『ぼくは愛を証明しようと思う。』藤沢数希

 

 

わたしが読んだ本(文芸作品)について、わたしが抱いた感想を乱雑に書き留めてきた本ブログですが、本と読書に対する、より幅広い向き合い方を模索するために、「読んでいない本の感想を書く」とか「存在しない本の皆が口を揃えて言っているであろう感想を書く」、「読んだ本の感想を書かない」「明日に向かって走る」などの活動を今後はおこなっていく所存です。

 

今回はその第一弾として

わたしが読んでいない本についての他人の感想文をまるごと載せる

をやります。

(なんだか有名書評ブログのタイトルみたいだ……)

 

 

 

取り上げる小説(わたしは読んでいません)はこちらです。(持っているのは単行本のほう)

この本は、ネットで知り合った方とオフ会をしたときに「自発的には読まないだろうから」と渡されたものです。

「恋愛工学」のウワサだけはなんとなく聞き及んでいたので、うわぁ……wwとなりましたが、せっかく貰ったのだし読んでみるか、と軽い気持ちで開いたところ、冒頭のプロローグの時点でキモすぎて挫折しました。ごめんなさい。ラノベはおろか、伊藤計劃とかでさえ文章の軽さ、卑近さ、クサさを感じてしまって読めない自分にとって、それらよりも「数段上」どころか、もはや別次元のナニカを垣間見て退散しました。

 

そうして本棚の肥やしになっていた『ぼくは愛を証明しようと思う。』ですが、このあいだ、自宅に友人(この本をくれた方とはもちろん別人です)が泊まりに来たときに、その場のノリで彼がこの本を読み始め、そして本ブログに載せる用の(そう、最初からそのつもりだったのです!)とても良く出来た感想文を書いて送ってくれました。

 

それを以下にまるごと載せます。

おそらく、いや確実に、本ブログ史上もっともしっかり書かれているまともな読書感想文・レビューです。

 

 

 

 ーーーーー引用はじめーーーーー 

 

 

予想するに、これから本書を読もうとする人は、

 

①本書が提示する価値観にコミットしたうえで、本書に示される "メソッド" が実用に供するならば試してみてもいいと考えているプラグマティックな読者

②本書が提示する価値観も "メソッド" もおおかた荒唐無稽なものであろうとアタリをつけてそれを嘲笑いに行くアイロニカルな読者

 

の両極に分かれているのではないだろうか。そこまで極端なものでもないのか?

私自身は、読前、そのいずれにも傾かずに、

 

③先入観を排して、冷静に、なにかしら意外なものがないかと探索するフラットな読者

 

としてふるまおうとしていたのだが、その試みはうまくいっただろうか?

 

 

 

 

本書が提示する価値観

 

やばかった。「やばい」というのがいい意味か悪い意味かは察してほしい(ひとに察させるのはせこいやり口だ)。

 

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」

「無料のな」

 

プロローグから最大火力を出してくる。『つかみだからちょっとセンセーショナルな表現にしよう』とかなんとか関係ないレベルでやばい。発言単体で見て終わっているので。

ただ、最大火力ということは、プロローグ以降これに勝る火力の表現は頻出するわけではないので、②アイロニカルな読者 にとっては案外物足りないかもしれない。

 

本書が提示する…「本書」とかやめよう。「この本」でいいや。

この本の価値観は、「女性とは、気遣い、尽くす相手ではなく、トロフィーである」というところに集約される。やばない?

さすがにと言うべきか、この本の主張は「女性はトロフィーである」だけで終わるわけではなくて、「男性が女性に尽くしてしまうと、女性が付き合おうとしている男性の価値が毀損されて結果的に女性が不幸になる。むしろ、女性をトロフィーとして扱い男性を勝利者として価値づけることで、結果的にはその男性と付き合う女性が幸せになる」という逆説(っぽいもの)を主張して、一段階込み入った正当性を担保しようとする。うーん、この逆説がはたして検討に値するものなのか、はたまた詭弁なのか、私にはにわかにはわからない。わからないが、主張の底が見えた瞬間に興味が失われる感覚はあった。「はあ、そういうお考えでしたか」という感じ。

 

この本の主人公の渡辺くんは、「女性からモテること」「モテている人とみられること」つまり外部からの評価を上げることに生活の関心がかなり集中していて、自分の内側から発する興味関心や欲求みたいなものがほとんど見えてこない。彼自身の「こういうものが好き」「こういうことがしたい」が、描かれているようで描かれていないというか、もともと希薄だったものが永沢さんのせいで消え去ってしまったというか……。

渡辺くんがセックスを目標にして女性とのおつきあいを繰り返すのは、性的快楽を彼自身求めているからではなく、ただ「モテている人とみられるため」だけの理由だ。いやまあ、実際に渡辺くんがセックスを目標としてはっきり意識したのは永沢さんの誘導によるところが大きいのだが、しかし渡辺くんがセックスという目標に出会えていなかったとして、それ以外に渡辺くんが女性に「モテる」ためのモチベーションを持つ可能性は非常に低かっただろう。手段のために目標は必要だ、永沢さんは方向付けがうまい。

それとも、私はむしろ、『この本はたまたま「モテ」をテーマにしているがために、主人公は「モテたい」と思っている側面ばかりを強調されたが、小説という枠組みを外したとき、彼にだって「こういうものが好き」「こういうことがしたい」という内発的な動機付けは確かに存在しているかもしれない』という可能性を考慮すべきだろうか? あまりに好意的すぎ、かつ、小説の読みとしてまるで実がない読みだと思うが……。

 

まあ、渡辺くんが内発的な興味や欲求を持っていたかどうかなんてことは、せいぜいそれだけのことにすぎない。

「内面が充実していない人間は薄っぺらい」とか言ってしまうのは愚かなことだ、そういう言い方は「人間には考察すべき深みを持った内面が存在する / 存在すべき」といった価値観を無批判に再生産しているから。だから私も、渡辺くんを「内発的な動機の薄さ」ゆえに責めることはしないほうがいい。

ただ、渡辺くんの、ひいてはこの本の精神特性を、「内発的な動機の薄さ」ではなく「外からの評価への過度な注意」として読み取るならば、この本はやはり問題だ。要は、渡辺くんは人からの評価のことばっかり考えていて、そういう人はちょっとヘンだ。いや、ヘンというより心配だ。そんなに毎日々々モテることばっかり考えてるって、いったいどういう人間なんだ?

 

渡辺くんが心配なら作者のことも心配だ。小説の内容や小説の主人公の精神から小説家の精神を推しはかろうというのは下種の勘繰りというもので、あまり褒められたものではない……また、見も知らない人に対して訳知り顔で“心配する”などというのはまったく失礼な行為であって、これもやはり褒められたものではない……しかしこの作者、どうしても心配にならずにはいられない。

 

作者の心配を始めるならば、「モテたい」ばっかり考えているという特徴に加えて、「都会コンプレックス」とでもいうべき特徴も目立って見えてくる。

どうもこの本には、都市生活者の優越感・劣等感と田舎出身者の優越感・劣等感が絡まりあったありきたりなコンプレックスがしっかりと根を張っている。このコンプレックスをちょっと大げさに表現するなら「都会サイコー」「都会で生きてるオレかっこいい」「でも都会の生活には大事なものが欠けている」「都会には大事なものが欠けていると気づけるオレえらい」「オレの出身は田舎」という一連の言葉になるだろう。

 

私がこの本で一番笑ったポイントなのだが、ある箇所に、『たいていの東京の女はイルカは魚だと思っている』というわけわからん信念が出てくる。とりあえず作者は東京の女性に怒られてほしいのだが、それはともかくとして、この“東京人はある種のことに対しては無知”という信念を強調して、あまつさえモテるために利用できるとさえ信じているその気持ち、ひねくれてて可愛い作者だなあと思ってしまう(ギャグのつもりでやってたんならごめんなさい)。

 

ところで、過剰に他者からの評価を気にすることと「都会コンプレックス」との間にはつながりは見出しうるだろうか。おそらく、まったくの無関係ではないだろうと思う。『ドリアン・グレイ症候群』という言葉もあるくらいだし……(この言葉がアカデミックな文脈でどの程度使われるものなのか、私は知らない)。

もしも、都会での生活が、渡辺くんを、作者を、あれほど“心配な感じ”に仕上げてしまったのだとするなら、ふたりとも可哀想……。

 

もちろん、渡辺くんではなく、作者ではなく、私が異常なだけなのかもしれない。そういえば、序盤、渡辺くんが彼女に振られて以降の生活を語るシーン。彼は少なくとも5割以上の出勤日は定時に退勤できていそうな印象で、退勤してからの時間をいつも自分のために費やしているという話なのだが、これは私にはとてもうらやましくて……。人に会わずに趣味に費やせる時間が毎日持てたらどれだけ幸せか! しかし渡辺くんは毎日性風俗に通って、そうすることしかできない自分に惨めさを感じていた。

人と会ってる時間よりひとりで趣味やってる時間のほうが楽しいに決まってるだろ! 趣味をやれ! 私は叫びたかったが、こうして言葉にしてみれば、渡辺くんよりも私のほうが大概極端だということもわかるというものだ。きっとそういうことなんだ。

 

じゃあ、やばくはない?

 

 

この本が提示する“論理”とか“メソッド”とか

 

この本は恋愛の手管を“論理的に”体系化するというのがウリのひとつだ。だからこの本には、実際に心理学や生物学で議論されてきた理論的枠組みに基づいていて、かつ有効性があると考えられるような“メソッド”が披露されていることが期待される。

 

実際のところ、この本で語られる、『恋愛工学』独自のテクニカルタームは、既存の心理学・生物学の理論的枠組みにどれだけ合致していたのか、という点については、私にはよくわからない。私が心理学・生物学を学んだ経験は大学の教養課程までがせいぜいで、ホンモノの心理学・生物学がどういった理論的枠組みを持っているのか、よく知らない。一般向けのゆるふわ心理学本・ゆるふわ生物学本だけ読んだ知識でこの本を構成しているのかもしれないし、歴史的系譜に沿って心理学論文・生物学論文を読んで得た知見でこの本を構成しているのかもしれない。

ただ、『恋愛工学』の問題関心というか、理論の基盤となるパースペクティブは、私の知っている心理学のそれ・生物学のそれとは似ていないなあ、という印象だった。

 

実際どうなんだろう、自信がないが、私が思っていた『心理学』という学問では「“こころ”を定義づけると仮定しうる物理的・社会的な現象を取り上げて、改めてそれらが“こころ”を定義づけていると仮定し、仮定の妥当性を検証する」という営みに最大の関心が置かれている。巷でしばしば期待されているような「アプリオリに存在する“こころ”に対して、人の“こころ”の中を言い当てたり人の“こころ”を操ったりする」という営みは、ホンモノの心理学者はさほど興味を持っていないんじゃないか。テレビに出てくる心理学者が「ひとの“こころ”を操るには云々」とか言ってるのは、単に研究費稼ぎのためにみんなが期待していることを言っているだけではないのか。

対して『恋愛工学』は、“こころ”の定義に対してそう深い問い直しが行われるわけでもなく、小手先の人心操作に終始している。渡辺くんは、女性が口で言うこととやることとの間に差があることにたいそう驚いているようだが、それはべつに女性に限ったことでもなければ「女はいいかげんな生き物である」という主張をただちにサポートするものでもない。「行為に対して動機が後付けであることが人間には意外と多い」という事実は、行為に動機が存在しないという結論ではなく、むしろ動機というものの再定義を促す。

といってもまあ、この本の議論は『理学』ではなく『工学』を銘打っているくらいだから、“こころ”の定義に関してそう深い洞察がなくても問題はないのかもしれない。

 

これまた自信がないが、私が思っていた『生物学』という学問は、動物の身体的性別に関する『である論』について語るものであり、人間の社会的性別に関する『べき論』についてはなんの知見も提供しえないものだ。人間の身体的性別・社会的性別は、実際のところ、「適度な競争原理を伴った生殖行動がつつがなく行われ続ける」という目的に対して最適に進化してきただろうし、そのように進化してきたことを生物学はよく語るだろう。ただ、性に関して生物学が語ることというのはマジでそれ以上でもそれ以下でもない。『生物は子孫を残すべきである』『男は男らしく生きるべきである』『かくかくしかじかのような在り方こそ男らしさである』といった言説は、生物学のなかからは決して出てこないはずだ。

対して『恋愛工学』では、「モテる」という動機づけを行ううえで、渡辺くん自身の強い欲求も哲学的洞察も期待できないため、しょうがなく、『生物学』的な「モテとは〇〇である」を「モテるべきだ」にすり替えようとしているような気がする。断言はできないが……。

といってもまあ、ひょっとすると作者もけっこう冷静で、「モテるべき」などという価値判断は論理からは出てこないことはきちんと承知のうえで、あくまで「モテとは〇〇である」「もしモテたいならどうするか」だけを語っているつもりなのかもしれない。その2つだけを語る意識があるなら、生物学を援用することにまるで問題はないだろう。

 

理論的枠組みの妥当性とか、問題関心の深度とかはさておき。

この本は『恋愛工学』なる体系が持っている独自の問題系とか理論とかテクニカルタームを詳細に説明してくれるわけだが、実はそこはすごく面白かった。

これはたぶん私だけの趣味ではないが、私には「独自の用語がたくさん出てきて適度にネットワークを作っている体系」ならばなんでも面白い、というところがあって、『恋愛工学』はまさにその「用語がたくさん出てくる体系」だった。

不思議なもので、人間は、現実の理学とはまるで合致していない体系であろうと、実用の可能性が全くない体系であろうと、密すぎず疎すぎない適度なネットワークであればどんな体系でも楽しんで吸収できるときがある。

だから私は、「電磁場を用いてミノフスキー粒子を立法格子状に並べることで反重力効果が得られる」という架空の物理法則をいつからか覚えているし、「一度開いた魔術回路は特定のイメージを想起することで励起し、自分の生命力を魔力に変えることができる」という不可能な方法論をいつからか覚えている。

私にとって、「会話の内容にはそこまで関係なく、会話の相手に連続してイエスと言わせれば次の質問・勧誘でイエスと言わせられる確率が高まる」というこの本の“メソッド”は、私が今後の人生で実際に使うかにはまるで関係なく(たぶん一生使わない)「ああ、イエスセットっていうテクニックだ、知ってる」と記憶することになる。そして、この本が提示する体系は、最近の私にとって、密すぎず疎すぎないすごくちょうどいい情報量だった。少なくとも向こう一ヶ月くらいはこの体系を覚えていると思う。

 

 

この本のフィクション作品としての面白さとか

 

「隠し階段、踊り場」のコンセプトは、「あくまで文学として」この本に触れることを要請するものであると理解している。この節は、この感想文のなかでは比較的その要請に合致している箇所であると信じる。

 

この本の終盤で、どんでん返し、あるいはそれに近い何かがあるということをネットで見聞きしているひともいるかと思う。この本を実際最後まで読んでみたが、終盤に大きな展開・転回があるというのはまったく噓ではない(実は、「女はトロフィー」という例の主張にも、もう一段階の問い直しが加えられることになる)。「最後まで読まずにこの本の感想をしゃべるべきではない」と私なら言う。

といっても、きっとすごいどんでん返しがあるだろうと期待して読んだ場合でも驚かされるほど意外性のある展開でもなかった。そもそも驚かされるような類の転回でもない。だから私は「最後まで読んだらきっと驚かされる」とか言ったり「ぜひ読むべき」とか言ったりすることはない、そのくらいの温度感。読むの苦痛だったら普通に読むのやめればいいと思う。

 

前述した「都会コンプレックス」についてだが、このコンプレックスを描くという意味においてはなかなか楽しんで読んだ作品ではあった。

なにより、都会においても田舎においても、東京・静岡における現実の地名がたくさん登場して、電車やバスでの平面的つながりを持って広がっていくというのが小気味いい。都会にいるときに主人公が引っ越しを経験するのもいいし、主人公が田舎に行くとき定番の観光地を外したつもりだけどそこまで外せてないというのもめっちゃいい。いつか、「ぼくは愛を証明しようと思う」の聖地巡礼なんかしてもいいかな、と思った。

作者のなかで「都会コンプレックス」が相対化されているのかどうかは気になるところだが、作品として「都会コンプレックス」をうまく描けている時点で、相対化されているかどうかはあまり関係がなくなっている。この本は「都会コンプレックス」を描いたという点で卓越しているといってたぶん問題ないと思う。

「この東京の街は、僕たちのでっかいソープランドみたいなもんですね」

「無料のな」

この激ヤバな冒頭も、物語の最初と最後で「見下ろす夜景」と「見上げる星空」との間に対照を作っているのだと信じるならば、より有難くも思えてくるってものだ。



 

 ーーーーー引用おわりーーーーー 

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか。とても興味深いレビューでしたね。
ついわたしもこの本を読んでみたくなりました。
みなさんもぜひ読んでみて、わたしに感想を教えて下さい。

 

 

 

 

 

今回の感想を書いてくれた友人がやっているブログはこちらです。



 

 

 

ひとつの映画に対する、わたしの感想と、彼の感想を両方のっけた記事です。今回はわたしが小説を読んでいないため、ついに彼の感想だけになりました。