友人」のエピソードを三人称的に、その些細な精神や感情の動きまで語る。
夜明けに家の外の穴(?)の底に犬と共に蹲っている現在時制から、自死した友人や弟や妻の過去を回想し、章末で回想から戻ってくる構成。
ちょうど100年間ってことか!!
本書って英題は "The Silent Cry" っていうのか…… 他の西洋語圏でも。
6/9(月)
2章
羽田空港のホテルでアメリカ帰りの弟を待つ。妻と、弟の友人(崇拝者?)であるふたりの若者と一緒に。
夜明けにダウナーに沈み込んで眠り、誰かに覗き込まれながら起こされる、というプロットは前章と相似している。
相変わらず多い動物・生物関連の比喩。主人公「蜜」は動物観察の本を翻訳して生計をたてている(いた)ようなので、それが関係しているのか。
羽田空港は1958年にGHQから全面返還された。60年代は、滑走路の敷設拡充などで現在の羽田空港の原型を使っていた最中だった。らしい。
谷間の村の家にある蔵を、スーパーマーケット経営者に売却するため、帰郷することに。いきなり露骨にキャッチーな構造と筋書きが与えられる。
日本でスーパーマーケットが誕生し始めたのは50年代。
そこから60年前後にかけて徐々に普及していった。
100年前に村で曾祖父が弟を殺したという伝説がある。この兄弟と、蜜・鷹の兄弟が重ね合わされている?
3章
6/10(火)
故郷の村へ
手術したふたりの赤子がトラウマになっている。
バスに車掌がいる。女性が一般的だったのか。
まだ四国に渡るには船しか無かった時代?
初めて橋で本州と繋がったのは1988年なのか! かなり最近なんだなぁ
隠遁者ギー=義一郎
蜜三郎の妻は菜採(なつ)
とつぜん大食で肥満してしまった中年女性ジン
菜採と鷹四の仲が接近している。寝取られそう
p.98 S兄さんはそれが宮沢賢治の詩だと言っていたが、……
p.99 柳田国男『山の人生』からの引用
裸にして腰のまわりだけに 襤褸 ( ぼろ ) を引き纏い、髪の毛は赤く眼は青くして光っていた。
"uprooted" 根無し草的な
4章
6/11(水)
蜜は曾祖父に、鷹は曾祖父の弟に肩入れする? やっぱり100年の時を経て生まれ変わったようにきょうだいが重ね合わされている。
すでに谷間にスーパーマーケットあるのね。
寺の地獄絵図は『同時代ゲーム』でも出てきたような。
いろんなことの記憶や意見が食いちがう蜜と鷹。
特に、撲殺されたS次(S兄さん)に関する記憶の隔たりは大きい。蜜は、弟の主張を夢に見たものだと一蹴するが、客観的には蜜の記憶だって正しい保証はどこにもない。一人称の信頼できない語り手すぎ。何歳差なんだっけこのふたり。
その兄弟の論争に、第三者として参入する妻の菜採。
谷間の青年グループと朝鮮人部落は別々なんだ。殺人のバランスを取るために贖罪羊となって殺されたS兄さん……
潰れた顔の内部の赤い明るみの描写エグい p.125
そのS兄さんの死体にしろ片眼の視力を失った蜜にしろ、子供のことで精神が落ち込んでいる菜採にしろ、頭の内部の空白、欠落、虚無において連関して提示されているように思われる。なんなら「期待」の感覚の欠落、から始まった小説であるのだし。人間存在の深い絶望や虚無感について。罪悪感にも似た。
5章
スーパーマーケットの天皇?? 経営者をそう呼んでるのか。
菜採が栽培していた植物の腐敗した回想シーンやば〜〜 読んでるだけでウッとする。犬の濡れた口の臭いはしらないけど。大量の犬のイメージは大江のデビュー作「奇妙な仕事」を喚起するなぁ。
p.152 「菜採子」が本名なのかい
そのための「天皇」か!!
天皇は朝鮮人部落から成り上がったのか〜 すげぇ露骨な設定
「もしかれがすでに日本に帰化しているとしても、朝鮮系の男に、天皇という呼び名をあたえるのは、この谷間の人間のやることらしく底深い悪意にみちているよ。しかし、なぜ誰もそのことを僕にいわなかったのかなあ?」
「単純なことさ、蜜ちゃん。谷間の人間は、二十年前強制されて森に伐採労働に出ていた朝鮮人に、今や経済的な支配をこうむっていることを、あらためて認めたくないんだ。しかも、そうした感情が陰にこもって、わざわざ、その男を天皇と呼ばせる原因にもなっているんだなあ。谷間は末期症状ですよ!」 p.155-156
なるほどなぁ 面白くなってきた
てか、戦後二十年だから作中時は1965年頃と思っていいのかな。いま蜜が27歳でしょ? S兄さんが帰村して亡くなったのがいつ頃なんだろう。
p.106 あー朝鮮人部落あとで、村の青年グループが鶏を飼っていたんだな。だから、その土地はスーパーの天皇のものである、と。現在は村に朝鮮人たちは住んでないってこと? スーパー天皇が経済的に遠隔に村に影響を及ぼしてはいるものの、出て行ってはいるのか。
こないだ読みかけた中上健次の初期短編「一番はじめの出来事」でも、朝鮮人部落が出てきたような覚え。
p.159 青年グループと谷間の「大人たち」=農家?の関係もわりかしピリピリしてるのか。S兄さんが贖罪羊にされた抗争の原因も青年たちをけしかけた大人たちらしいし。まだあまり顔が見えないのが不気味だ。
あーそうか、青年グループは復員兵で構成されてるのか。朝鮮人たちとの関係も、明らかに先の戦争が背景にあるってことね。もちろん天皇も。
谷間は、ざっくりまとめると「大人たち」、復員青年グループ、朝鮮人=スーパーマーケットの天皇、という3派閥が複雑で神妙な関係を成していて、そこにノコノコと蜜・鷹きょうだい御一行が帰ってきたわけか。
スーパーに居抜きされた、今は去った醸造家の存在もまた、歴史的には大事なのだろう。根所家と醸造家のふたつが百年前に一揆で襲撃された対象らしいし。
蜜が幼い頃に学芸会の一揆の劇をみて引きつけを起こして失神した話。なにかを再現する演劇も大江作品によく出てくると聞いたことがある。
「蜜は社会生活から、まったく降りてしまっているのに、なお、社会から受けいれられる人間なのよ」 p.170
これは菜採のパンチライン
フットボールチームの話、唐突すぎる!w
6章
百年前の一揆の原因はなんだっけ。飢饉? そこに朝鮮人は関わっているのか。というか当時からいたのか。
もしスーパーマーケット襲撃するなら、セサル・アイラ「試練」じゃん
戦争のあいだ一揆の記憶は、谷間の人間すべてが担っている恥とみなされていたが、大竹藪は万延元年の一揆のもっともあきらかな証拠であった。 p.177
なるほど〜!
20年前の戦時中の祖国動員の記憶と、100年前の百姓一揆の歴史が、体制/反体制という観点では真逆ゆえに「恥」だと認識されているのか。しかし恥とは思わずに、むしろ誇りだと感じる人々もいるのだろう。青年グループのように。
オイル・サーディンって何? 鰯の缶詰か。
鉄砲を打つ曾祖父にはなれないと言っておきながら、みずから倉屋敷の2階に陣取って仕事始めてるじゃん蜜!!
6/12(木)
p.185 再度出産するならあと一年と蜜が言うけれども、菜採は何歳なんだ。まだ三十代にもなってないのでは? そういう意味じゃなくて、もっと精神的な理由で「来年にはもうとりかえしがつかない」ってことか。
p.187 チマキってなんだ。餅米で作ったおにぎりみたいなもんか
p.189 なるほど、朝鮮人が谷間にやってきたのは戦争が始まって伐採労働を強制されたからか。そこでニンニクをチマキに入れて食べる習慣が根付いたと。
p.191 「未来映画の怪獣の火炎の吐息さながらに」とあるが、これって初代ゴジラのこと? 1954年だから既に常識の語彙になってはいたか。
p.192 百年前の一揆はもともと仕組まれたものだった? 百姓の不満を一度発散させる目的で、高知からやってきた男の策謀によって、根所の曾祖父や谷間の大人たちが画策したもの? 曾祖父の弟や青年グループは、のちのS兄さんのように犠牲者として選ばれて厄介払いされた? 陰謀論が渦巻いている。土佐藩や幕末期の政治的情勢が背後にあるのか。
処刑される前に一揆の首謀者グループは根所の倉屋敷に立て篭もったのか…… そのとき曾祖父は倉屋敷を彼らに(わざと)明け渡したってこと?
「正直にいうと」と若い住職もまた率直に認めた。「あの朝鮮人部落での事件に傍観者として立ちあううちに発見した知恵でもって、万延元年の出来事を解釈したというのが実のところでね。S次さんの行動には、万延元年を頭において決断しているとしか思えない節があったんだよ。僕が万延元年と一九四五年夏を結びつけるのは単に牽強付会とだけはいえないと思うよ」
「S兄さんが、暴動の責任者グループの中でひとりだけ処刑をまぬがれた曾祖父さんの弟のことを気にかけていて、逆に自分は、朝鮮人部落襲撃の参加者のうち仲間でひとりだけ殺される役割を担ったというのなら、それはともかくもう死んでしまったS兄さんに対してもっとも優しい解釈だ」 p.197
なるほど〜 歴史をあとから紡ぐ者が恣意的な「解釈」によって狙って出来事を反復・再演させている節があるのか。そのようにして歴史は作られていく。
1860年(万延元年)と1945年と1960年?の3つの時空間が重ね合わされている。2つだけではない。しかし、S兄さんが殺されたのって45年夏なんだ。終戦後すぐ帰ってきて襲撃事件に巻き込まれて亡くなったってことか。そして、あれから二十年後とどこかで言ってたけど、今は1960年じゃないの? でなければ万延元年から100周年ではなくなってしまう。いま何年の話をしてるのかページの隅っこに常に表示しといてほしい。
戦死した一番上の兄さんの手記。軍隊での暴力の記録。うわ〜…… 蜜もそれをわざわざなんで鷹に見せちゃうかねぇ。けしかけてるようにしか。蜜も無意識で百年前の再演をしたがっているのか。
7章
6/13(金)
橋の倒壊事故から子供を見事に救い出して、若者たちを率いる鷹四の株は上がり、菜採と鷹四の関係に蜜は嫉妬し始める。
「テレヴィ」 テレビが普及し出した頃か
琉球語で根所=ネンドコルーって何? 検索しても本書の情報しか出てこない。
谷間と自分は無関係だと感じて、東京に戻ろうとする蜜は、拗ねた子供のようだ。「ネズミ」であることを受け入れて開き直る。
・エロゲ読解
都市にいた男主人公が、故郷の田舎の村へと帰り、その土地の伝奇が語られる……という筋書きから、本作は「エロゲ」的な構造を有している。
ただし、エロゲとして見た時に、男主人公がすでに結婚している点、及び、その妻と一緒に村に帰る点が、"らしくない"。また、村で生まれ育った「ヒロイン」的な女性キャラも不在である。(強いて挙げるならジンしかいない)
そもそも、弟に誘われて連れられて帰郷している時点で、あまりエロゲっぽくはない。
この点、冒頭から「妹」の存在が圧倒的な『同時代ゲーム』のほうがエロゲらしいといえるだろう。
妻といっしょに帰るのは『H2O』のアフターストーリー(はやみアナザー)「思い出の果てに」にちょっと似てるけど、あれは2人とも村出身だしなぁ。都会で出来た彼女・妻と一緒に、成長した男主人公が田舎に帰る話の古典ってなにがあるだろうか。
・7章までの感想
これで半分は読んだわけだが、なんだかなぁ…… 今のところ、そんなに面白くはない。いや、谷間の村の歴史や神話など民俗学っぽい要素や設定なんかはそこそこ好きなんだけど、文章に魅力が感じられない。
天下の大江健三郎にこんなことを云うのは憚られるが、文章がしょうじき凡庸……だと思ってしまう。内省的・自閉的で鬱々としていて、絶望や虚無感が基調となっていて、いかにもな「純文学」というか、現代日本文学の文体だなぁと。村上春樹とかとあんまり違いを見出せない。自分が日本文学を読んでいないだけなのかもしれないが。(もちろん、本作を筆頭に大江文学がその後の国内小説の文体に多大な影響をもたらしたゆえの "凡庸さ" なんでしょうけれど、原点としての凄みや偉大さは感じにくい。) じぶんの日本文学への感受性が終わっている説。
確かにそれなりに読みにくいが、いうてそれほど読みづらくもない、ふつうの小説の文章だな〜と。一文が長くて係り受けの修飾構造がちょっと過多なだけで、ちゃんと読めばふつーに意味は分かることしか書いてないし、述べられる思想や表現もそれほど特殊・独創的だとは思えない。よくあるやつ。
ラテンアメリカ文学など、海外文学のもっとぶっ飛んだ、意味分からない方向性やスタイルの文章が好きなので、良くも悪くも、大江の文章は自分に身近すぎて、面白みを感じにくい。どうやったらこんな文章で小説を書こうと思うんだよ!?!?みたいに衝撃を与えてほしいのに、全然その水準を超えてこない。
それでいて、百年にも渡る土地の神話とかいった壮大な物語をやろうとしているので、チグハグというか、肩透かしで萎えてしまうかも。『JR』とか『パラディーソ』とか『アカシアは花咲く』のレベルを常に期待するのは馬鹿げているのだが。
『同時代ゲーム』以降の作品のほうが、それこそラテンアメリカ文学などの影響も受けて、よりエキゾチックに、独創的?になっているのかもしれないが、いうて同時代ゲームの第一部を読んだときも、そんなに文章に感動はしなかったしなぁ。
むしろ、文章がマイルドで読みやすいと評判の『M/Tと森のフシギの物語』のほうを読んだほうがいいのかもしれないな。
・追記

日本の文壇でそれをすでに、南米文学と、まあ影響という言葉を使うのは危険なんですが、呼応してやり始めているのは大江健三郎君です。大江健三郎君の『「雨の木」を聴く女たち』の文体は、まさにいまの南米作家の魔術的レアリスムの文体と同じことを日本語でやろうとしてるんで、おそらく大江君は、たしかに南米の作家たちをライバルに意識しながらやってると思いますね。
1983年7月の『ユリイカ』「ラテン・アメリカの文学」特集号の、鼓直と中村真一郎の対談を読んでいたら、ちょうどこんな記述があった!(画像は中村真一郎の発言部分)
『「雨の木」を聴く女たち』は1982年だから、大江がラテアメ文学の文体を取り入れ始めるのはそのくらいの時期ということか〜
つづき↑



