『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(1)ジュノ・ディアス

 

 

 

4年くらい前に買って積んでいたのを、ふと読み始めた。

第2章まで読んだ。

 



・第1章

1章おわり。約70/400ページ

文章はかなりポップで読みやすい。アメリカ的な青春小説の文体に、スペイン語の言い回しによるラテンアメリカの風と、オタク用語の奔流が混ざり合っている。
いまのとこ、これぞオタクの妄想という趣の話。(オタクについての妄想であり、オタクのための妄想でもある)

どれだけ冴えない男子でも、姉や祖母は優しいし、一緒にTRPGができるオタク友達もいる感じが、ラノベやエロゲの正統な主人公のようだ。

ただし、現代日本非モテ男性オタクと異なるのは、ドミニカ人であることから、更に強烈な「男らしさの呪縛」が存在するらしいことだ。(エリック・ロメール緑の光線』で描かれていたフランスの「暇さえあれば恋愛すべきだ」という社会的風土を思い出す)

 

また、プエルトリコ、ハイチなど、カリブ海の国々がそれぞれにどう文化的・歴史的なイメージを持たれているのかが端々からなんとなく伝わってきて興味深い。日本からすれば、ドミニカもプエルトリコもハイチもぜんぶ「カリブ諸国」でひとまとめ、それらの "細かな" 違いなんて見いだされないから。


プロローグがカリブ諸国に伝わる悪魔的存在「フク」と、ドミニカの独裁者トルヒーヨの話から始まるように、人種的な抑圧や呪いも大きなテーマとなっており、正直、馴染み深い非モテ男性オタクの話よりも、こうしたラテンアメリカならではの話のほうが面白い。

 

塾の後ろの席でヘンリー・ミラーを読んでいた女の子といい感じになるが、彼女は従軍中の彼氏からDVを受けていた──なんと典型的な展開!『おやすみプンプン』などなど。
三人称の語りだが、語り手はどうやらオスカーの知人のようだ。まだまったく素性を明らかにしていない。

 



・第2章

2章おわり。約100/400ページ

冒頭の太字二人称(「君」)パートのあと始まった一人称の語り手は最初オスカーかと思ってたが、女性であることがわかり、まさか姉だったことに驚いた。オタク男子の非モテ話の次に、パンク娘の親子3代に渡る女系の因縁の物語を持ってくる構成がニクい。
パンク娘の一人称なので当然読みやすい。(パンク娘の一人称で疾走感が無かったら何もかもおしまいだ)

1章ではドミニカ男たるもの〜という父権的呪縛が語られたが、本章ではドミニカ人の女性・娘への抑圧に焦点が当たる。簡潔に言えば、ものすごく男尊女卑。その思想を母親(シングルマザー)が完全に内面化していて、自分の娘へのほとんど虐待といっていい「育児」に結晶する。マジかよ……これだと先進国読者はドミニカをものすごく発展途上で文化的にも「未熟な国」だと受け取ってしまう気がするのだけれど、わざと自国の酷さを披露しているのか? まぁ「自分の故郷/幼少期はこんなに大変だった」語りは普遍的なものではあるけど……

 

リーダビリティが高い理由にもう1つ思い当たった。

この小説は英語で書かれ、アメリカで出版されている。すなわち、主にアメリカ人(のマジョリティ)を対象読者としている。アメリカ人の(数的)マジョリティとは、白人や黒人、ヒスパニックやアジア系……など色々いると思うが、少なくともドミニカ系はそこに含まれていない(と前提している)。だから、「あんたたちにはわからないだろうけど、ドミニカでは〜〜」のように、読者の無知を前提とした説明的言い回しがところどころにある。

私はこの小説を日本語訳で読んでいるが、この小説はアメリカ人にとっても「海外文学」であるのだ。それも、はじめから海外文学として読まれることを前提として書かれた、とても親切な類の海外文学。だから、アメリカ人が原書で読むのと、日本人が日本語訳で読むのとで、読書体験がかなり近いのではないだろうか。

一般的な「海外文学」=翻訳小説は、その執筆言語のもとで、出版される国・言語圏の読者をひとまずは念頭に置いて書かれたものを「翻訳」した小説(や詩など)だから、元々の対象読者ではない我々にとってはギャップがあり、少し読みにくいこともある。本書ではそのギャップがない。というより、原書の時点で「ギャップ」が発生することをわかった上で、そのギャップを埋めるような形で書かれているので、結果的に「読みやすい海外文学」となっている。

これは本書に限らず、移民系作家の作品とか、いわゆる「越境文学」?には少なからず共通する特徴だろう。現代アメリカでいえばイーユン・リーとか、ジュンパ・ラヒリとか。(挙がる作家がどれも新潮クレスト・ブックスやんけ)

 

姉弟モノとしても面白い。弟にとっての姉の見え方と、姉にとっての弟の見え方の差異。思春期のオスカーは、姉が家に連れてきた女友達の肉体にドギマギして妄想の対象にしちゃうくらい意識しているのだけれど、一方でグレた姉にとってnerdの弟の影はめちゃくちゃ薄い。でもまったく「いない」わけじゃなくて、母との関係が悪化しているときに、何回か弟を頼って助けてもらっている。このへんの姉弟関係は、話の主題からは外れておりあまり語られていないからこそ、にじみ出てくるものがあるように思う。

 

あとは単純に、視点の違いによって補完されていくのが楽しい。1章でオスカーが姉とともになぜ突然サント・ドミンゴのお祖母ちゃん家に滞在することになったのだろうと思っていたが、そういういきさつだったのか〜とか。というか弟が自分の非モテオタク道をこじらせすぎてて、家庭内がこんなに荒れていたなんて全然知らなかったよ! ほんと自分のことしか頭にないんだな・・・。こういうところもある種リアルさを感じられておもろい。

 

母が夕食の席で静かに言った。二人とも聞いてほしいの。お医者さんがもっと検査する必要があるって。
オスカーが泣き出しそうな顔をして、がっくりとうなだれた。そして私は? 私は母を見てこう言った。お塩取ってくださる? p.84

このあと母親と2日間リビングで戦いを繰り広げた後に、ふたりソファに並んで座ってTVの連続メロドラマを観るシーンすき。
家出先で母親に捕まりそうになったときに走って逃げ出すシーンもめっちゃ好き。そのあとも含めて。緩急つけるのがうまい

母親と娘の関係はほんとに壮絶なのだけれど、お祖母ちゃんアブエラが優しすぎて泣ける。オスカーに対してもそうだったけど、やっぱり孫は可愛がってだけいられるのだろう。でも子供は可愛がるだけでは済まされない面がある。

 

お祖母ちゃんアブエラが居間のテーブルで私を待っていた。お祖母ちゃんは若いころ亡くした夫を悼んでまだ黒ずくめの格好をしていたが、それでも私が知っているうちでいちばんかっこいい女性だった。お祖母ちゃんにも私にも稲妻のようにギザギザしたところがあって、空港で初めてお祖母ちゃんに会ったとき、認めたくはなかったけれども、私たち二人はうまくいくとわかった。お祖母ちゃんの立ち姿といったら、まるで自分の持ち物の中でいちばん貴重なのは自分自身だというようで、私を見ると、あなたイハ、あなたが行ってしまってからずっとあなたのことを待ってたのよと私に言った。 p.97

「稲妻のようにギザギザしたところ」ってなんやねん。好き。お祖母ちゃんカッコいい。好き

最後はなかなか……これどういうことだ?? 続きが気になる〜〜

 

 

 

※ ルビのために初めて HTML編集 なにこれ を使った。こうやってルビ付けるんすね〜〜

 

 

 

 

 

緑の光線

緑の光線

  • マリー・リヴィエール
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「スペシャリストの帽子」「ザ・ホルトラク」ケリー・リンク

 

 

 

『マジック・フォー・ビギナーズ』の表題作しかまだ読んでいないが、中古で注文した第一短編集『スペシャリストの帽子』が届いたので、こちらの表題作も読んでしまった。

 

 


スペシャリストの帽子

煙突の中からだと、すべてはとても心地よく平和に夢のように見えて、少しのあいだ、彼女はもう〈死人〉にならなくてよくなったらいいのにと思った。しかし、たしかに〈死人〉になるほうが安全だ。 p.100

 

相変わらず文章に細かなフックを詰め込む技術がすごいのだけれど、「マジック・フォー・ビギナーズ」に比べればまだ過剰さは控えめで、平坦/冗長な「息抜き」部分もあるのでウンザリすることはない。

 

夏、子供たちが主人公、血縁者の死の影、ホラー風味など、「マジック・フォー・ビギナーズ」と共通する要素がたくさんあった。あちらはホラー小説やTV番組が作中作(メタフィクション)要素としてあったが、こちらは詩(あるいは捕鯨のための言葉)である。あと、本当に『ミツバチのささやき』みたいなのが好きなんだな・・・と思った。こっちは、人里離れた古い洋館に幼い姉妹が暮らす──という設定からして更に寄せにいっている。"一線を越える" のもそう。

 

暖炉に顔を突っ込むと、川のように湿った空気が上に流れてくるのがわかる。煙道は古めかしく、すすけて湿り気のある臭いがして、川の石ころのようだ。 p.92

「川のように湿った空気」という一文目で、煙道≒川 という(わりかし理解のしやすい)比喩を持ち込んでいるのに、さらに「川の石ころのようだ」と次の文で被せに行っている。新しい比喩やアイデアを投入せずに、最初の想像力を少しだけ掘り下げる。こういう点が、ある種冗長で、「過剰さは控えめ」だと感じる。これくらいが丁度いい。

 

ラッシュは十九世紀から二十世紀への変わり目にここで暮らした人物で、十三歳のときに家出して海に逃げ、三十八歳のときに戻ってきた。結婚して一人の子をもうけ、下手くそでだれにも知られていない詩を三冊分書き、さらに下手くそでさらにだれにも知られていない小説『窓越しに私を見つめている者』を書いてから一九〇七年にふたたび姿を消し、今度は永久に戻ってこなかった。サマンサとクレアの父親によれば、詩のいくつかは実際とても面白く読めるし、小説は少なくともあまり長くないらしい。 p.89

くそおもしろ文章。とくにオチが完璧
『窓越しに私を見つめている者』というタイトルも大喜利として良いとこ突いてんな〜〜と感心したが、これは終盤で回収されてしまうのでやや残念。伏線じゃなくて単なる大喜利のままにしてほしかった。

 

コースラクさんは双子を見分けられる。たとえ二人の父親にできないときでも。クレアの瞳は猫の毛のような灰色で、サマンサの瞳は雨降りのときの海のような灰色なのだそうだ。 p.91

こういう直喩のセンスってどうやったら身につくんかな〜〜〜 しかもこれも後に何度も言及し直されるし。何気ない描写でも絶対にあとで活かす技術と執念が特徴的
瞳の色のほかにも、姉クレアの靴(ひも)の描写も、はじめは何気なく描かれ、数行/数ページ後で印象的にリフレインされていく。

 

サマンサは考え事ができる時間があったときに(今では四六時中考え事ができる時間なのだが)、今の自分が十歳と十一歳のあいだに漠然とはまりこみ、クレアとベビーシッターと一緒に身動きが取れなくなっているのに気づき、かすかな痛みを感じた。彼女はこのことをよく考えてみる。数字の10は丸くて愛嬌があって、ビーチボールみたいだけれど、全体として楽な年ではなかった。11はどんな年になるのだろう。もっと鋭くて、たぶん針みたいだ。 pp.107-108

くそうま文章(段落)

 

不穏な感じの奇想短編を得意とするアメリカ作家といえばシャーリイ・ジャクスンも連想する。(ここで共通項に「女流」も挙げていたらわたしの椅子の後ろに立つあなたによって喉元を掻っ切られ、今頃わたしはこうして記事を投稿できてはいなかった)

 

 

 

 

 

 

ところで、前回の「マジック・フォー・ビギナーズ」記事への反応を漁っていたら、以下のツイートを見つけた。

 

 

 

ので、『マジック・フォー・ビギナーズ』収録の「ザ・ホルトラク」を読んだ(情報提供感謝!)

 


ザ・ホルトラク

「コンビニは女性を必要としてるんだ、特にチャーリーみたいな女性を。彼女がお前に恋したとしても、俺は全然気にしないぜ」 p.67

 

 

お〜〜 これまで読んできた3編のうちでは、いちばん終わり方が好きだなあ。通り過ぎるのをただ呆然と眺めずに追いかけるのが良いね。何をやっているのかさっぱりわからないけれど。

 

やっぱり執筆年代があとの『マジック・フォー・ビギナーズ』収録作のほうが、『スペシャリストの帽子』の短編よりも、さらにフックと要素の密度が高いと思う。コンビニ×ゾンビ×三角関係×パジャマ×CIA×犬×カナダ×トルコ...… 50ページの短編小説にしては要素が過剰すぎる。カオスなんだけど、それらをやたらめったらに思いつくまま詰め込んでいるように見えて、見事な手付きで捌いては繋げては……で、読んでいくうちに〈何か〉が見えてくるような、まとまった「小説」に仕立て上げている。

 

それに、上手い文章の密度でいったら「マジック・フォー・ビギナーズ」とさほど変わらないが、メインの登場人物が3人に絞られていたのと、整然と商品が並んだ深夜のコンビニ(道路を挟んでゾンビの国への深淵がある)というシチュエーション設定によってか、いい具合の過疎っぽさ・スカスカ感・空白があったように思われる。

 

終盤、バトゥが6時間近い睡眠から戻ってきてエリックと長めの問答をするくだり(「よし、じゃ話す。俺のパジャマはCIAの実験パジャマなんだ」)は、バトゥがあまりに説明しすぎてて、意味不明ではあるんだけど、深そうな、主題っぽい台詞を立て続けに吐くさまとかが、ちょっと残念だった。それだけに、結びが好みで嬉しかった。


TV番組、下手くそな詩ときて、今回の作中作要素は・・・パジャマ(の柄)!!! こういうセンスには本当に脱帽する。

 

「あんた、あたしの日記を着てるじゃないの」と女性は言った。声がどんどん高まり、絶叫になっていった。「それってあたしの字じゃない! それってあたしが十四のときにつけてた日記よ! ちゃんと鍵かけて、マットレスの下に隠して、誰にも見せなかったのに。誰も読まなかったのよ!」 p.68

想像したらめっちゃこわい。さすがに未来の(これから書く)日記ではないんだな……それはさすがに盛り過ぎか

 

それから、やっぱり〈死〉関連の要素も欠かしていない。ゾンビという直接的すぎる要素もあるが、不穏さを醸し出しているのは犬の安楽死のほうだろう。しかし、犬を殺すのは可哀想だし、仕事で殺さなくてはいけないチャーリーも可哀想、というトーンが一貫しており、そこだけ常識的すぎて、他のカオスで意味不明な部分と比べて浮いていた。そんなに安直な同情を醸し出さなくても良かったんじゃないか。まぁ犬の幽霊の描写はわけわかんなかったから、そこで辻褄を合わせてバランスをとっていたとも言えるかな。

 

あと、「カナダ」と「トルコ」という外国の名を2つも出して、そこでズラすのは上手いなぁ〜〜と思った。異国といえばすぐ傍にあるゾンビの国(聞こ見ゆる深淵)もあって、カナダ人とゾンビを並列させてズラしてるのに、そこにトルコ(語)が微妙な距離感をもって入ってくる構図がすごい。

 

チャーリーはギリシャ悲劇の登場人物みたいに見えた。エレクトラとか、カッサンドラとか。たったいま誰かが彼女を愛する都市に火を放ったみたいに見えた。 p.53

キレッキレの比喩で必ず実力を見せつけてくる作家。しかも例によって、この「火が放たれた都市」というモチーフはこれっきりではなく、後半でリフレインされる。もうあんたのやり口はわかってるんだよこっちは!!!

 

エリックは店内から出なかった。二人が何と言っているか聞こえるわけでもないのに、時おり顔を窓にあててみた。聞こえたとしても理解できないだろうな、と思った。二人の口が作る形は、トルコ語の単語みたいな形になっていた。小売の話をしているといいな、とエリックは思った。 p.57

「小売の話をしているといいな、とエリックは思った」なんて文が奇をてらわずに存在できる小説を書けるようになりたい人生だった・・・

 

菓子コーナーを「噛み応え」と「溶け具合」に従って再編することにバトゥは多大な時間を費やしていた。前の週には、すべての菓子の頭文字を左から右に読んでいってそれから下に降りていくと『アラバマ物語』の最初の一文になってそれからトルコ語の一行になるように並び替えた。月がどうこうという詩だった。 p.66

バトゥのトルコ語属性への言及も兼ねているのだろうけど、個人的には2文目以降は余計かなぁと思う。1文目が良すぎる。

 

はじめはほとんど本物の人間みたいに見えてだまされそうになるという点で、ゾンビはカナダ人に似ていた。 p.74

ここいちばん好き

 

「考えてもみろよ」とバトゥは言った。「あんなにたくさんの、幽霊犬がさ」。バトゥは尻をつけたまま通路を滑っていった。エリックもあとを追った。 p.82

ここ不意打ち食らった

 

 

というわけで、

"「ザ・ホルトラク」みたいな緩いやつの方が文体とのバランスが良くて読みやすいとは思う。" 

という貴重なご意見を頂いて読んだわけだが、たしかに少しは読みやすかったかな、と思う。しかし、文体の洗練度がまだそこまでではない前短編集の作品を先に読んでしまったために、本作と「マジック・フォー・ビギナーズ」の単純な比較が出来なくなってしまったのは申し訳ない。

 

 

ところで、本ブログは一日せいぜい数PVで安定している日陰ブログ(もともとそういう目的でnoteから移ってきた)だが、前回の「マジック・フォー・ビギナーズ」の記事は、当ブログ比ではかなり多くの人が閲覧し、上述ツイート以外にも、インターネット上で少しばかり言及して頂けた。みんなケリー・リンク好きなんだな〜〜と思った次第である。

考えてみれば、BFCの作品の幾つかは、かなりケリー・リンクの影響下にあると気づいた。

note.com

(大滝瓶太さんも推してるし、瓶太さん以外にもケリー・リンクの未邦訳作品の翻訳を個人的にやっている元相互フォロワーを知っている)

ケリリンの、フックを大量に仕込む文体はたしかに短編および掌編で威力を発揮するだろうし、何より「真似したくなる」タイプの文章だ。前回、ジョージ・ソーンダーズに似ていると書いたが、ソーンダーズが「いまアメリカの小説家志望の若者にもっとも模倣されている文体」であることを踏まえると、線で繋がっているかんじがする。

 

 

 

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「マジック・フォー・ビギナーズ」ケリー・リンク

 

 

 

数年前に、今はなき地元の駅前大型書店で購入してからずっと積んでいたのを、知人の度重なる激推しもあり、ようやく表題作を読んだ。

 


・「マジック・フォー・ビギナーズ」

まだ10ページ読んだだけだが、上手すぎる。ずっと面白くて、それが逆に胃もたれするというか、気持ち悪くなってきた。現代アメリカ文学らしいユーモアとトーンがこれ以上ないほど洗練された形でずっと披露されている。ソーンダーズをもっと洗練させた感じ。洗練されすぎててむせそう。もういいよ……となる。

なんか、1周回ってテンション上がらないんだよな。これを読む前より読んだ後のほうが、自分にとって世界がつまらないものになっていそう。「こんな面白いフィクションを経験してしまったら、現実世界なんて退屈きわまりない!」とかそういうことじゃあなくて、こうした小説が存在することも許容してしまう「世界」に対する失望感。自分でも何言ってるのかわからない。

 

基本的にすべての文が「狙って」いて、その狙いを外していない。一文一文がうまい。だから息抜きがない。

素人でも書けそうな、特になんでもないフラットで凡庸な文が適度にあることって大事だなぁと思う。「キメ」の文はここぞというところで来るから決まるのであって、ずっとキメの文が続くのはしんどい。柴田元幸さんの訳の巧さも確実に影響しているだろう。

 

具体的に挙げておく。

これまで一週間半のあいだ、ジェレミーは母親が何を心配しているのか知るのを避けてきた。頑張れば、物事を知らずに済ませるのは難しくない。楽隊の練習もあるし。平日は寝坊して朝食の会話を排除したし、夜は望遠鏡を持って屋根にのぼって星を見て火星を見る。母親は高所恐怖症なのだ。彼女はLA育ちである。 p.327

ずっと上手いのだけれど、特に「楽隊の練習もあるし」と最後の「彼女はLA育ちである」というような短文を挿入してこれでもかと追撃してくるのが「あ〜〜もうやめてぇ〜〜〜」となる。

 

タリスが玄関のドアを開けてくれる。ジェレミーを見てニヤッと笑うが、いままで彼女も泣いていたことがジェレミーにはわかる。着ているTシャツには〈あたしサイコーにゴスだからウンコの代わりにちっちゃな吸血鬼出すの〉と書いてある。 p.330

これで終わらずにこの次の段落でさらに畳み掛けてくる。(省略)

 

しかし、僕はコルタサルの小説なんかにも、「一文一文が洗練されていて面白い」と言っているのであって、ケリー・リンクと何が違うの?と問われたら両者の違いをうまく答えられるだろうか。「アメリカ文学か否か」はやはり大きいか。・・・結局のところ、アメリカ文学特有の想像力やシニカルな技巧が苦手なだけでは??

 

「じゃあれがフォックスね?」とエイミーが言う。誰も彼女に黙れとは言わない。言ったって仕方がないのだ。エイミーは心が広く、口はもっと広い。雨が降れば、エイミーは舗道から芋虫を救い出す。秘密を持つことに飽きたら、誰もがエイミーに打ちあける。 p.334

「心が広く、口はもっと広い」まではわかるが、心の広さの例示として「舗道から芋虫を救い出す」て!

 

タリスはキッチンにいて、ヴェルヴィータ・ピクルスサンドを作っている。
「で、どう思った?」とジェレミーは言う。趣味みたいなものだ、タリスに喋らせようとするのは。趣味より無意味だけど。「フォックス、ほんとに死んだのかな?」 p.337

このあと「無意味」をさらに繋げてくる。

 

目録の引出しに縛りつけられた、血まみれの力ない身で美しい頭部をだらんと垂らしているフォックスをプリンス・ウィングは置き去りにし、ハクション、とくしゃみをして(剣の戦いアレルギーなのだ)書架のなかへ立ち去った。 p.344

くしゃみまではまだわかるが、「剣の戦いアレルギー」て!

 

大喜利力というのだろうか。発想の精度がヤバい。個人的には、文学の筆力において大喜利力はとても重要なパラメータだと思うが、しかし、「文学力」なるもの(なんだそれ!)があると仮定したときに、ある地点までは大喜利力と文学力はともに手を取り合って美しく並走していくものの、最終的には2つの線が離れていく様子を想像する。つまり、大喜利力だけではたどり着けない文学の境地があるのだ。

現代アメリカ文学の最重要作家といわれるレジェンドの面々──ドン・デリーロトマス・ピンチョン、あるいはもう少し若い世代でジョナサン・フランゼンなど(あるいは短編作家ならイーユン・リーや(カナダだけど)アリス・マンローや(アイルランドだけど)ウィリアム・トレヴァーなど)──こうしたメンツにケリー・リンクが並び立てられることがなく、むしろSFやファンタジーといったジャンル文学の枠組みで積極的に評価される作家、というのは本作を読んでいるだけでもすごく納得できる。

むろん、ジャンル文芸よりも純な文学のほうが偉いわけではない。ケリー・リンクがもっとも上手い作家のひとりであることは確かだ。しかし、文学の頂点を取るのに欠けているのは何だろう?社会批評性とか?他の作品を読まないことには断言はできないが、ケリー・リンクの筆致は、あまりにもエモく、あまりにもキャッチーで、あまりにも面白すぎる。

 

『図書館』には定期的なスケジュールもないし、クレジットも出ないし、時には科白すらない。ある回などは、カード目録の一番上の引出しのなかで何もかもが起き、すべてはモールス信号で伝えられ、それに字幕がついている。それだけ。我こそは『図書館』の生みの親、と名乗り出た人物は一人もいない。俳優を誰かがインタビューしたこともないし、誰かがセットにひょっこり迷い込んだことも、偶然撮影スタッフに出会ったり脚本を発見したりしたこともないが、あるドキュメンタリー・タッチの回では俳優たちが撮影スタッフを撮影した。 pp.349-350

 

ジェレミーの母親は孤児である。母さんは野生に返った無声映画スターたちに育てられたんだよ、と父親は言っているし、たしかにハロルド・ロイドの映画のヒロインみたいな見かけではある。くしゃくしゃっと乱れた感じが魅力的で、たったいま線路に縛りつけられたか、たったいま線路からほどいてもらったかみたいに見える。 p.354

2文目ですでにノックアウトされているのに、3文目での死体蹴りがえげつない。どうやったら「たったいま線路に縛りつけられたか、たったいま線路からほどいてもらったかみたい」って比喩が出てくるんだよ


ケリー・リンクが短編をメインとする作家なのはすごく合点がいく。この超絶に上手い文章をずっと続けて長編を書くことは──ケリー・リンクなら絶対にできるだろう。だからこそ長編には向いていない。書けてしまうから。

 

「エリザベスが僕に恋してるの?」と彼は言う。主義として、カールの言うことはいっさい信じないと決めている。でも本に書いてあるのなら本当かもしれない。 p.360

現実と夢/虚構の倒錯、というのが技巧の水準でも、そして主題の水準でも酷使されている。
他にも、逆のこと(倒錯的なこと)を言って修辞を付けている箇所は多い。

 

はじめの20ページくらいは文章の質に引いてきたが、次第に慣れて、素直にヤバさを堪能できるようになってきた。やっぱすげえわ。

 

「母さん、そんなのみんな嫌いでしょ」とジェレミーは言う。
「まあ好みじゃないわね。今夜みんな、いつ来るの?」
「八時ごろ。母さんも仮装するの?」
「そんな必要ないわよ。あたしは図書館員なのよ、忘れた?」 p.378

 

「そうかあ」ジェレミーは言う。「ひょっとして何か悲しい秘密があるのかなって思ってたよ。昔はどもりだったとか」。でも秘密は秘密を持てない。秘密であるだけだ。 p.388

 

大喜利的に無節操にばら撒いたキテレツな設定要素を、のちにことごとく拾ってはストーリー上で再利用していくのまで上手すぎる。これはもはや伏線ではない。ケリー・リンクほどの技量の持ち主になると、どれだけ後先考えずにアイデアを放り込みまくっても、あとから完璧な形で「回収」できるのだ。いや、実際にはものすごく練られているのだろうけれど、読者にそうは思わせないほどのハチャメチャっぷりと豪腕。


電話機/電話ボックスが重要モチーフだし、2人の女の子を二股する少年が主人公だし、実質、『きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい』では?

ミツバチのささやき』が真面目にオマージュ元なのはわかった。

 

うおああ〜〜〜おわった〜〜〜。やっぱり父親のホラー小説の体裁で幕切れか〜〜〜。こわい〜〜〜〜暗示的〜〜〜

そしてあんまり好みじゃなかった〜〜〜ホラー調にしても予想してたのと違った。いや自分の予想から外れるのなんて当たり前なんだけど、初見ではうーーん……ってかんじ。

 

てか、最初っからジェレミーたちはテレビ番組『図書館』の登場人物であると言及されているのか。フォックスたちが登場する『図書館』よりは1つメタな位相の別のテレビ番組(話のなかで『図書館』が作中作として出てくる)の登場人物かと思ってた。

読者のいる現実
 →ジェレミーたちのいるテレビ番組
  →フォックスたちのいるテレビ番組『図書館』

という3層構造だと勘違いしていた。フツーに2層構造で、本作に出てくるテレビ番組は『図書館』だけで、その上で『図書館』を基準にしたベタ存在とメタ存在が入り混じって溶け合う、というプロットなのね。よりフクザツな感じで勘違いしていたので、余計なことを色々と考えてしまっていた。

 

とりあえず、自分は当然ながらタリスより断然エリザベス派です!!!と書いておこう。

 

本・図書館とテレビ番組、(ホラー)小説、夢、虚構、友情、恋、親子愛、少年時代、ノスタルジー・・・etc.

特にオタクを自認する人間は刺さる可能性が高いと思うが、このようによりどりみどりなモチーフがどれも万人向けできわめて完成度が高い。よくばりセット。
こういう小説を中高生の頃に読んでしまったら(難解ではないので十分に読めるだろう)、その後の読書人生が狂ってしまうのではないか? ぜひ全国の中学校&高等学校に置いてほしい。

 

さて、最後まで読み終わったわけだが、これを読む前よりも、世界はつまらなく映っているだろうか? うーん・・・そうでもなさそう?

 

 

 

【22/1/2 追記】

akosmismus.hatenadiary.com

尊敬する読書家の、以前から読みたいと思っていた本作の書評を読んだ。はじめは、登場人物のメタファーを読み解いていったり、語源によってその解釈の信頼を補足したりと、わたしが苦手な「考察」──YouTubeのボカロ曲のコメント欄で繰り広げられているような──と果たして何が違うの?と訝しみながら読んでいったが、最後までたどり着くと、ひたすらに「やば〜〜」と感嘆の息しか告げなくなってしまった。こういう記事を1つでも書けたらもう人生は あがり でいいんじゃないかと凡庸なるわたしは思うわけだが、こういう記事を書けるひとは、もっと先へと進んでいくのだろう。

作中の『図書館』の扱いについて勘違いしていた部分も、これを読むことによってかなり整理された気がする。語り手についても、かなり独特で狙ってるな〜〜というフワフワとした印象しか抱いていなかったものに、ばちっと〈正解〉を叩きつけられた思いがした。

現実とフィクションの積極的な混同というのはいかにもオタク好みのテーマだし、自分がより大きな世界=フィクションのなかの登場人物のように振る舞う、という感覚はかなり共感できる。

そして、本小説がテレビ番組の実況の体裁をとるために現在時制を採用している、という点が特に刺さった。「読書実況」と称して本ブログを書いている身としては。本作の2つの作中作要素である「小説」と「テレビ番組」がこのように結びついていたのだと感動した。

この書評を読んで、「マジック・フォー・ビギナーズ」は紛れもない傑作であり、かつ自分にとっても重大な意味を持ち得る作品であると確信したが、しかし、初読時の、楽しめただけではない印象もまた大切にしたい。

 

あるいは、YouTubeのコメント欄の「考察」にも、積極的に批評としての価値付けの余地を認めていかなければもう時代に置いていかれるのかもしれない。

 

 

 

 

 

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「ひかりごけ」武田泰淳

武田泰淳ひかりごけ」(1954)

 

新潮社『日本文学全集 33 武田泰淳』で読んだ。引用部のページ数もそこから。

 


羅臼ってなんか聞き覚えあるな、と思ってグーグルマップを開いたら、数年前に家族旅行でガッツリ行ったことある場所だった。あそこか〜〜〜道の駅で買い物をした覚えがある。
行ったことある場所の話だと俄然臨場感が出てきて良いよね

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羅臼町」に行ったマーク♥が付いていた。

 

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情景描写や人物描写の筆致が良い。好き

庭石を五つ六つつたって行くと、垣根がわりに積んだ薪の列の向うが、いきなり海でした。青黒く垂れ下ろうとする夜の幕を、夕焼の鮮烈な光が、横ざまに切り裂いている。国後島はなかば雲の黒にかくれて溶けているが、わずかに光を受けた部分は、明確に凹凸を浮き出している。塵芥棄て場の向うに引きあげられた漁船が四五隻、急角度に傾いて、そこにも鴉は黒くジッとしている。海峡はさすがに波だって、夕風は寒い。ただただ巨大な単純な黒と化そうとする、海峡の姿は、いかにも堅固、いかにも強力、そのため浜にさらされた船は、灰色の紙製のようにもろく、危なっかしく見えました。私の眼前にあるものは、「国境」であるよりもまず北方の海であり、九月の夜の海であり、黒々と変色することによって、音なきざわめきを猛々しく蔵した、多量の海水であり、海風でありました。 p.105下段

 

校長は背丈の高い、痩せた人、年は三十代でしょうが、やさしく恥ずかしそうな微笑をたえずたたえて、自然や人事に逆らうたちではなさそうでした。黄ばんだ皮膚に不精ひげをはやし、ひょろ長い古ズボンの脚に、粗末なズック靴を穿いている。国境の漁村の田舎校長という、自己の運命と役割を、冷静に見抜いて、ジタバタする代りに、悪気のない苦笑で、いくらか喜劇的に、その役割をうけとめている。何の警戒心も反感も起させない、おだやかではあるが陰気でない人物です。乱暴なバスの運転手や、緊張し切った村の助役さんとちがい、荒々しい自然のエネルギーが、彼の肉体だけよけて通ったようです。 p.106下段

 

相手が指し示した場所に目をやっても、苔は光りませんが、自分が何気なく見つめた場所で、次から次へと、ごく一部分だけ、金緑の高貴な絨毯があらわれるのです。光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言った方がよいでしょう。光かがやくのではなく、光りしずまる。光を外へ撒きちらすのではなく、光を内部に吸いこもうとしているようです。 p.108

 

 


なぜそこまで「人肉食」をタブー視するのかイマイチ理解ができないため、本筋のトーンに乗り切れない。
人肉食を扱った文学作品というと、サエール『孤児』や、ドノソ『別荘』などわりと思いつくが、これらのどれであっても、「人肉食をする=野蛮な存在」という扱われ方をしていた。
しかし、正直なところ、僕には何がそんなに「嘔き気を催す」のか分からない。直感的には殺人のほうが普通に悪いし怖い。
僕だって、別に人肉を食べたいわけではないし、極限状態で目の前に食べられる死体があったとしても、おそらく食べることはできないと思う。でもそれは、決して人肉食が文明人にとって殺人以上に犯してはならないタブーであるから──などという倫理道徳的な理由からではなくて、単に怖いから、人肉食なんて慣れていないから、というような消極的で凡庸な理由だと思う。
言ってしまえば、人肉を食べたくないのは、ゴキブリとかミミズなどの虫を食べたくないのと本質的には変わらない。あるいは糞便を食べたくないのと変わらない。これまでの食習慣で、文化として慣れていないから食べるのに躊躇する。
そして、飢餓状態において仮に食べてしまったとしても、それは虫や糞便を食べてしまったときと同じような嫌悪感を覚えるだろう。……いやもちろん、知人や身近な人間の肉を食べてしまったと想像すれば、それはなかなかにショッキングな出来事ではあろうが、それは人肉食自体への嫌悪ではなく、「親しい人間を食べた」ことへの嫌悪であろう。まったく見知らぬ他人の肉であれば、また違った印象になると思う。

僕がこんなにも人肉食をタブー視することに反発したくなるのは、おそらく人間中心主義への反発と関係している。なんで人間だけそんな特別視するんだ。誰だって生物を殺して食べて生きているじゃないか。
例えば、愛玩動物(ペット)を殺してその肉を食べることに拒否感を覚える人はたくさんいると思う。僕もペットは飼わないが拒否感を覚える。これと、人肉食への拒否感とは何が違うのか?僕は本質的に同じだと思う。自分に近い存在、親しい存在を食べることには拒否感を覚える、というだけの話だ。つまり、「人間」を食べることに拒否感を覚えているというわけではない。
僕は「自分は人間である」という種族意識?が薄いので、自分と同じ生物種というだけでそこまで「近い存在」には思えない。見知らぬ人間より、身近な愛玩動物とかのほうが食べるのに拒否感を覚える。そもそも自分は平和主義かつめちゃくちゃ意気地無しなので食べられない(バートルビーのように飢え死するのが理想)と思うが、それでも「人肉食なんてあり得ない」とは思えない。もしかしたら特定の状況でしてしまうことは全然あり得ると思う。人肉食と聞いただけでタブー視して、未開の蛮族だと思ってしまう人間のほうが僕には(想像力が貧困で)「未開人」だなぁと思う。

人間中心主義への反発、これはヴィーガンへの関心にも影響しているだろう。

あと創作物でよくある「これからはあいつもひとりの人間として扱おう」とか「傷つけ傷つけ合って互いを理解していく。それが人間だ」みたいな文脈での「人間」の使われ方も嫌いだ。

 

 

・・・・・・・・・

 

 


あ、いや、この作品自体が、上で滔々と語っていたような、「人肉食だけをタブー視する風潮へのアンチテーゼ」として書かれているっぽい。つまり、完全に自分側だ。まぁそれであっても、最初から人肉食をたいしてヤバいことだとは思っていない人間にとっては本作の衝撃は薄れてしまうが……

私はこの事件を一つの戯曲として表現する苦肉の策を考案いたしました。それは、「読む戯曲」という形式が、あまりリアリズムのきゅうくつさに縛られることなく、つまりあまり生まなましくないやり方で、読者それぞれの生活感情と、無数の路を通って、それとなく結びつくことができるからです。この上演不可能な「戯曲」の読者が、読者であると同時に、めいめい自己流の演出者になってくれるといいのですが。 

"上演不可能な「戯曲」"、好き!!!
舞台・演劇に慣れ親しんでいないのもあるし、リアリズムから解き放たれてこそ文学は面白い、的な雑なアレがあるので。
第1回ブンゲイファイトクラブ準決勝の金子玲介「小説教室」みたいな。

※こういう戯曲のことを「レーゼドラマ」って言うんだ!!知らんかった!!!

ja.wikipedia.org

 


読み手の演出法によらず、脚本がわりと「インテリ向きの喜劇」っぽくない??
コミカルかつシニカルなやり取り。すごく戯曲っぽい。

(舞台、ふたたび明るくなるまでに、三日間を経過す)

ここ最高

 

吹雪下の雪国での遭難、という極限状態の裏で、太平洋戦争末期というもう一つの極限状態が平常化して背景になっているのが興味深い。つまり本作は二重の極限状態で生きる人間たちを描いているんだけど、彼らにとって戦争とはもはや日常であり、飢餓で死ぬのは悲しいこと("犬死")だが、戦死するのは名誉なことである。今の我々からすれば戦死だって犬死じゃん、と思うのだけど、実際に戦時下で必死に生きていた軍人たちにとっては、餓死と戦死の差は文字通り命を賭してでも大切なものなんだなぁ。(ここで、名誉の戦死を望む彼らを「馬鹿だなぁ」と言ってしまった瞬間に、さっき自分が上で書いた、"人肉食をした人をすぐに「未開人」だと思う人間こそ愚かな「未開人」だ"、という文言がブーメランとして自分に刺さってしまう。他者への想像力を大事にしよう)

 


雪国での極限状態、「未開人」と我々──というテーマから、どうしても『ハルカの国 明治越冬編』を連想する。あれは人肉食ではないが、また別の「野蛮」な行いについての物語だから。そして、北国の人間の生の言葉によって語られる点も似ている。

note.com

自分が書いた『ハルカの国』含む《天狗の国シリーズ》おすすめ文章

 

 

 


ここでそうやってタイトル再回収するのか・・・・・・
前半の紀行文パートとの関係付けがうまい!


極限状態での人肉食を扱った物語(戯曲)として、あまりにも出来すぎている。各登場人物の配置、関係、あらゆる台詞がよく出来ている。仮に「ペキン事件」で唯一人生き残った船長が、本当に複数人の仲間の肉を食べていたのだとしても、船長はこんなに理知的に冷徹に人肉食について語れる人間ではなく、もっと焦燥した状態で行為に及んだと自分なら推測する。船長も西川も、あまりにも「キャラクター」として立ちすぎている。この戯曲はあまりにもフィクションの領域に足を踏み入れすぎている。
しかし、そんなことはとうに分かった上でこの戯曲は書かれている。船長の人物紹介に「読者が想像しうるかぎりの悪相の男」と書いてあることが象徴的だ。これはフィクショナルなギャグであり、そしてギャグのなかでも非常に切実な類のものだ。いくら人肉食をしてしまう人間だからって、彼の人相がそんなにはじめから悪いわけではない。それではギリシア悲劇のように、運命に導かれて人肉食に及んだかのようではないか。そんなはずはない。──でも、「ペキン事件」をきいた我々は、船長がはじめからものすごい極悪人であってくれたらいいなと願う。人肉食をする人間なんてはじめから狂っているのだと、そう考えればなんとか安心して、この事件を受け入れることができる。
つまり、この戯曲は、はじめから「リアル」を、事件の真相を克明に描くことを志向してなどおらず、むしろ、この事件を受容する我々の想像力そのものを克明に描くことを目的としているのだ。だから、「ひかりごけ」は戯曲ではなく、あくまで短編小説の体裁で、戯曲の前に紀行文パートが存在する。ある凄惨な事件を聞いて、本当はどうだったのかと想像する。そうした、人間がリアルを消化するためにどのようにフィクション化するのか、という物語を描くことこそが、この短編小説の目的だからだ。


《絶対に真相を知ることのできない出来事》への想像力を扱った文学作品としては、他にミルハウザー「夜の姉妹団」や、ボラーニョ『はるかな星』などが挙げられるか。

 

死ぬのを待ってるわけじゃねえべさ。ただ待ってるだけだわさ。待ってると、おめえが死ぬだよ。 p.133上段


人肉食を経た人間の背後に差す緑金色の光輪「ひかりごけ」、これも、実際にそうしたものが彼の後ろに出来ているのではなく、ト書きによって──つまり演出によって──照明が当てられている、というメタな情報がすごく重要だと感じる。戯曲としてやる意味がここにある。「ひかりごけ」は、他人が彼に照明を(そして視線を)向けたときにのみ背後に現れる《影》──幻影=虚構──である。このあたりの含意がすごい。

 

 


第二幕、法廷編か!!

導入部→凶行部→法廷部 という構成はまんまカミュ『異邦人』だ。

 

うわ〜〜〜〜〜・・・・・・
第一幕とは船長の俳優を変えるだけに留まらず、あの中学校校長の顔に酷似している、という指示書き・・・・・・
そうか〜〜あの執拗な人物描写はこのためだったんか〜〜〜。小説×戯曲ってこんなことができるんだな。おもしれ〜〜〜〜

また弁護人は、江戸時代の農民が、飢饉にさいして、互いに自分の子を他人の子と交換して、その肉を食べた例を挙げられたが、これは二百年以前の事実である。目撃者も証人も生存していない古記録にすぎない。したがって、本事件の判定の参考に資するに足りない。 p.136下段


わろた。皮肉が効いてるなぁ。この事件だって被告しか生存していない、参考に資するに足りない記録を元に議論しているというのに・・・・・。そして、これを数十年後の現代において今の私が読むことで、本当に「目撃者も証人も生存していない」、それどころか「虚構に過ぎない」事実をどう受容すべきか、という重層的な問題が立ち上がってくる。


おーーーすごい。
「私は我慢しています」というフレーズが、まるでバートルビーの「I would prefer not to(せずにすめばありがたいのですが)」並にキャッチーで格好いい、印象的な名台詞と化している。

 

 

おわり。
なるほど〜〜〜〜〜 すげ〜〜〜〜〜おもしれ〜〜〜〜
船長が裁判所で検事たちに対して「人肉を食ったことも、人に自分の肉を食われたこともない人間に裁かれたくはないのです」と発言するのは、人肉食という《一線》が人間を本質的に区分する境界であるとみなすようで、「誰だって人肉食をする可能性はあるし、人肉食をした人間が本質的に極悪人の犯罪者なわけではない」というテーマから反しているようでどうなんだ?と思っていた。が、ラストで、船長ではなく周りの人々の首の後に「ひかりごけ」が灯る演出で、あっなるほど〜と思い直した。
しかし、それはそれで、テーマを表現する演出としてやや露骨すぎない??という不満はあった。
さらに考えると、では、「光の輪のついた者には見えない」はずの光輪を、この戯曲の観客たる我々はなぜ見えているのか?という問題にぶち当たる。・・・それでは、いくら船長と検事たちに本質的な違いがない、と主張しても、その主張のためにとった演出そのものによって、その主張自体が矛盾してしまう。(この戯曲の登場人物と観客のあいだには本質的な差がある、すなわち、人間には本質的な差がある、というテーマの逆の結論を表現することになってしまう)
この「矛盾」を矛盾ではなく理解する方法はただひとつ、この戯曲はあくまでフィクションである、という事実を意識的に認めることだけだ。つまり、ラストシーンで船長に群がっていく人々の後ろの光の輪が私たちに見えるのは、これが戯曲であり、虚構の産物だからだ、ということにするのである。言ってしまえば当たり前なのだが、これは、私が先ほど述べた「この戯曲は、はじめから「リアル」を、事件の真相を克明に描くことを志向してなどおらず、むしろ、この事件を受容する我々の想像力そのものを克明に描くことを目的としている」という解釈にうまく合致するために非常に都合がいい。
そして、この作品が戯曲だけの形式ではなく、「前説」として、この戯曲よりも1つメタな立ち位置の紀行文を置いたのも、最後の光輪の演出をテーマと無矛盾に成立させるための選択である。

・・・と、このように、二転三転して、最終的には納得できる解釈を見つけられたので、本作はわたしにとって文句なしに大傑作です。

知識がないためロクに言及は出来なかったが、背景にある太平洋戦争下の軍国主義天皇陛下といった右翼的な要素に関しても、色々と掘り下げる余地はあるだろうと思った。

あと、「人肉食を経た人間とそうでない人間の境界(はあるのか?)」というテーマが、最初の紀行文パートの、羅臼からぼんやりと見える国後島の影というモチーフですでに準備されていたことにいまさら気付いた。よく出来てるなぁ〜〜〜

私の眼前にあるものは、「国境」であるよりもまず北方の海であり、九月の夜の海であり、黒々と変色することによって、音なきざわめきを猛々しく蔵した、多量の海水であり、海風でありました。 p.105下段

こうして紀行文パートを振り返ってみると、小説部分は小説らしく濃ゆい情景描写をガッツリ入れた文体で、戯曲はうってかわってキャラ立ちと会話劇のシニカルな面白さを前面に押し出した脚本と、見事にそれぞれの形式で書き分けていることがわかる。本作は構造的に、これらの2つのパートで雰囲気も文体も方向性も何もかもをガラッと変える必要がある。(そうでないと上述の「矛盾」が解消されない。)その要請に対して完璧に応えている・・・・・・職人芸や・・・・・・


自分にとって本作は、「描いている内容やテーマ自体はそれほど特筆すべきものでないが、それを描くにあたって選んだ形式上の挑戦(紀行文+戯曲)の英断さとその細部にいたるまでの完成度がめちゃくちゃ高い名作」といった立ち位置か。

「人肉食を経た人間とそうでない人間の境界は本当はないんじゃないの?」というテーマは正直言って「おっそうだな」というくらいありふれた、そこそこに凡庸な題材だと思う(しかもテーマを作中で露骨に言い過ぎだ)けど、それでも実際に読んでみるとこれが超面白いし素晴らしい。これぞ文学作品!単なる思想の説明文だったらしょうもなくなってしまうような題材にどこまで価値を生み出せるか。本作はそれにきわめて高いレベルで成功している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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余談ですが、本書↑は知床のホテルのロビーに併設されていたプチ図書館みたいな本棚から偶然出会ったものです。(そこで初めてミルハウザーを知った)

つまり、「夜の姉妹団」と「ひかりごけ」、ともに知床に所縁があり、《絶対に真相を知ることのできない出来事》のまわりをのたうち回る人々を描いた作品として、この両作がじぶんの私的な読書体験のなかで数年の間をおいて結びついたのです!

こうして、前に読んだ本と思わぬところで人生が繋がる瞬間ってかけがえのないものですよね

 

 

『縛られた男』(2)「夜の天使」イルゼ・アイヒンガー

 

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こちらの記事を投稿してから数ヶ月放置していたが、アイヒンガーの気分にふとなったので1編「夜の天使」を読んだ。

 

 

 


・夜の天使

文章がヤバすぎる。アイヒンガーやっと本気出してきたか……って感じ

 

冒頭の段落がめっちゃヤバいのでまるごと引用しちゃう。要約すれば「十二月の明るい日って少ないけどたまにあるよね」というだけのことをこんな風に書き表せるなんて………… 文学ってすげぇな〜〜〜と素朴に思ってしまう

 十二月の明るい日々。それは自分自身の輝きを覗きこんでしまったためにますます明るく、その青白さにいらだちながらも、長い夜に養われるという約束のゆえに短さを受け入れる。やさしい心で自らを耐え抜くには十分に強く、十分強いがゆえに十分に弱く、穏やかだ。こういう日々は漆黒のうちから輝きだす。そうでなくてはならない。しかもそう多くはない。もし多かったら、めずらしい事がいやというほど起きるだろうし、たくさんの教会の塔の時計だって、あっさりと神御自身の目に姿を変えることだろう。だからそんな日はめずらしい。めずらしいことがめずらしいままでいるために。そして戦争から戻った人々の、吹き飛ばされて無いはずの手足がたびたび痛んだり、ずいぶん前に凍傷でなくしたはずの手に余計なものを持ちすぎたように感じるなどということがそうそう起こらないためにも。だからあの夜のこと、癒やしてくれる夜のこともあまり知られてはいない。でも、ときにはそんな日もある。南へ飛び立つのを忘れた鳥たちのような、そんな日がときにはある。それは町の上に明るい翼を広げる。空気は暖かさにゆらいで、私たちの息が白く凍てつかないうちに、もう一度それを見えなくしてくれる。そして息が凍るようになればたちまち死んでしまう。長い夕映えや赤い雲はいらないし、目に見えて血を流すわけでもない。ただ屋根から落ちていく。とたんにあたりはうす暗くなる。もし十二月に、こんな迷い鳥のような明るい日々がなかったら、かげで笑われるのもかまわずに天使を信じつづけ、他の人が犬の吠える声しか聞かない夜明けに天使の羽ばたきを聞きつける人など、おそらく一人もいなくなるだろう。 pp.93-94

これが最初の段落で、この次の段落から本格的にストーリーに入るのかっこよすぎだろ。こんな導入部を書けたら気持ちいいだろうなあ〜〜〜

 

かなりわかりにくいが、デボラ・フォーゲルほど意味不明ではなく、丹念に文字を追っていけばいちおう言わんとしていることは理解できるギリギリの散文詩的な文章。

 

「あなたたち天使を見たことがあるんですって?」このころから私は学校でからかわれるようになった。そんなことを信じるような歳じゃないとか、ちっちゃい太った天使なんてもう肩から払い落としておかなきゃだめよ、とみんなは言う。でも私は笑っただけだった。「あなたたちは寝坊なのね。」それからは私も天使たちに夢中になった。「天使なんていない」と言う人は眠りすぎだ。全世界は眠っているものの陣営で、その上を天使が飛び回っている。 pp.95-96

最後の2文が良すぎる。ここを最初読んだ時、思わず本を伏せてうずくまり、長い溜息を吐いてしまった。

 

宗教信仰的な主題を十全に理解するのは難しいけれど、姉妹関係を扱った物語としては身近に感じられてとても好き

姉の軍勢は目に見えないまま打ち負かされ、私の軍勢は目に見えるように打ち負かされた。そして私の軍勢が氷のような空虚さと敵意に満ちた地の意気盛んな様子を前に、恐怖に突き落とされて意味もなく逃走しようとしている間に、彼女の軍勢は深い森の中で傷ついて横たわっていた。その軍勢は世の初めから傷ついていたのだ。身を守るためのわずかな試みもなすことなく死を待つばかりの血まみれの軍勢、打ち負かされた天使の軍勢だった。でも逃げた足取りの捜査と忘れ去られた森の間では、何も知らない羊飼いたちが羊の群れを放ちはじめていた。 pp.101-102

 

月の光がこうこうと部屋の中に射している。とても明るいので閉っているドアが開いた窓に見え、壁は裏がえってクローゼットやベッドはそっと場所を入れかえているように思える。 p.103

明るさをこんな風に表現できるなんてまったく思いもしなかった。

比喩表現がすごいのだけれど、語り手「私」の想像力の産物として小説中に顕現しているので、単なる比喩(レトリック)として以上に存在感があって圧倒されてしまう。

 

掛け布団は床に落ちていて、姉はそれを押さえてもいない。彼女は私が毎朝冷たい床や天使に抵抗したようには抵抗しない。彼女は私を押しのけもしない。彼女は眠ることのない人が起こされたみたいにあまりにも静かで、ここにいない人だけがそうであるくらいに穏やかだった。 p.106

そしてこのあとのラスト1文で置いていかれた。どういうこと!? かなり時系列が飛んでいるのか? 上の部分で確かに姉は部屋に寝ていたんだよね? ……わからない。最後の最後にぶっこんできやがった。

 

ただ、本作を読んでやっぱり思うのは、アイヒンガーはストーリーテリングに秀でているというよりは、文章表現に卓越している作家であるということだ。話に期待してはいけない。そもそも話と呼べるほどの何かが存在し、それを理解できるとも期待してはいけない。つまりは、コルタサルなどと同じように、自分が大好きなタイプの作家だということだ。

 

 

・つづき


 

 

 

 

 

ちなみにアイヒンガー唯一の長編『より大きな希望』も取り寄せて読み始めました。まず巻末にある長めの解説を読んだらところどころ泣けた。読みにくそうだけど明らかに傑作っぽい

 


 

 

『乙女の密告』赤染晶子

 

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こちらの記事で絶賛されており、面と向かっても「じゃあ読んだほうがいいです」と言われたので図書館で読んだ(単行本のほう)。すごく良かった。日本にこんな作家がいたとは……

プロットも文章も非常に面白い。

 

バスが次のバス停に停まる。ドアが開く。バスの中の空気が変わる。凍りつく。バッハマン教授が乗ってきた。泣く子も黙る。ドイツ語学科だけではない。すべての外大生がバッハマンを恐れている。貴代は吊革を掴んだまま、白目をむく。死んだふりをする。バッハマン教授は青い目ですべての乗客にメンチを切る。背の高い金髪の頭はバスの天井にたまにごんごんとぶつかっている。 p.14

短文をたて続けに並び立てて異様な風景をドライブさせていく文章。かっこいい。真似したい。

 

翌日、みか子は七時半前に大学についた。もう、麗子様がいた。壇上に立って練習していた。マイクのスイッチも入っていた。教室にはまだ暖房が入っていない。麗子様の息は白いのに、額にはうっすらと汗をかいている。こんな早朝にどうやって、講義室に入ったのだろう。
「掃除のおばさんから鍵を強奪して、合鍵を作ってんねん」
麗子様は胸をはっている。そんなことをしてはいけない。みか子も練習を始める。壇上に立つ。昨日はあまり練習しなかった。 pp.31-32

そんなことをしてはいけない。

真顔ユーモアというか、ふざけているのに平気で次へ流していく文体がめっちゃ好き

 

みか子は後片付けをする。冷蔵庫を開ける。
「あ」
みか子は小さく声を出す。冷蔵庫の明るさに目がくらんだのだ。よくあるのだ。京都の家の中は暗い。台所はさらに暗い。こんな冬の日はなおさらだ。外はまだかろうじて明るい。家の中の暗さに気づかない。何気なく開けた冷蔵庫の中が京都の家の中では一番明るいのだ。 p.30

元記事でも引用されていたが、「何気なく開けた冷蔵庫の中が京都の家の中では一番明るいのだ。」はパンチライン過ぎて大抵のMCなら一発K.O.できる。

 

「タカヨ、やってみて」
「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」
 バッハマン教授はイントネーションを直す時、言葉の意味は無視する。言葉をただの音に変える。
「うーん、おしい。もう一回」
「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」
 貴代はやってもやっても、バッハマン教授に「違う」と言われる。やればやるほど、「全然、違う」と言われる。こんなことが二週間も続いている。貴代はこのイントネーションを一日三十回は練習するよう言われる。毎日、カセットテープに「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」を三十回録音してせっせとバッハマン教授に提出している。
「うーん。二十一回目だけできている」
 そんなことを言われても貴代には区別できない。みか子にもわからない。全部同じ「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」だ。
「タカヨ、もう一回!」
 貴代がうつむく。黙り込む。急に教室を飛び出す。
「こんなことのために生まれてきたんとちゃうわ!」
 みか子は追いかける。つい、言ってしまう。
「おぇー!」  pp.45-46

最高。文学に奇妙な文字列が出てくると無条件でテンションが上がる。諏訪哲史『アサッテの人』みたいな。

「ぱぱぱぱぱーぱぁ!」も「おぇー!」も、ドイツ語の単語の発音練習であって意味はわかるんだけど、それはそれとして字面が面白いのでニヤケちゃう

 

内容・主題について。

 

上の記事でねぎしそさんは「乙女の定義が良い」と書いているが、じぶんはむしろ、作中序盤で語られる以下の乙女の定義(「乙女」をそう定義してしまうこと、あるいは「乙女」という言葉が存在すること)の危険性じたいがこの小説の主題であって、それを批判的に乗り越えているのでは?と思う。

噂とは乙女にとって祈りのようなものなのだ。噂が真実に裏付けられているかどうかは問題ではない。ただ、信じられているかどうかが問題なのだ。信じることによってのみ、乙女は乙女でいられる。 pp.41-42

言うまでもなく、「乙女は真実(客観)よりも信仰(主観)を優先する」という言説は、「女性は理数系科目(あるいは学問全般)に向いていない」という性差別的なステイトと地続きである。だから「嫌だな〜〜こういうの!!!」と思いながら読んでいたのだが、バッハマン教授が生徒たちを「乙女の皆さん」と呼ぶことにも象徴される、その政治的な危険性そのものが、ユダヤ人とホロコーストを巡る高度に政治的な問題と結びついて回収されるのでとても良かった。つまり、上の「乙女の定義」は最終的にはこの作品自体に否定される(ためにこの物語がある)のだ(と思わなければわたしにとって本作は傑作にはなり得ない)。

 

また、「乙女」という存在をめぐる危なっかしさだけでなく、噂によって他者を形作る乙女と、「ユダヤ人」という言葉によって<他者>性を否応なく負わされるアンネ・フランクを連想ゲームで軽々と結びつけてしまう筋書きも非常に危険である。

乙女の言葉は決して真実を語らない。乙女は美しいメタファーを愛する。例えば、乙女は言うのだ。アンネ・フランクとは一本のバラである。乙女は間違っている。アンネの悲劇をたった一本のバラの身の上に起きた出来事だと思っている。たった一本のバラが美しかったとうっとりする。たった一本のバラが今はもうこの世にいないと涙を流す。乙女が愛しているのはただの一本のバラである。アンネ・フランクはバラではない。乙女は「アンネ・フランク」の本当の意味を知らない。乙女は「アンネ・フランク」という言葉さえ美しいメタファーとして使ってしまう。乙女の美しいメタファーは真実をイミテーションに変えてしまう。乙女の語るイミテーションは本物に負けないくらいきらきらと輝く。 pp.51-52

乙女はアンネ・フランクを美しいメタファーやイミテーションとして認識し扱ってしまう、という作中の言説がそのまま脚本構造にも当てはまっているのはどうなんだ?と思いながら読んでいたが、まぁそんなことはわかった上で突き抜けていくラストに降参しました。

日本を舞台にした日本語による小説で、アンネ・フランクを卑近な「乙女」と結びつけて扱うことの危険性・暴力性、そうしたものへの自覚がたしかにこの作品には内在していて、とても信頼できた。

わたしは小説に限らず、露骨なメタファーとか寓話的な作中作を使ってキャラや思想を対応付けてくる創作物があまり好きではなく(というか嫌いで)、だから本作をこうして「メタファーとして何かと何かを対応付けてしまうこと自体の欺瞞を看破している作品である」と評することは非常に都合がいい。

みか子は自分をアンネ・フランクだと思う。いや、やっぱりミープ・ヒースだと思う。いいや、むしろジルバーバウアーである、と。……そうして、そのどれもが間違っている。メタファーを成立させようという試みはことごとく挫折する。この物語が行き着く先は「名前のない」密告者である。そのぽっかりと空いた穴に自分をのぞき見て、その上でアンネ・フランクの名を血を吐いて呼ぶ。なんと完璧な結末だろう!

 

 

ただ、最後もそうだけれど、多分にドラマチック過ぎる、という批判はまだ有効かもしれないと思う。アンネの日記アンネ・フランクの生涯を忘れずにいる方法は、あのような感動的な瞬間の情動によってでしかないのか、という問題を考えてしまう。(このようになんとか批判点を見つけようと躍起になるほどに素晴らしい作品だった)

 

あとは、ユダヤ人のアイデンティティの問題など、主題を説明し過ぎな面もあるが、そこらへんを削ってしまうと後半のプロットに読者が付いていけないだろうから、まぁ仕方がないのかな。日本文学のなかでアンネ・フランクをしっかり扱う上でどうしても必要な部分ではある。

 

乙女性、少女性、秘匿性を主題とした短編として、S.ミルハウザー「夜の姉妹団」とちょうど対照的な作品だと思った。

あれが絶対に<真実>に迫れない究極の秘密であり<他者>としての少女を外部から描いたのに対して、こちらは乙女というコミュニティの内側からアイデンティティの問題として迫っている。真逆の作品を比べても仕方がないが、本作のほうが優れているとは思う。夜の姉妹団はあれで、ロマンシチズムを貫くミルハウザーのアウトプットとして誠実であり最良のものだと思うけれど。

 

 

 

 

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ポンパ!!!

 

 

「夜の姉妹団」収録

『十字架』重松清

 

 

※この記事の文章は、さきほどnoteに投稿したものと同じです。

 

 

 

 

 

 

小学校の頃から重松清が好きだった。

 

特にこの『十字架』という小説は、自分にとってかなり印象深い本だ。
これを読んでいたのは小学校を卒業する直前、6年生の終わり頃だ。単行本の出版年が2009年12月だというから、新刊で出たばかりの頃に読んでいたことになる。卒業記念として「いちばん好きな本」を小さな画用紙に書き、それを図書室の壁に貼って桜の木に見立てる、という企画があった。そこでこの本のタイトルを書いたのを今でも覚えている。実際に当時いちばん好きだった小説というわけではないが、その時ちょうど読んで衝撃を受けていた。

 

『十字架』は中学生のいじめ自殺を扱った物語である。主人公はいじめられた側でもいじめた側でもなく、いじめを傍観していた同級生のひとり──ただし、彼の遺書に「親友になってくれてありがとう」と名指しで書かれていた──だ。死んでしまったフジシュン(藤田俊介)とは確かに幼馴染で小学生の頃は仲が良かったものの、中学に入ってからはまったく関わりがなかったはずなのに、なぜ「親友」なんて……。そうして十字架を背負って生きていくしかなくなったひとりの少年の物語が回想形式で語られる。

 

派手なストーリーなどは存在せず、ひたすらに陰鬱で地味な話だ。このように、小6当時の自分も思っていた。そんな小説を、わざわざ晴れやかな卒業記念の桜の花びらに刻むのはどうなんだ──とも、当時から思っていた。同時に、小学生が「いちばん好きな本」として挙げないような作品を挙げることに、ほのかな優越感と特別感を覚えていたことまではっきりと覚えている。

 

そうして、格好をつけて「いちばん好きな本」として画用紙に書いたにも関わらず、わたしは『十字架』を最後まで読み切ってはいなかった。とにかく暗く救いのない話だったから、一気呵成に読み終えることはできず、途中でリタイアしてしまったのである。幼い頃からこういうしょうもないところは変わっていない。

 

小6の卒業シーズンということは、12歳だったはずだ。
ふと、自分にとって大切な本として挙げながらも実は最後まで読んではいない『十字架』を再読しようという気分になった。心が終わっているときには重松清を読みたくなる。わたしにとって重松清の小説はそんな存在である。
狙ったわけではないが、あの頃からちょうど12年が経っていた。

12歳の頃に読んでいた本を、12年後に読み返す。今度は最後まで。わたしは今日、そんな経験をした。

 

 

以下、付箋を貼ったところを中心に、雑多に感想を書いている。
海外文学を少しかじった今の自分は、重松清の著作に対して、決してあの頃と同じような感想は抱けない。その自分の変わり具合と、それでも変わらないものを拾い集めるようにして読んだ。

 

※以下の引用のページ数は講談社文庫版のものである。

 


ジェンダー役割の固定

重松清の作品一般にいえることではあるが、本作にも、父権的で保守的なジェンダー観・家族観がありありと見て取れる部分が多くある。(重松清は一般に、昭和末期〜平成初期の市井の大衆の暮らしと人生を大衆的な形で鮮やかに描くことに長けた作家だと見なされており(要出典)、まさにその時代を舞台にした本作において、古臭く「時代遅れ」な描写が見られることはむしろ作中年代に忠実であると評価できる節もあるのかもしれない。ここらへんはフェミニズム批評などでさんざん議論され尽くしていることだろう。ただ、とりあえずいまの自分は本作のこうした面を肯定的に捉えようとは思わない。)

フジシュンの「お母さん」と「あのひと」の、ユウへの対照的な態度
優しく慈愛に満ちた母親と、厳しく叱責する父親、という保守的な家族観

主人公にとってフジシュンの父親だけが「あのひと」と呼ばれる特別な存在となっていった(お母さんは話の中心にはいない)その非対称性が本作の核心だと思うのだが、まだそこが掴めていない。
母親には小学生の頃に家に遊びに行って何度も面識が会ったのに対して、父親はフジシュンの死後にはじめて出会った、という差異は作中でも語られており重要だとは思うが、これだけではなく、上のジェンダー的な非対称性も含めて考えなければいけないと思う。


ふたりの記者──優しく寄り添ってくれる本多さんと、「親友」を見殺しにした罪を厳しく追求する田原さん──は、主人公(たち)にとって擬似的な両親?

自殺翌日の教室や通夜で「何人かの女子はすすり泣きをしていた」という何気ない描写
男子は泣かないらしい。何気ないがゆえに克明に旧来の性役割に囚われている様があらわれている部分

 

・中川小百合さんについて

恋愛の暴力性と、自殺による加害者/被害者の転倒

好意を相手に伝えることは根本的に加害性を孕んでいる。そのうえ、いきなり電話して「誕生日おめでとう。渡したいものがあるから今から君の家を訪ねてもいいかな」と告げるのはストーカーと捉えられてもおかしくない行為だろう。この件に関して中川さんは完全に被害者といっていいだろう。
しかし、そんな加害者/被害者という構図が、加害者当人──フジシュンの自殺によって転倒する(ように思えてしまう)。
中川さんは「あのとき断っていなかったら」と後悔して罪の意識を感じる。いくら自分は悪くないのだと、むしろよりいっそう被害者なのだと客観的にはわかっていても、それでも罪悪感からは逃れられない。
自殺には、こうした「一発逆転」の作用がある。──本人が死んでいるのにこう呼んでいいのかはわからないが、少なくとも、被害者だったひとを加害者の枠組みへと強制的に引きずり込むことができる。


・回想形式について

本作は、中学2年時の同級生の自殺から始まった長い人生を、すでに大人になった主人公が、過去を振り返るかたちで物語る形式になっている。回想とは原理的に不可能な行いである。過去を正確に記述すること、物語ることはできない。「正確な過去」なんてものは存在しない。本作のナラティヴには、そうした回想の不可能性に関して多分にナイーブなところがあると感じる。

そんな僕たちのことを語ろうと思う。うろ覚えの記憶や、忘れてしまいたかった思い出は、正確にはたどれないだろう。でも正直に書きたい。  p.13

「正確にはたどれないだろう」から、せめて「正直に書」こうとしている。しかし、「正直に書く」とはどういうことか?

翌日の僕たちについて、少しくわしく書いておく。
あの日の記憶をごまかすことや飾り立てることはたやすくても、消し去ることはできない。ならば正直に書くしかない。  p.28

「正直に書く」という行為には、「ごまかし」や「飾り立て」がいっさい入り込む余地がないのだろうか?
わたしには「正直に書く」ことと、「ごまかす」こと、「飾り立てる」ことのあいだにさほど違いがあるとは思えない。記憶に正直に書いたつもりでも、その記憶じたいがすでに多くの意識されないごまかしや飾り立ての上に成立しているものではないだろうか。


重松清メタ

ひとを責める言葉にはニ種類ある、と教えてくれたのは本多さんだった。
ナイフの言葉。
十字架の言葉。  p.78

ここはこの物語を読み解くうえでも十分に重要な箇所ではあるが、この作品のタイトル『十字架』と並べて対比したかたちでの「ナイフの言葉」という表現に、重松清の読者なら誰しも、本作と同様にいじめを扱った出世作『ナイフ』を連想せずにはいられないだろう。97年の『ナイフ』から10年以上が経って、異なる角度から、異なる質感でいじめの周辺の人々の生を描こうとしたのだという作者の宣言をここに読み込んでしまう。品のない行いであり、個人的な信条としても避けたいところではあるが。

 

 

 


・宛名

僕があのひとに語りかけて、あのひとが僕に語りかける。でも、僕たちの言葉にはずっと宛名がなかった。ぽつりと漏らしたつぶやきが、頼りなげに揺れながら、漂いながら、かろうじて相手の耳に届く、そんな対話を僕たちは何年も何年もつづけてきたのだ。   p.51

そもそも「僕」が主人公として、ひとりの少年の自殺の物語に引きずり込まれたのは、彼の遺書に「僕」の名前が実名で書かれていたためである。「僕」には到底思いもしなかった<親友>という単語を紐付けされて。
そんな「宛名のある手紙」からはじまった物語の中心が、自殺したフジシュン本人から彼の父親("あのひと")へとスライドし、「宛名のない手紙」としてのやり取りに引き継がれるという点は示唆的だ。
記名性と匿名性という軸が、死と生という軸を反映するかのように寄り添って伸びてゆく。そうした印象を受ける。


・欠けた三角関係モノとしての『十字架』

12年振りに読み返すまでまったく考えもしなかったが、本作も、わたしが大好きな三角関係モノの亜種であったことに驚いている。(むしろ、三角関係好きという性質でさえも幼少期に重松清から植え付けられたものだったのか──?)
「僕」と中川小百合は、フジシュンの遺書がなければ深く付き合うことはなかった。このふたりの関係に圧倒的な存在感をもつ彼はすでにいない。彼への罪の意識によって繋がったふたり──このような、2人が惹かれ合ってしまうこと自体に罪悪感と葛藤がありふたりの間には、常にとは言わずとも、ふとした瞬間に暗い陰が入り込む。こうした恋愛関係と一言でいってしまっていいのかわからない(作中で「僕」は「共犯関係」かもしれないと述べている)結びつきが非常に性癖だと感じた。無論、いじめと自殺を扱うシリアスな作品にたいして、ギャルゲや萌えアニメに対するのと同じように「性癖」がどうこうといった語りを適用することへの後ろめたさは感じるが、こう思ってしまうことは事実である。
それに、繰り返すように、そもそもこの性癖を本作や他の重松清作品から植え付けられたとも考えられるため、これを読んで刺さって、こうした語りをもおこなってしまうのは仕方ないことなのかもしれない。わたしにとって重松清という作家はまるで陰謀論のように都合よく作用する、ということが再読していてよ〜くわかった。

 

「欠けた三角形」と「十字架」のあいだに幾何学的な連関を見出だせたら評論としてかっこいいのだろうけれど、ちょっと思いつかない。

 

本作のヒロイン(とあえて言ってしまおう)たる中川小百合さん(サユ)が自分にとって魅力的・理想的な理由のひとつとして、彼女の外見の描写がほとんどないことが挙げられると思う。テニス部のキャプテンということで(サッカー部キャプテンの主人公と同じく)スクールカースト上位であることは察せられ、容姿も決して悪くはないのだろうとは思われるが、そうした言及は(少なくとも高校生になり2人が事実上付き合い出すまでは)一切ない。彼女の外見上の魅力は「フジシュンが好きになった」という "事実" などから婉曲的に推察されるものでしかない。この回りくどさがかえって想像の中の中川さんを魅力的にする。むろん、物語が「僕」による語りである以上、彼女の容姿に言及しなかったのはフジシュンへの気遣い・後ろめたさによるものでもあるのだろう。それが良い。また、高校に進学し、毎朝同じバスに乗って仲を深めていってはじめて、彼女の伸びた黒髪(フジシュンが生きていた頃は短かった)のつややかな美しさが満を持して描写されるという構成もすばらしい。地の文での呼び名が「中川さん」から「サユ」へと変わるのも露骨だが良い。

 

フジシュンにとっては、好きな女子を<親友>に取られる──しかも自分の行為によって──のだから、いわゆるNTRになるのかもしれないが、NTRて絶望し、あるいはマゾヒスティックな快楽を覚えるような主体はもうどこにもいない。「不在のNTR」である。むしろ、罪悪感を抱いているのは寝取った男である主人公側であるのが特異な点だ。中川さん自身もまた罪悪感を抱きながら「僕」と付き合っているであろう点も見逃してはならない。しかも、ふたりは決して罪悪感だけではなく、フジシュンがきっかけではじまった関係を保持し、強固なものにすることで、フジシュンを忘れず、彼への自身の罪を忘れないという前向きな効果をも考慮に入れているだろう。でもそんなの言い訳でしかない、自分たちの関係がフジシュンの母親なんかにバレたら深く傷つけることになるだろう、でも自分たちが彼の十字架を背負って生きていくために最も適切な方法はこれだ……こうした葛藤が2人それぞれの心中で繰り返されたであろうと想像したくなる。わたしにとって理想的な三角関係であり、理想的な男女カップルのひとつだといたく感じている。


・写真と記憶の恣意性

遺影はどうやって選ぶのだろう。亡くなったひとがいちばん幸せだった頃の写真なのか、亡くなったひとのこの頃のことをいちばん覚えていてほしい、と遺族が願う写真なのだろうか。   p.241

ここで、遺影の選定における遺族の恣意性が言及されているが、これはこの回想形式の物語自体にも言えることだろう。「正直に書く」と主人公は語り、そのテクスト(手紙)自体がこの物語を構成しているが、物語とは原理的に「何を語って何を語らないか」という恣意性によって成り立つものである。
遺影だけでなく、本作では「写真」はひとつの重要なモチーフになっている。中学の卒業アルバムから彼が抹消されていることや、フジシュンの幼少期からのアルバムを彼のお母さんが押し付けるように見せてくることなど、写真に関するエピソードの存在感は大きい。
図像的な写真と、像を思うように結ばない記憶──それを騙るテキスト。これら、共通点も相違点も持つモチーフが折り重なるようにして本作は出来ている。


・親は被害者か

「お前らにとっては、たまたま同じクラスになっただけのどうでもいい存在でも、親にとっては……すべてなんだよ、取り替えが利かないんだよ、俊介の代わりはどこにもいないんだよ、その俊介を……おまえらは見殺しにしたんだ……」
p.253

物語のなかで、フジシュンの家族・両親はどこまでも被害者として描かれる。それは、主人公たちクラスメイトが書かされた「反省文」を父親がマスコミに渡したときの描写によっても逆説的に浮き彫りになっている。

裏切られた、と誰かが言った。女子の中には泣き出した子も何人かいたし、男子でもまじめな奴のほうが怒っていた。
あのひとは「被害者」だったはずなのだ。どんなに憎まれても、恨まれても、しかたない。理屈では覚悟していて、でも心のどこかでゆるしてもらいたくて、だからこそみんな、哀しくて、悔しかったのだろう。 (pp.168-169)

(※ちなみにここでも「女子が泣き出し、男子は怒る」というジェンダーステレオタイプな背景描像が見て取れる。当たり前の背景としてさらっと手癖で書いている風なのが余計にたちが悪い)

ようやく「被害者」になれた。二年三組の生徒も、親も。同じ「被害者」になってしまえば、もう負い目を感じることはない。 p.170

あくまでフジシュンとその家族に向けて書いたはずの作文を勝手にマスコミに流出させられたことで、フジシュンを見殺しにした加害者だった彼らはようやく被害者になれたという。"あのひとは「被害者」だったはずなのだ。" という描写が前提としているのは、フジシュンの父親は、こんなことをしなければ絶対的に被害者であった、という価値観である。
小学生の頃にこれを読んでいた自分もまた、「子供を学校のいじめで喪った可哀想な親たち」は100%被害者であるということを疑うことすらしなかっただろう。──あの頃の自分はまだ、反出生主義も知らなかった。
べつに反出生主義を持ち出さなくとも、そもそも親が子供をつくり育てることは、子供への加害行為である。どんなに優しく大切に恵まれた環境で育てても、その加害性が拭い去られることはない。もちろんいじめの主犯や見殺しにしたクラスメイト・教師たちも悪いが、近くにいながら子供の苦痛に気付けず見殺しにしていたのは家族だって同様だろう。
思うに、重松清の小説には、こうした親の子への加害性へのまなざしがいっさい存在しない。思春期の子供が親を鬱陶しく思う話や、子育てに失敗したと後悔する話はたくさん書いている(後の『ゼツメツ少年』でも、本作と同じく子供を自殺で亡くした親の無念が扱われている)が、親になること自体は肯定的にしか描かれていない。少なくともわたしが読んで覚えている限りでは。

彼の著作に決定的な影響を受け続けているひとりの読者として、重松清に反出生主義を題材にした物語を書いてほしいと思う。しかしながら、おそらく、上のような彼の思想性から考えればいちばん遠く相性が悪いテーマであることは間違いないので、仮に書いたとしても、川上未映子『夏物語』よりもさらに記号的な人物造形と筋書きになるだろうとは思う。

 

保護者とは加害者でもある、という観点で親の被害者性のみに立脚した語りを批判したが、のこされたフジシュンの家族として2歳下の弟(健介くん)をも配置しているところはうまいと思う。親は100%被害者面ではいられないと考えるが、さすがに兄を亡くした弟に対して加害者でもあると指摘することはできない。むろん、完全な被害者であることはあり得ないが、限りなくそれに近い存在である彼に、主人公を常に敵対視して冷たくあしらう立ち振舞いをさせるのは理にかなっている。父親たる「あのひと」が主人公に対して、掴みどころがなく不気味に揺れ続ける存在として描かれているのと好対照である。


また、この「上の兄弟を亡くした弟」という人物像からは、アニメ『あの花』のめんまの弟を連想する。両親の描写も結構似ている──母親は特に。

わたしが『あの花』から深夜アニメにハマったのも、小学時代に重松清を読んでいた影響が大きいのかもしれない。(それどころか、『あの花』に出会った高3当時も、未来と自分自身に絶望した傷を舐め、ノスタルジーという殻にこもるように、久し振りに重松清の著作を読みふけっていたことを思い出した。『ポニーテール』『一人っ子同盟』などをこの時期に読んでいた。)


・ジャーナリズムの暴力性

これはわたしにとって大切な物語であるが、田原さんの存在はかなり受け入れがたい。端的にいって、なぜこの人はそんなに偉そうに、惨事を見殺しにした人を追及し続けるのか? あなたが取材と称してやっていることも、他者の問題に安全圏からほとほどの距離を保って首を突っ込んで溜飲を下げている、同じくらいグロテスクな行為じゃないのか。重松清は確か作家になる前は記者かライターだったと思うけど、ジャーナリズムの暴力性に無自覚なのはちょっと理解できない。むしろ、いっさいの自覚なしに取材をする田原という人物を描き出すことによってそれを浮かび上がらせているつもりなのか? いずれにしろ、主人公も、反発しつつも最終的にいい感じの関係を築いているため、そうした手法だとも思えない。
これだけ攻撃的なのだから、さぞかし自身のトラウマがあるのだろうとは思っていたが、それもあくまで取材先での出来事であり、ある意味では部外者としての立ち位置が徹底されていた。自分の大切な人が見殺しにされた恨みで……みたいなお仕着せの過去を設定されても萎えるだけなので良かったのかもしれない。
もちろん本多さんだって、めちゃくちゃ優しくていい人だとは思うけれど、ジャーナリズムで身を立てている以上、逃れられない構造はある。

 

・伏線回収

「隣には、俊介がいたんだ。二人並んでるのを、健介が撮った。ウチのと俊介が二人だけで写ってる写真、それが最後だったんだ」
結局、その頃の幸せを超えることがないまま、お母さんの人生は終わった。 p.372

ここめっちゃアツい。"遺影はどうやって選ぶのだろう。亡くなったひとがいちばん幸せだった頃の写真なのか、亡くなったひとのこの頃のことをいちばん覚えていてほしい、と遺族が願う写真なのだろうか。" への100ページ越しのアンサー。遺影を選ぶのは遺族(他人)だけでなく、生前に自ら選ぶことができる。これによって後者の解釈が消えて、前者──「亡くなったひとがいちばん幸せだった頃の写真」という解釈が自然に採用される。とはいえ、自分で選んだからこそ、「その頃の幸せを超えることがな」かったのだという哀しい結論へとたどり着かざるをえない、その妙を噛み締めている。

 

 

・読み終えて

「正直に書く」ことを目指して語ってきた物語が、最後の最後で「想像」に羽ばたくのは非常にエモーショナルだし、終わりの見えない十字架を背負った歩み、という作品テーマを鑑みても、はっきりリアリズムで終わらせるよりも適していると思う。


小学生の頃に読みかけていた頃は、あくまで話の中心は死んでしまったフジシュンと、彼に<親友>と書き残された「僕」ふたりの関係だと認識していたが、今回はじめて最後まで読んでみて、むしろ彼の父親「あのひと」との名状しがたい関係を書きたいがための物語なのだと知ってびっくりした。いくら記憶を介して参入できるとはいえ、基本的には死者は物語のなかで生者と関係を持ち更新することは許されず、生き残ってしまった者同士の関係を描くことに注力したのは死者に対しても真摯な態度だと思う。


今回12年越しに『十字架』を読んでみて思ったのは、じぶんがいかにこの本から、そして重松清から影響を受けているか、ということであった。大活躍するヒーローや、ふたりが想い合うことを全肯定するラブコメや、世間を妬み自己を卑下するルサンチマンの物語があまり好きではなく、加害者性と被害者性のはざまで懊悩したり、相手と結ばれてしまうことへの恐れ・躊躇が根底にあったりする物語が好みになったのは、多分に重松清の影響だろう。それが、現在でも深夜アニメや漫画やギャルゲといったオタクコンテンツの好みにまで深く広く根を下ろしている。

 

「子供をつくって親になること」を、人が生きていくなかで当たり前に経験すべき通過儀礼のように描く筆致にはほとほと嫌気がさすが、そうした保守的/人道主義的な面も含めて、自分のいちばん深いところに確かに根付いているのだと認識した。こうした十字架をも背負って死ぬまで生きていくしかない。

 

また、そうした好みや保守主義, 人道主義だけでなく、文体そのものも非常に影響を受けていると思った。重松清村上春樹のように特徴的な文体ではなく、むしろ非常にシンプルかつスタンダードでわかりやすい文章を書く作家だが、両義性・わからなさをそのまま提示したり、一度言ったことを「むしろ」「いや」「それとも」といった接続詞で繋いで言い淀み、予防線を貼ったり、もう一歩深く考え直す──といった特徴があるとわたしは認識しており、それがこうして自分の書く文章にも影響していると思われる。

 

当時のような衝撃はないが、幻滅するようなことはなく、むしろ今だからわかる面白さと、数多くの難点とを、ともに感じ入りながら読むことができた。またいつか再読します。あとストックホルムの『森の墓地』という行きたい場所ができてしまった。