『ヴァインランド』(4)トマス・ピンチョン

 

前回↓のつづき

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6, 7, 8章まで読んだ。

 

 


6章(pp.102-134)

 

プレーリーの母フレネシの現在の話と、彼女の両親サーシャ/ハブ、それから母方の祖母ユーラ/祖父ジェスの代まで遡る人生記

フレネシがいかに密告まみれの政治的環境(共産主義の母とノンポリの父)で育てられたかがよくわかる。

現在彼女は幼くして別れたプレーリーに想いを馳せながら、サンベルト・シティの旧市街アパートで、フラッシュとその息子ジャスティンと暮らしている。(フラッシュとは別に結婚してないよね?)
フラッシュもフレネシも、政府の「証人」(〈プログラム〉の特別職員)として保護されている。
しかし、政府のコンピュータから突然、特別職員の多くのデータが抹消され、自分たちも見放される(再び犯罪者として地上に投げ捨てられる)危険性を感じ、また逃げるように住む町を変えなくてはいけないと覚悟する。
えーと……4章でたしかゾイドが盟友ヘクタから聞いた、フレネシのデータが消えて行方が分からなくなっているというのはここから少し先の話ってことでいいのかな。

 

 

「この町の歴史はね、安物の映画シナリオ並なの。作られ方もよく似てる。物語の1ヴァージョンができると、みんながすぐに寄ってたかって、それを食い物にするの。聞いたこともないような党派が入り込んできて、作り替えてしまう。登場人物も、彼らの行為も、どんどん入れ替わって、胸にしみるセリフがあっても、みんなに叩かれて平凡なのにされてしまうか、跡形もなく消されてしまう。50年台のハリウッド物語はね、あまりにも長すぎる。書き直しの手の入りすぎた作品にされてしまった。サウンドはもちろんなしよ。誰もしゃべらない、長大な無声映画なの」
p.121

サーシャが娘フレネシに向って語り聞かせる昔話

 

 

暗闇の中に、家々のTV画面が青白く音もなく揺れ、その光に引き寄せられて、ふだんは見かけない声高の鳥が集まってきた。あるものは、おとなしく椰子の木にとまって茂みに隠れ住むネズミを狙っているけれど、別の一群は窓の近くまで舞い降りて、どのアングルが画面を覗くのに都合よいかを探している。コマーシャルが始まると、それに合わせて鳥たちは、この世のものとも思えない澄んだ声で歌い返す。ときには自分たちのほうから歌い出す。
pp.122-123

鳥が家々のテレビを覗きに集まって歌い返す。
一歩だけリアリズムの領域から出ている塩梅がすき

 

 

この世には、自分を含め、制服の男への欲望を抑えられない女がいるのだ。高速に出ればハイウェイ・パトロールのおまわりあんとの間で起こることを夢想し、TVからジョンとパンチの再放送が流れればオナニーしたくなる。そんな娘の制服フェチを、サーシャは自分からの遺伝だと信じた。彼女自身、ローズボウルのパレードを最初に見に行って以来、今日に至るまで、権威なるもののイメージに無力に惹かれる、宿命的な疼きを自分の内部に感じていたのである。
pp.123-124

フレネシまさかの制服フェチ
でも反体制側だからこそ権威への無力感を覚えてそれが性的快感にまで繋がってしまうのはわかる気がする。
ヘテロ男性の女性警官フェチとかナースフェチとは違う。あくまで自分よりも強者の前で敗北する構図
ヒーローもののヒロインの敗北モノに近い

 

 

彼女はいまTVを回してソファに寝ころび、シャツのボタンを外し、パンツのジッパーを下げ、さあこれから──という折も折、裏口の網戸を男の拳が叩いている。まさにTVフリークの奇跡というべきか、網戸の向こう側にハンサムな連邦保安員が立っていた。網戸ごしに見る姿は、画素がやや角張りすぎているもののTV画像のようである。
p.124

ここ笑った
網戸ごし=ピクセル数が少なくて性癖の制服マッチョ男性が荒く見える──ってじゃかしいわ!上手く決ってるけど……
ヘクタに続いて二人目のTVフリーク
親の回想では映画の話が大きな位置を占めていたし、TVは80年台のポップカルチャーにとって重要なんだろうな

 

その存在(イチ)と非在(ゼロ)の連鎖が、人間の生と死の連鎖のようなものだとしたら──そしてもし一個の人間のすべてがゼロとイチの長大な連鎖によって表記可能であるとしたら──個人個人の生(イチ)と死(ゼロ)の長大な連鎖はどんな生き物を表すことになるのだろう。少なくとも一段高次の存在であるはずだ。天使? マイナーな神? それともUFOに乗ったクリーチャー? この生き物は、名前を一文字綴るのにも八人の人間の生と死が必要なのだから、その行状を記録するには、世界史の相当な部分が必要になる。
p.134

コンピュータ内の電子のビットを生死に対応させる発想やルビの振り方には安直さから忌避感を覚えるが、それを敷衍して「一段高次の存在」を考えるところや、その具体例のコミカルな列挙、そして「世界史」にまで行き着くあたりなんかは流石に馬鹿にできない魅力を感じる。

 


7章 (pp.135-156)

世界的富豪ラルフ・エイヴォーン邸での末娘ジェルソミーナの結婚披露宴

 

エイヴォーン氏は1章の〈キューカンバー・ラウンジ〉経営者ラルフ・ジュニアの父親で、彼がパーティのステージ用に急遽募集していたバンド枠に、プレーリーの彼氏イザヤたち御一行が2章の最後で出演が決まったのだった。
プレーリーは彼らと行動をともにしているので、プレーリーもエイヴォーン邸での宴に参列することになる。
そこで運命的に、父から別れ際に渡された名刺タケシ・フミモタのパートナーでフレネシの旧友だというくノ一、ダリル・ルイーズ・チェイステイン(DL)と出会う。
ブロックより先に母を見つけたいプレーリーは、イザヤらと別れてDLに付いていくことに決める。

 

プレーリーが ヴァインランドの父→彼氏のバンド御一行→母の旧友のくノ一 と複数の庇護対象を転々と渡り歩いている。

 

めちゃくちゃ豪華で上品な宴会場の描写に、これは絶対イザヤたち詐欺バンドがぶち壊す前フリだろw と思っていたが、案外ちゃんと演奏をこなせたようで意外。イタリア人詐欺がバレて用心棒に絞められそうになったがそれでも何やかんや凌いだらしいし。

 

早くも重要アイテム「謎の日本人タケシ・フミモタの名刺」が役に立った。RPGみたい
DLはフミモタの仕事上のパートナーかつフレネシの親友って出来すぎてない?とも思うが、パラノイアの一言で収まりがついてしまうのがピンチョンのズルいところだ。

 

ゾイドやフレネシ、ヘクタ、DLたちだけでなくエイヴォーン氏にまで危険人物扱いされている連邦保安官ブロック、マジで何者なんだ……完全にラスボスとして描かれてるぞ

 

フレネシとブロックにかつて何があったのか等をプレーリーは知らないため、彼女を介して読者への説明がされる。
こういう過去や現在の状況を把握していない若者キャラが出てくるために、本作はピンチョンのなかでも非常に読みやすい。

 

 

その女性は、うち解けながらも身構えているような、中断していた会話を再開しようとしているような顔で、プレーリーを見つめていた。
p.145

DLとの初対面シーン
比喩がうめえ

 

 

「ブロックに見つかる前にあたしたちがママを見つけられない?」 あまりにもストレートな願望の表現に、思わずDLは、素人のタップ・ダンサーがよくするみたいに、自分の足元を見つめてしまった。
p.152

 

 

「すぐまたさぁ、よくなるって」 彼は跪いて窓越しにさよならのキスをした。「最悪のCMが二つ三つ入っただけじゃん。ちょっとの間の辛抱さ」
p.155

イザヤとプレーリーの別れ
イザヤお前……かっこいいじゃねえか……

 

ダメな大人を書くのも上手いが、ピンチョンの書く若者・子供はとても良い
プレーリー視点のパートは特に読みやすいし純朴さと若々しさにあふれていて面白い

 

ゾイド、母フレネシ、娘プレーリーの3人それぞれの話を交互に進める感じだろうか。完全に家族の物語だ

 

 

 

 

8章 (p.157-p.188)

 

プレーリーの〈くノ一求道会〉滞在、DLの過去回想(フレネシとの出会い、幼少期と日本での武道入門)

 

DLに連れられて〈くノ一求道会〉のアジトである修道院に着いたプレーリーは、料理担当として腕を振るう。

 

求道会の会長:シスター・ロンシェル

 

プレーリーは働きながら求道会のデータベースで母について調べる。

母とDLのツーショット写真を見つけた→フレネシとDLの出会いの回想→DLの両親のエピソード→DLの子供時代のエピソード

 

〈秒速24コマ〉:フレネシとDLが所属していた映画集団

 

DLの父親:ムーディ・チェイステイン
少年時代からギャングで、保安官に声をかけられ軍隊へ。駐留地で信徒ノリーンと結婚し、終戦直後のカンザスでDL出生。
ムーディはジュードー・ジュージュツに夢中になり師範代にまでなる。
一家は日本へ渡り、DLはパチンコ店で武道家ノボルに勧誘される。ノボルのセンセイであるイノシロー師にDLは弟子入りし、彼独自のチープな忍術を短期間に叩き込まれる。

 

現在時制。DLの相棒タケシ・フミモタが修道院になかなかやって来ない。

 

 

「あなたお料理の方は?」
「すこしはやります。でも、ここ、まさか、料理人もいないんですか?」
「いないのならいいんだけどね、問題は、わんさかいるの。自分は料理ができるっていう病的な妄想を抱いているのが。(中略)いらっしゃい、実態を見ていただきましょう」
p.160

プレーリーが来るまでよく餓死しなかったな……

 

 

コーヒーのマグを手にした「くノ一求道会」の修道長の姿が、虚空の中から徐々に浮かび上がってきたのは、会話が始まってしばらくしてからのことである。すごい術、と少女は思った。魔法の才能をもってる人ってやっぱりいるんだと。だが、それは違うと説明された。ロシェル姉は、この部屋の影とその刻々の変化、物陰と物体間のスペースを完璧に記憶して、部屋になりきることができるのだという。部屋を熟知しきった今では、透明にして空虚なる空間と一体になることができるのだ、と。
p.164

能力バトル漫画みたいなの出てきて草

 

 

コンピュータがどれほど几帳面で融通の利かないものかということは以前から知っていた。文字間のスペース一つの違いが意味を持つ。ひょっとして霊たちもそんなふうなのだろうか。霊って、自分ひとりで考えることができるのだろうか。それとも生きている人の必要に導かれて動くだけなのだろうか。霊界に情報が──哀しみ、喪失、奪われた正義についての行文がパチパチと打ち込まれていくのに合わせて、霊は動き出すのか。でも、それじゃ、念の入ったフリにすぎない。霊としての仕事を果たすには、"リアル" であるためには、それ以上の存在でないとだめだ。
p.167

コンピュータ(ビット)から霊的なものに繋げるのは5章の終盤でもやってたな。
というか、ゾイドがフレネシを妄想して幽体離脱(笑)するくだりとか、本作では霊や魂が頻繁に言及される気がする。
まぁ『重力の虹』とかで降霊会やってたからお馴染みとも言えるけど……

 

 

DLとフレネシが隣り合って写っている写真のところでプレーリーは手を止めた。(中略)一緒に歩いている友人に向けられた、向けられつつあるフレネシの口もとに、疑いのこもった、抑えられた笑みがこぼれつつある。その友人とはDLだ。DLはしゃべっている。開いた口から下の歯列が光って見える。政治の話じゃない。プレーリーには感じることができた。派手やかなカリフォルニアの色が画素(ピクセル)ごとにシャープネスを高めた不死の世界で、お互いにとりつくろう必要のない、リラックスした表情がほころぶのを。権威に縛られた表情を脱け出して、自由な毎日の呼吸をするのを。イェイッ! プレーリーは拳に力を込めた。行け行けっ、このままどんどん進んでけっ!
p.168

最後のプレーリーのくだりエモい……
生き別れの母の学生時代の写真を発見して、母が親友と笑い合っている姿に思わず拳を握りしめてエールを送る娘……

 

 

DLはヘルメットを脱いだ。頭を振って肩に落とした髪の上に、オレンジ色の夕陽が当たって、ほうき星のような光のパターンができる。興奮した神経とペコペコのおなか、奇声を発したい気分のフレネシに状況はまだつかめていなかった。「あなた、誰の回し者?」
「バイクで流してただけさ。あんたの妄想(パラノイア)、元気いいなあ」
p.172

でた!例のセリフだ! これてっきり男(ゾイドあたり)が言うのかと思ってたらDLなんだ。

DLめっちゃかっこいい。1番人気のキャラじゃない? 前章でこれは親子3人の物語だと言ったけど、DLは脇役というには魅力的すぎる。親の代からガッツリ人生が語られるし。

 

フレネシとDLの出会いはまんま王道少年漫画のヒーロー登場シーンだし、この2人の関係アツいな。

 

 

「要するに彼らは、われわれを体から遠ざけておきたくて、専門家に任せろ、と洗脳するわけ。その方が大衆のコントロールが楽になるから」 これを教室の言葉に直せば、あなたは結局自分の体のことを、きちんと責任が取れるほど詳しく知ることはできないのだから、お医者さんや専門の研究者など、あなたの体を扱う資格のある人に任せましょう──となる。しかし、この「資格のある人」というのがいつのまにか、運動のコーチから職場の雇い主、勃起した男性へと自然に拡張していってしまう。そのことに怒りを込めて気づいたDLは、自分の体は自分のものだという過激な結論に達したのである。
p.187

それを「過激な結論」と形容してしまうディストピア、資本主義

 

 

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三分の一は越えた!!!

 

 

つづき

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