『乙女の密告』赤染晶子

 

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negishiso.hatenablog.com

 

こちらの記事で絶賛されており、面と向かっても「じゃあ読んだほうがいいです」と言われたので図書館で読んだ(単行本のほう)。すごく良かった。日本にこんな作家がいたとは……

プロットも文章も非常に面白い。

 

バスが次のバス停に停まる。ドアが開く。バスの中の空気が変わる。凍りつく。バッハマン教授が乗ってきた。泣く子も黙る。ドイツ語学科だけではない。すべての外大生がバッハマンを恐れている。貴代は吊革を掴んだまま、白目をむく。死んだふりをする。バッハマン教授は青い目ですべての乗客にメンチを切る。背の高い金髪の頭はバスの天井にたまにごんごんとぶつかっている。 p.14

短文をたて続けに並び立てて異様な風景をドライブさせていく文章。かっこいい。真似したい。

 

翌日、みか子は七時半前に大学についた。もう、麗子様がいた。壇上に立って練習していた。マイクのスイッチも入っていた。教室にはまだ暖房が入っていない。麗子様の息は白いのに、額にはうっすらと汗をかいている。こんな早朝にどうやって、講義室に入ったのだろう。
「掃除のおばさんから鍵を強奪して、合鍵を作ってんねん」
麗子様は胸をはっている。そんなことをしてはいけない。みか子も練習を始める。壇上に立つ。昨日はあまり練習しなかった。 pp.31-32

そんなことをしてはいけない。

真顔ユーモアというか、ふざけているのに平気で次へ流していく文体がめっちゃ好き

 

みか子は後片付けをする。冷蔵庫を開ける。
「あ」
みか子は小さく声を出す。冷蔵庫の明るさに目がくらんだのだ。よくあるのだ。京都の家の中は暗い。台所はさらに暗い。こんな冬の日はなおさらだ。外はまだかろうじて明るい。家の中の暗さに気づかない。何気なく開けた冷蔵庫の中が京都の家の中では一番明るいのだ。 p.30

元記事でも引用されていたが、「何気なく開けた冷蔵庫の中が京都の家の中では一番明るいのだ。」はパンチライン過ぎて大抵のMCなら一発K.O.できる。

 

「タカヨ、やってみて」
「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」
 バッハマン教授はイントネーションを直す時、言葉の意味は無視する。言葉をただの音に変える。
「うーん、おしい。もう一回」
「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」
 貴代はやってもやっても、バッハマン教授に「違う」と言われる。やればやるほど、「全然、違う」と言われる。こんなことが二週間も続いている。貴代はこのイントネーションを一日三十回は練習するよう言われる。毎日、カセットテープに「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」を三十回録音してせっせとバッハマン教授に提出している。
「うーん。二十一回目だけできている」
 そんなことを言われても貴代には区別できない。みか子にもわからない。全部同じ「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」だ。
「タカヨ、もう一回!」
 貴代がうつむく。黙り込む。急に教室を飛び出す。
「こんなことのために生まれてきたんとちゃうわ!」
 みか子は追いかける。つい、言ってしまう。
「おぇー!」  pp.45-46

最高。文学に奇妙な文字列が出てくると無条件でテンションが上がる。諏訪哲史『アサッテの人』みたいな。

「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」も「おぇー!」も、ドイツ語の単語の発音練習であって意味はわかるんだけど、それはそれとして字面が面白いのでニヤケちゃう

 

内容・主題について。

 

上の記事でねぎしそさんは「乙女の定義が良い」と書いているが、じぶんはむしろ、作中序盤で語られる以下の乙女の定義(「乙女」をそう定義してしまうこと、あるいは「乙女」という言葉が存在すること)の危険性じたいがこの小説の主題であって、それを批判的に乗り越えているのでは?と思う。

噂とは乙女にとって祈りのようなものなのだ。噂が真実に裏付けられているかどうかは問題ではない。ただ、信じられているかどうかが問題なのだ。信じることによってのみ、乙女は乙女でいられる。 pp.41-42

言うまでもなく、「乙女は真実(客観)よりも信仰(主観)を優先する」という言説は、「女性は理数系科目(あるいは学問全般)に向いていない」という性差別的なステイトと地続きである。だから「嫌だな〜〜こういうの!!!」と思いながら読んでいたのだが、バッハマン教授が生徒たちを「乙女の皆さん」と呼ぶことにも象徴される、その政治的な危険性そのものが、ユダヤ人とホロコーストを巡る高度に政治的な問題と結びついて回収されるのでとても良かった。つまり、上の「乙女の定義」は最終的にはこの作品自体に否定される(ためにこの物語がある)のだ(と思わなければわたしにとって本作は傑作にはなり得ない)。

 

また、「乙女」という存在をめぐる危なっかしさだけでなく、噂によって他者を形作る乙女と、「ユダヤ人」という言葉によって<他者>性を否応なく負わされるアンネ・フランクを連想ゲームで軽々と結びつけてしまう筋書きも非常に危険である。

乙女の言葉は決して真実を語らない。乙女は美しいメタファーを愛する。例えば、乙女は言うのだ。アンネ・フランクとは一本のバラである。乙女は間違っている。アンネの悲劇をたった一本のバラの身の上に起きた出来事だと思っている。たった一本のバラが美しかったとうっとりする。たった一本のバラが今はもうこの世にいないと涙を流す。乙女が愛しているのはただの一本のバラである。アンネ・フランクはバラではない。乙女は「アンネ・フランク」の本当の意味を知らない。乙女は「アンネ・フランク」という言葉さえ美しいメタファーとして使ってしまう。乙女の美しいメタファーは真実をイミテーションに変えてしまう。乙女の語るイミテーションは本物に負けないくらいきらきらと輝く。 pp.51-52

乙女はアンネ・フランクを美しいメタファーやイミテーションとして認識し扱ってしまう、という作中の言説がそのまま脚本構造にも当てはまっているのはどうなんだ?と思いながら読んでいたが、まぁそんなことはわかった上で突き抜けていくラストに降参しました。

日本を舞台にした日本語による小説で、アンネ・フランクを卑近な「乙女」と結びつけて扱うことの危険性・暴力性、そうしたものへの自覚がたしかにこの作品には内在していて、とても信頼できた。

わたしは小説に限らず、露骨なメタファーとか寓話的な作中作を使ってキャラや思想を対応付けてくる創作物があまり好きではなく(というか嫌いで)、だから本作をこうして「メタファーとして何かと何かを対応付けてしまうこと自体の欺瞞を看破している作品である」と評することは非常に都合がいい。

みか子は自分をアンネ・フランクだと思う。いや、やっぱりミープ・ヒースだと思う。いいや、むしろジルバーバウアーである、と。……そうして、そのどれもが間違っている。メタファーを成立させようという試みはことごとく挫折する。この物語が行き着く先は「名前のない」密告者である。そのぽっかりと空いた穴に自分をのぞき見て、その上でアンネ・フランクの名を血を吐いて呼ぶ。なんと完璧な結末だろう!

 

 

ただ、最後もそうだけれど、多分にドラマチック過ぎる、という批判はまだ有効かもしれないと思う。アンネの日記アンネ・フランクの生涯を忘れずにいる方法は、あのような感動的な瞬間の情動によってでしかないのか、という問題を考えてしまう。(このようになんとか批判点を見つけようと躍起になるほどに素晴らしい作品だった)

 

あとは、ユダヤ人のアイデンティティの問題など、主題を説明し過ぎな面もあるが、そこらへんを削ってしまうと後半のプロットに読者が付いていけないだろうから、まぁ仕方がないのかな。日本文学のなかでアンネ・フランクをしっかり扱う上でどうしても必要な部分ではある。

 

乙女性、少女性、秘匿性を主題とした短編として、S.ミルハウザー「夜の姉妹団」とちょうど対照的な作品だと思った。

あれが絶対に<真実>に迫れない究極の秘密であり<他者>としての少女を外部から描いたのに対して、こちらは乙女というコミュニティの内側からアイデンティティの問題として迫っている。真逆の作品を比べても仕方がないが、本作のほうが優れているとは思う。夜の姉妹団はあれで、ロマンシチズムを貫くミルハウザーのアウトプットとして誠実であり最良のものだと思うけれど。

 

 

 

 

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ポンパ!!!

 

 

「夜の姉妹団」収録