『ソフィアの災難』(1)クラリッセ・リスペクトル

 

 

ラテンアメリカ文学好きにとって今年もっともアツいニュースであるところの…………リスペクトルの日本オリジナル短編選集の刊行!! うれしすぎる…………

ということで、収録されている計29の短編のうち、前半の15作をまず読み終えました。

 

 

 

2024/7/6(土)

・脱走
夫と家庭に抑圧されている「主婦」の憂鬱と絶望を描いた小品。なにもかもベタ過ぎてまったく面白くない。
これを冒頭に置く編集者の意図はひしひしと感じる。単に執筆刊行年順かもしれんけど。


・異国の軍隊

私は、ヒヨコにも自分の命の愛らしさを感じてほしいと思った。私たちもそう求められたことがあるように。ヒヨコであることは周りの人びとにとっては喜びだが、自分自身にとっての喜びではない。自分が、必要だから存在しているのではなく、無償で存在していることを感じてほしかった──ヒヨコたちのなかで一羽は無用の存在にならなければならない──ただ神の栄光のためだけに生まれ、その結果として人間たちを喜ばせてほしかった。でもそれは、ただ私たちが愛しているからという理由で、ヒヨコに幸せになってほしいと望む私たちの愛そのものを、愛することでしかなかった。私はまた、誕生を解決することはできるのは母親だけだということ、私たちの愛は愛するのを楽しむ者の愛でしかないということを知っていた。愛する機会が与えられるという恩寵のなかで、私は揺れ動いていた。私には熱愛することができるために、鐘が、鐘が繰りかえし鳴っていた。でもヒヨコは震えていて、恐怖を体現していた。愛らしさではなく。 pp.16-17

オフェーリアは、私に助言をした。どんなことについてもしっかりとした意見を持っていた。彼女の意見によれば、私がすることはすべて少しずつ間違っていた。「私の考えでは」と、不快そうな調子で彼女は言った。私が彼女に助言を求めなければならないかのように。そして、求めはしなかったけれど、彼女は助言を述べた。気高く、充実した八年の人生経験によると、彼女の考えでは、私はうまく子育てをしていないということだった。 p.21

いちどオフェーリアも間違えた。「地理っていうのは」と彼女は私の前に座って、膝の上で指を絡ませて言った。「勉強のやり方なの」間違いとは言いきれず、少しずれた考えのようなものだったけど、私にとってその失敗は快く、その瞬間、心の中で彼女に言った。ああ、それでいいの! ゆっくり進みなさい、簡単なときも難しいときもあるけど、でもそんなふうに間違えながらゆっくり進めばいいの。 p.23

彼女の誕生の苦痛。そのときまで、私は勇気を見たことがなかった。別の存在になる勇気、自分自身から生まれ出て、古い体を捨てる勇気。その価値があるかどうかはわからないままに。「私」と水に濡れた彼女の体が言いかけていた。みずからとの結婚。 p.28

似ているところのない私たちは、二つの体として、向かい合っていた。ただ敵意だけが私たちを結びつけていた。椅子に座った私は固く身構えていた。他者である私の内に形作られた少女が、私と戦おうとするのに備えて。オフェーリアが私を憎み、そして彼女のその苦しみに私が耐えることを、彼女が必要とすればするほど、私はいっそう強くなっていった。あなたの代わりに私がそれを経験することはできない──わたしの冷淡さがそう言った。 p.30


す、すげぇ……これはめっちゃおもしれぇ〜〜!!!

「主婦」が、かつて同じマンションに住んでいた8歳の少女オフェーリアとのささやかで不思議な逢瀬の時間を回想する。

ロリおね歳の差百合だ……

途中で大人側が一転攻勢して、聡明で大人びた少女が一気に「子供」になる。誕生の苦痛、別の存在になる勇気、みずからとの結婚。

無垢な子供が大人になる瞬間を描いた小説はよくあるが、逆に大人びた子供がちゃんと「子供」になる瞬間の葛藤を、別の大人の目線でここまで濃密に描いたのは読んだことがない。すごい短編だと思う。

少女を思い出すきっかけとなった序盤のクリスマスイブのヒヨコと家族の挿話からして、ひとが自分より小さな可愛いものに向ける「愛」の独善性と暴力性を見事に抉り出しているが、それを踏まえてオフェーリアの回想に入り、さらに重層的にテーマを表現しきっている。

タイプライターで内職をする主婦、というのは『ブラジル文学傑作短篇集』でも出てきたような。ブラジル社会を描く上で欠かせないのだろう。

大人と子供、人間がか弱い者を傲慢に愛する、という二項関係のみならず、やはりそこに「女性性」というジェンダーが社会的にどう形成されているのか、という点が重要だろう。「子」を愛さなければならない、庇護しなければならない、という規範による抑圧。

オフェーリアは親からネグレクトとか児童虐待受けていたのかな……そんな彼女の逃避先としての、語り手との逢瀬。しかし最後には自らも弱き者を加害する側に回ってしまう。

 


7/7(日)

・1日少なく

タイトルそういうことかよ! 今のところ3作どれも哀しい終わり方だな……

というか、彼女は大した人間ではなかった。偶然に生まれたというだけ。 p.37

両親の遺した年金で生活する30歳の独身女性のある日曜日。生まれた時から一緒にいる「家政婦」アウグスタが1ヶ月休暇を取っているために、早朝から暇を持て余し、やることがなく、遂には……

独り身の女性のなんとも緩慢で孤独で夢想的な一日の生活を淡々と語る、そのことにブラジル文学史上の意義があるのかもしれないし、ないのかもしれない。

前作のオフェーリアは「それだから」が口癖だったが、今回のマルガリーダ・フローリスは「それから?」と絶えず言いながら時間を持て余している。

太っているのか痩せているのか矛盾する記述、信頼できない語り手。「自分がかわいいのか不細工なのか、考えもしなかった。彼女はただありのままの彼女だった。」p.38 ともあり、ルッキズムを回避しているようにも捉えられるか。

電話が鳴らないことをまだ考えている。せめて職場の同僚でもいればよかったけど、彼女は働いていない。父と母が残した年金で足りる生活しかしていなかった。字がきれいでなく、字がきれいでなければ採用されないだろうと思っていた。 pp.41-42

この世間知らずさ、社会を舐めているという自覚もなく舐めているさまが最高だ

不躾な電話をかけてきた老女コンスタンサさんの呼ぶフラヴィアって家政婦アウグスタのことでは本当にないの? 彼女の本名さえ分かっていないというマルガリーダの無知さを暗に示している?

でも「三十歳の処女」であるのと世間知らずな性質を無批判に結び付けているようにも読めてしまうのは危ういか。

生まれたこと、生きること、平板に続く人生への絶望と諦観がどの作品からも感じられる。


・家族の絆

うおおおお これも傑作だ……
昔、集英社ラテンアメリカの文学でリスペクトル巻の表題作の一つになっていたけど、短編だったんだ。しかし表題に挙げるにふさわしい、凄い小説だ……

これは凄くハートフルというか前向きな話だ。こういうのも書けるのね。うれしい。ラストは夫視点になるので、彼の主観ではまぁ不穏な終わり方といっていいけど。

まさに「家族」小説。母娘小説であり、母息子小説であり、夫婦小説でもある。

私以外にだれもあなたを愛せる人はいないわ、女は笑いながら考えた。責任の重さから口に血の味が滲んだ。まるで「母娘」が命であり嫌悪であるかのように。そう、母親を愛しているとは言えなかった。母親が痛かった、そう、痛み。 p.53

母親への複雑な感情。宇佐見りんが好きそう。

じぶんはお母さん子あるいはお祖母ちゃん子なので、娘夫婦の家への2週間の滞在を終えて、32歳の娘カタリーナに駅まで連れそわれる老女セヴェリーナのパートは素直に感動してしまった。泣ける。プラットフォームでの親子の別れとか、ベタにも程があるんだけど。カタリーナの家までの帰路の描写とかも。

こうした「女」ふたりへの力強くあたたかなまなざしとは対照的に、夫アントニオの造形や描写はとても滑稽で辛辣。現代でいうモラハラ気質の夫。休日じぶんは悠々と過ごしたいが、しかし妻には家にいてほしい。妻が自分の知らぬところで自由に生きることを許せない。

はじめの2作もそうだが、リスペクトルは「夫」属性をもつ男性への憎悪・嫌悪を隠そうともしない。

ただ、個人的には女性が男性の支配から抜け出して自由になる話が性癖なので、このオチは非常に好き……

本作はここにカタリーナとアントニオのひとり息子(3歳)の存在が絡んできて、一層深みと複雑さを増している。すなわち「母息子」関係の主題であり、女に依存する(マザコン)男一般の主題である。

いつの時点で母親は、子どもをしっかりと抱きしめ、将来の男の上に永遠に影を落とすこと愛という監獄を与えるのか。(中略)母親がいつの時点で息子に遺産を残すのかなど、いったいだれにわかるだろうか。そしてそのときどんな陰鬱な歓びを覚えるかも。 p.58

母親が息子に愛を与えて「陰鬱な歓び」を覚える。ここをどう読むべきか、むずい。「異国の軍隊」のテーマとも似ているか。

またカタリーナの斜視という設定は、うまく活かされてはいるものの、現実の当事者への差別性がないと言い切れるのかはわからない。

幸い笑いたいとき本当に笑う必要に迫られたことは一度もなかった。彼女の目が抑え気味のずる賢い表情を帯び、いっそう斜視になり──笑いが目からこぼれるからだった。 p.51

 

真実は象徴だけに宿り、象徴でしかそれを受け取らないのだから。 p.56

リスペクトル作品解題っぽい文

 


・秘密の幸福

4ページにも満たない掌編だが、なかなかどうにも、ひとつの像を結びにくい話だなぁ
いじめっ子/いじめられっ子という関係の可換性を暗に示している? 幼い「私」は「彼女」をルッキズム的にナチュラルに差別している。ほんとうは「私」を憎んでいたのではなく友達になりたかったのでは……ない?

一人称小説の語りの位置を占められる特権性が「私」にはあり、それと、小さい頃からの「本好き」ゆえの優越感や無神経に他人の容姿をあげつらう嗜虐性が手を組んでいる。そして最後の「恋人といる女」という表現は……なに?

「好きなだけその本を借りていいからね」わかってもらえるだろうか? それは、もらうよりも価値があることだった。「好きなだけ」以上のものを、大人であれ子どもであれ、人は望み得ない。 p.64

 


7/8(月)

・勝利

同棲している彼氏(夫?)に出ていかれた女が、喪失のショックをひとりで克服して前向きになる。「強い女」いいね

 

・ウルカの海の死者

ドレスの試着中に、すぐそこの海で死んだ青年の話からとりとめなく想像を膨らませる女の掌編。よくわからない

 

・第五の物語

生きるという悪癖が、私の体内の鋳型を打ち破る。 p.82

ゴキブリを石膏で殺すだけの話が、リスペクトルにかかればこんな奥深く難解な掌編になるのか。同じエピソードを重層的に反復して拡大していく。


・愛

これも「主婦」モノ
家庭を持つ女性の内面にも豊かで複雑な孤独や神秘や葛藤がある、ということをここまで深々と描いている点で偉大だと思う。

街を彷徨していたら突如「覚醒」して世界が非日常的に崩壊し出す。サルトル『嘔吐』や、ル・クレジオ『調書』っぽい雰囲気。

彼女の心は、生きたいという最悪の意志で満たされていた。 p.95

ああ! 人になるより聖人になるほうがよほど簡単だ! p.95

バス停で盲人の男を見かけて憐れみを覚える。これもまた愛の暴力性、独善性が主題か。生きる危険。善意の目眩。

果たして盲人が解き放ったものは、彼女の日々に収まるのだろうか。ふたたび老いるまでに何年かかるのだろう。 pp.96-97

 

 

7/9(火)

・切なる望み

赤毛の少女と犬のいっしゅんの邂逅と別れ。

ヒヨコとか犬とか、無垢なる(愛玩)動物がよく登場してくる。それらを支配する人間の傲慢さみたいなものに焦点が当たりがち。子どもを主題にするのもそう。でも人間の子どもは愛玩動物とは違って、いずれ暴力的な愛で支配する大人側にならざるを得ない。だからこそその内面や変化を小説で描き甲斐がある。


・彼は私を呑んだ

ゲイ男性とヘテロ女性とバイ男性の三角関係?
ヘテロを前提に女性の被抑圧構造を描くリスペクトル作品のなかで、ゲイ男性の存在はいかなる意味を持つか?

しかしやはり本作でも、女性向けメイクアップ・アーティストであるゲイ青年が、女性の顔や身体を「取る」かのような描写がされる。女性側の被害妄想っぽさも拭えないけど。


・神を赦す

これもまた、昨日読んだ「愛」のように、町中を歩いていた女性がふと啓示を受けたように覚醒し、また小さき動物──ネズミの死骸を見つけて急転直下ショックを受けて、愛について思案する話。

神への母性愛を感じるほどの心境から、ネズミの死骸に狼狽えて神をなじる心境へ。

私は愛とは理解の合計だと考えていた。真の愛とは、無理解の合計だということを、私は知らなかった。 pp.112-113

 

いや最後のほうむっず!!
宗教的かつ哲学的な思索を綴る。私への愛と世界への愛。神を創造し続ける。かなりすごい文章だと思うんだけど、歯が立たない……

 


・あふれる愛の物語

めんどりは悩みが多いが、他方おんどりは、苦悩がほとんど人間的だった。 p.116

出たわねめんどり。リスペクトルの十八番モチーフ

少女はまだ、人間が人間であることは治せず、まためんどりもめんどりであることを治せないことがわかっていなかった。 p.117

「私たちが動物を食べると、動物は私たちにもっと似てきて、そうやって私たちの中にいるようになるの。この家では、私たち二人だけがペトロニーリャが中にいないの。残念ね」 p.118

ガッツリ動物倫理の話やな……

フェミニズムヴィーガニズムと反出生主義! これらはすべてひとつづきに繋がっている。リスペクトルの作品もこのラインで読み解こうとすればかなりわかりやすくなる気がする。

少女は、愛するために作られた存在で、ついには娘になり、そこには男たちがいた。 p.119

生まれたら、大人になって暴力的な愛を与える加害者にならなければならない……という意味での、生の苦しみと残酷さ。そこに女性ジェンダーへの抑圧という主題も根本的に関わっている。

「めんどり」=「ガリーニャ」に、身持ちの悪い女、という俗語の意味があるなんて……そりゃあモチーフに使うわけだ。

 


・ソフィアの災難

生まれたことそのものに、ただすべき過ちが満ちていた。 p.126

9歳の少女の、担任教師の男への不器用で不条理な愛。作文。教室と校庭。
歳下が攻めていたのに中盤で一転攻勢するのは「異国の軍隊」と同じだ。メスガキわからせ

自分では何も知らないまま彼に投げつけたのに、それでも未知のままの世界という球体を、私は顔の真ん中で受けとることになる。 p.132

文章がうますぎる…!!

口の中と同じくらい深い世界の淵を、その瞬間、目にしたのだ。それは、腸の手術で開かれた腹部と同じように、誰のものでもなかった。(中略)だが、音なき破局のなか現れ出たその何か、それは、肝臓や足先が笑わないように、ほとんど笑顔には見えなかった。 p.135

私は自分が子どもであることをはっきり理解していて、それこそが重大な欠点だった。いつの日か大人になると、強く信じていた。それなのにあの大人はろくでもない少女に騙された。私の大人への信頼を、彼が初めて殺した。あの人は大人なのに、私みたいにこんな大嘘を信じちゃうんだ……。

そこに、私、賢すぎる少女はいて、自分には無価値なものが、神に、人びとに役立つのだとわかった。私には無価値なもののすべてが、私の宝物だった。 p.140

「私」、9歳とは思えないほど「賢すぎる」。ので、その後大人になってから回想形式で語っている、ということでいいのか? そういうつじつま合わせをするべき次元の小説ではないと思うが。

後半むず~…… けっきょくどういうことだったんだ。内臓とか身体を色々と用いた比喩表現の大盤振る舞いはすごかった。
人を愛することしか知らなかった「私」が、人から愛されることを知る話? 9歳の子供が大人に幻滅する話?

語り手の主人公(ソフィア?)の独白は難しすぎるが、担任教師の心境はかなり想像しやすい。ふだん授業でふざけて自分をいじりまくっている問題児が独創的な作文を書いて提出してきた。そりゃあ、やるじゃん、いいとこあるじゃん、と見直して好意的に思ってもおかしくない。大人側の思考は理解できるが、子ども側の思考が、ありありと書かれているにも関わらず(それゆえに)理解できない。この子はなんでこんなに自分に自信がないんだ。自分は褒められるに値しないと思い込んでいるんだ。自分を愛せないゆえにひとを暴力的に愛そうとしていた? だめだ、こんな安易な読解に押し込めてしまっては……

 

・P語
なにこれ。原文は「p」が文字のあいだにたくさん入っているということか。たぬき言葉みたいな暗号を小説で、しかも会話文のなかで使う。話は……『星の時』のような、抑圧される女性を描きながらも、そんな女性側にも「はしたなさ」はある、と仄めかすような、危うく難しいプロット。「P語」要素の実験性に比して話があまりにシンプルなので、かえって困惑する。

 

 


ここまでで約半分、15篇を読んだ。
「異国の軍隊」「家族の絆」「ソフィアの災難」が特に好き。むずいけど。
ようこんな文章書けるよなぁ~……と感心し放心してしまうことが多い。主題は「愛の暴力性」が中心にあり、関連するかたちで、抑圧される女性、動物倫理、信仰、生の苦悩などがしばしば絡んでくる。

 

後半へ……続くゥ!

 

 

 

 

 

〈これまでに読んだブラジル文学の一部……〉

 

 

 

日本翻訳大賞もとったリスペクトル『星の時』(福嶋伸洋訳)読んだのですが、ちゃんと感想メモを残していないため記事として投稿できるものがありません……

ので、読書メーターへ投稿したコメントをそのまま引用しておきます。

信頼できないどころか読むのをやめたくなるほど無責任で不安定な語り手小説。序盤40ページほどを「今から物語を書き始める…」と何度もいいつつ全然始まらないコントのようなものに費やす。物語も構成もへったくれもない散文詩系の文学だが、その文章はなかなかに瞠目してしまうものがある。どう受け止めたらいいのか途方に暮れるという意味で、まさしく海外文学の醍醐味が詰まった作品だった。翻訳大賞を獲るのも頷ける。

「書くことについて書く」という点では、ほぼ読んだことないけどブランショとかヌーヴォー・ロマンっぽさは感じた。南米文学でいえば、キモい語り手男による女語りを文学にまで昇華させているという点で、オネッティ『井戸』をすこし連想した。

訳者解説の、物語を生きる(無知な)自己と物語を語る(知りすぎた)自己に分裂しなければならない「作者」の業を体現した小説…という紹介がハマりすぎて、この稀有な作品を分かった気になれてしまうようで悔しい。ただ絶対にこれを「(男が女を)書くことの暴力性」というマジックワードで片付けたくもない。むしろ逆に少女が語り手の男を「創造」し、自らは何も知らない身で物語られていると読む可能性とか……?

すげぇ適当なこと言ってますね(ちゃんと知人に怒られました)