『鏡の中は日曜日』殊能将之(2001)

鏡の中は日曜日

 

初・殊能将之  『ハサミ男』より先にこっちを読んでしまった

わたしはミステリ読みではないので、この作家の名前を初めて見たのはギャディス『JR』が邦訳されたときの売り文句──ミステリ作家・殊能将之も熱讃した、世界文学史上の超弩級最高傑作×爆笑必至の金融ブラックコメディがついに奇跡的邦訳!!──であり、なんか海外文学もめっちゃ読んでるゴツい国内ミステリ作家がいるらしい、としか認知していなかった。メフィスト賞作家だというのは後で知った。


 

※ 注意! すべてのネタバレをします ※

 


2024/2/14〜22(計8日間)

 

鏡の中は日曜日

 

第一章 鏡の中は日曜日

2/14(水) ~p.47
「子供かえり」した痴呆症の成人男性「ぼく」の一人称語り。フォークナー『響きと怒り』第一章みたいな。ベンジーよりはだいぶ明瞭な認識と表現だが。なのでほぼ一文ごとに改行する、平易な文章。

 暑さや冷たさに特に敏感? 山々からの低く鳴るうなりのような音は?
その世話をする「ユキ」は妻? 「ぼく」が恐る「お父さん」とはユキの父親なのか。
太字でたびたび挿入されるのは、「ぼく」の記憶の中の人々の声?
鏡の中の自分と話す。
14年前の殺人事件が子供かえりのきっかけ?


2/15(木) p.48〜150
第一章おわり
「ぼく」はアルツハイマー病だった。「父さん」はやはりユキの父であり「ぼく」と血は繋がっていないらしい。
14年前のこの家で起きた野村さんの殺人事件を調査するために訪問を繰り返していた名探偵:石動戯作(いするぎ ぎさく)を、「ぼく」は花瓶で殴殺してしまう。ユキを守ろうとして。
本格ミステリになりうる謎めいた殺人事件の対極を、まず序章に置く構成。犯人は語り手、動機も犯行内容もすべて詳らかになっており、本人も死に際に罪を認めている。まったく推理の余地がない殺人事件。
本編での名探偵が殺されるところで一章が終わる。彼の生前の話しが本編としてこれから語られる、風変わりな構成。

 

第二章 夢の中は眠っている

事件が起こった梵貝荘(ぼんばいそう)の火曜会を描く1987年の「過去」篇と、石動戯作が殺されるひと月前、梵唄荘事件の再調査を依頼される2001年を描く「現在」篇が交互に並ぶ構成。どちらも三人称。
はからずも、十数年前に起きた殺人事件の謎を現在時制と過去時制の2つを並行させて追う物語構成は、今やってるエロゲ『アカルイミライ』と同じだ……

一章のぼくは名探偵の水城優臣っぽいな。
鮎野の推理小説シリーズはすべて現実にあった事件を元にしているってマジ? メタフィクション的な感じか。

p.150まで。
どうやら「過去」パートは鮎野の小説『梵貝荘事件』のものらしい? なぜなら、「過去」では彼らの大学名がK✳︎✳︎大学とぼかされていたが、「現実」ではふつうに京大卒と明言しているから。つまり、「過去」と「現在」に登場する同名の人物でも、前者は鮎野の手によって脚色されており、人物像やその他の事実関係が食い違うことが予想される。入り組んできたぞ〜〜


1/16(金) p.151〜198
過去篇=鮎野の小説と、現在篇での細かな描写の違いが重要になってきたらダルいな…

昨日読んだ内容もおぼろげなので、アルツハイマー症の「ぼく」は読者のメタファーかもしれない

あ、ふつうに梵貝荘の家主の瑞門さんだったか。老翁。石動を花瓶で殴れるほどの体格と体力はあるのか?
ユキも妻ではないのだろう。父さんは長男かな。

鮎野先生が石動の事務所を訪ねてきた。


2/18(日) p.199~269
小説に書かれた梵貝荘事件の真相は別にある? それを名探偵の水城も作家の鮎野もうすうす気付いているからこそ、探偵を引退したり、連載を完結させずに再調査への圧力をかけたりしている?

 名探偵が推理を披露し、犯人がみごと逮捕された時点で、小説は終わる。だが、現実には、その後も人生はつづくのだ。犯人の人生も、事件関係者の人生も、そして名探偵の人生も……。 p.226

「事件」(本格ミステリ)のあとも続くそれぞれの人生、というアンチミステリ的テーマ

 

 探偵としての石動は、犯人の人間像にはまったく興味がなかった。事件捜査を通じて石動が見いだしたいのは、人間性を捨象したときにあらわれる、ある種の構造だった。
 石動は、坂口安吾『不連続殺人事件』の一節を思い出した。
「彼の人間観察は犯罪心理という低い線で停止して、その線から先の無限の迷路へさまようことがないように、組み立てられているらしい。……だから奴には文学は書けない」
 語り手が探偵役の巨勢博士を評した言葉。そのとおり、と石動は認めた。犯人は文学的だが、探偵はいつも非文学的だ。だが、非文学的だからこそ見えるものがある。水城優臣チェスタトンの名言を逆転させたとおり、「探偵は創造的な批評家だが、犯人はたんなる芸術家にすぎない」のだ……。 p.227

マラルメの詩とツェランの詩の比較  韻文詩の形式美と、散文詩のイマージュ
それらが、本格ミステリとそうでないミステリ及び(純)文学の違いへのアナロジーになっている? 坂口安吾『不連続殺人事件』読みたい 

館モノ×スリーピング・マーダー×メタフィクション という、およそ本格ミステリらしからぬ建て付けで、何をやろうとしている??

今んとこ、田嶋らの過去編(小説内小説)よりも石動を主人公とした現在篇のほうがおもしろい。


2/19(月) p.270〜406
梵貝荘事件のハウダニット、回廊の間取りを使った物理トリックは、本のはじめに付いている間取り図の正確な読み方がわからず、玄関や勝手口あたりの階段がどうなってるのかイマイチ理解できていなかったため、話半分になってしまった。

マラルメの詩のようにフランス語の脚韻を踏むために犯した殺人、というホワイダニットは結構おもしろいと思うが、まぁ要するに見立て殺人の一種だと思えばそんなに奇抜でも革新的でもないか。

これで鮎野の『梵貝荘事件』パートは終わった。他のパートをあいだに挟んだりしてかさ増ししているだけで、実はめっちゃあっさりしてるんだよな、事件も推理も。
最後の、田嶋と智子のクッソ雑なカップル成立ハッピーエンド草

 


第三章 口は真実を語る

えっ!? 石動生きてるの!?!?
1章の「子供返り」した人物はやっぱり瑞門ではなかったらしい。そりゃあ体格的に老人があんなことできんわなぁ
ってことは当初の予想通りあいつは名探偵の水城なのか。若年性アスペルガー
あの舞台は、鎌倉の梵貝荘だと見せかけて、金沢の日本家屋だった!
えっ!?!? 水城は女性だった???? さらにひっくり返されたぞ

 

おわり!!
なるほど~~ 終盤のどんでん返しの畳み掛けには驚いたが、うーむ…………これ、面白いか? まぁ巧いとは思えど、それ以上の魅力や凄みを今の自分では本作から引き出せない…………。

水城優臣は実在せず、水城優姫という名探偵から鮎野が「女」を取って性別だけ改変したキャラクターだった。それ以外の『梵貝荘事件』中の人物は現実と一致していたために、水城優臣もそのまんま実在するとミスリードされていた、ということ。(これが、鎌倉の梵貝荘と金沢の水城邸のミスリードと重ね合わされている。)

そもそも、鮎野が作家として名探偵水城優臣シリーズを執筆し始めたのは、実際の梵貝荘での殺人事件後に水城優姫が瑞門の次男:誠伸とくっついたことで優姫が「名探偵」ではなく「女」になってしまったと鮎野が勝手にショックを受けたからだった。つまり、水城優姫が名探偵を「引退」してから、名探偵:水城優臣が生まれていた。無意識に、ひとつひとつの殺人事件が起こるごとにそれを元にした小説を書いていたのだと思いこんでしまう読者の心理をうまく突いている。

性別反転トリック自体はしょうもないが、いろんなどんでん返しとの合わせ技で使っているのでまぁ上手いし、女性名探偵というのはフェミニズム的にやや面白い。鮎野はあからさまにミソジニーを内面化しており、「女」であることと「名探偵」であることは両立しないと信じている性差別主義者である。「男」は有徴化されずに「名探偵」と両立するのが "自然" だという男性中心主義。名探偵(や犯人)そのものではなく、それらを見出してラベリングして創造する "推理作家" の暴力性、キモさ、しょうもなさに焦点が当てられて終わる構成。

ただ、梵貝荘での事件があった一泊二日で、水城優姫が瑞門誠伸に惚れて恋愛関係が始まっていた、という陳腐なロマンスが核心にあったことにどうも肩透かしというかしょうもなさを覚える。『密閉教室』とかもそうだったけど、けっきょく「本格ミステリ」と言われるものって、ホワイダニットやどんでん返し・トリックの辻褄合わせのために、こうした恋愛痴話をしれっと持ち出してきてなんとか誤魔化そうとするものが多いのだろうか。まさにラストシーンでのヴァン・ダインの二十則についての石動と水城優姫の会話のように、「実際には、恋愛を盛り込んだ本格ミステリは数多くあります」p.403 ということへの目配せのつもりなのか。

いや、自分は本格ミステリの「教条主義者」ではまったくないので、恋愛要素自体はむしろ大好物なんだけど、なにが引っかかるんだろう。しょうもない恋愛痴話や痴情のもつれのような昼ドラは大好きだ。しかし、本作などは、あくまでミステリとしての意外なトリックの面白さやどんでん返しを成立させるために、そういう恋愛痴話を道具として用いているように思え、そこが自分は気に入らないのかな。恋愛のための恋愛ならば、しょうもなければしょうもないほどに好きだ。『WHITE ALBUM2』とか……。恋愛をミステリの手段にするな! 目的にせよ!!

……そうなると、エロゲとかラブコメとかになるんだろう。何度も持ち出して悪いが、やっぱり個人的に最高のどんでん返しは『パルフェ』だなぁという気持ちを新たにする。どんでん返しのための恋愛ではなく、恋愛のためのどんでん返し。人間関係の、人の感情のためのそれ。

あと、女性名探偵要素がフェミニズム的にやや興味深いといったが、しかし非常にヘテロノーマティブな前提のもとで駆動している物語ではある。なぜ名探偵:水城は現場からもっとも近い部屋を寝室としていた古田川智子を犯人だと疑わなかったのか。それは水城も女性なので古田川と同じ部屋に寝ていたからである! うおおおおお!! ・・・石動パートで丁寧にひとりひとりの関係者に会って梵貝荘での部屋割りを確認していたこと、そして書庫が2つあったことはそのための伏線かつブラフだったということか! …………やっぱり性別反転トリックは今の時代はかなり成立しにくいと思う…………2000年代初頭だったからセーフだったということね。

で、けっきょくマラルメパウル・ツェランからの執拗な引用や言及はどういう意味があったのだろうか。そこらへんの詩論と、最終的に明らかになったミステリとしての全貌をうまく絡めて解釈できれば傑作たりえるのだろうけれど、残念ながら自分には力及ばず。単なる衒学趣味以上のものだとは思えない……。

「名探偵」であること、その価値を否定し、若くしてアスペルガー症で子供返りしてしまった愛する夫の介護生活に生きる意味を見出す水城優姫の姿は、アンチミステリっぽく安易に読むことはできる。

「鮎井は手記のなかで『ぼくが崇拝していたのは彼女の知性と才能であって、彼女の性や美貌ではない』と書いていたね。要するに、ここにしか興味がないってことだ」
 優姫は自分のこめかみを人差し指で叩いてみせた。
「でも、人間はここだけじゃないよ……」
 手のひらが胸と腹と下腹部を順番に押さえ、
「ここも、ここも、ここも人間なんだ。彼はまだ生きてる。手を握ると、まだ温かい。それでいいじゃない」 p.401

こことか、すげぇ良いシーンみたいな雰囲気で書いているけれど、どうも薄っぺらいな、としか受け取れない。この程度で「人間」を、「人生」を描いているといえるのか? 恋愛や夫婦関係といった規範的な「愛情」の表面をなぞることが「人間を描く」ということなのか? それはそれで非常に既存の支配的な記号・クリシェに依存して再生産しているに過ぎないと思う。

瑞門はマラルメを究極の形式美を追求した孤高の詩人・芸術家だと見做していたけれど、ファッション誌『最新流行』の刊行など、世俗的なものごとへの興味関心も強かった市井の人間としてのマラルメ像が提示され始めている、というような話があった。おそらくそのあたりが水城優臣の造形にも対応しているのだろうけれど、肝心の、そうして結論として提示された「人間を描く」ということの答えとなる描写が、このようなものだというのが…………

最終章では、金沢や兼六園の情景の描写がやけに多かったのも、非ミステリ的=文学的なものだというつもりなのかな。それとも、第二章で石動が言っていたように「非文学的だからこそ見えるものがある」と示すために、あえて薄っぺらいミステリの形式を採っているのだと自己弁護するかんじなのかな。 どちらにせよ大したものだとは思えない。

てか、結局、梵貝荘で野波を殺した犯人は使用人の倉多で、水城が推理した通り、瑞門円への思慕ゆえに狂って、フランス語の脚韻をキめるための犯行だったということで合っていたのか。そこが文学的な面白さのピークだったかもしんないな。『密閉教室』では担任教師の人文推理パートがいちばん印象に残っているのと同じように。けっきょく自分はそういうのが好きなんだろうな。ロジックやトリック、どんでん返しの面白さよりも、人物の切実だったりエキセントリックな言動の迫力や文章の凄み、面白さを重視してしまう。その点、本作の文章ではほぼまったく感心するところが無かった。引用した『不連続殺人事件』の文章がいちばん良かった、というのがそれを端的に表している。(ただ、そういうところも、「いや、非文学的な、ツェランではなくマラルメの形式美オマージュだから……」などと言い訳していそうなのがムカつく。(勝手に深読みして勝手にムカついているの図))

 

樒/榁

2/20(火) p.406~461
樒(しきみ)

2/21(水) p.462~512

榁(むろ)

2/22(木) p.512〜564

読み終えた! 鏡の中は日曜日よりおもろくて草

『樒/榁』は『鏡の中は日曜日』の続編というかおまけ短編的な後日談であり、それでいて、「樒」が鮎野の書いた水城を主人公とした小説、「榁」が石動戯作を主人公とした話ということで、『鏡の中~』第二章の構造をそのまま引き継いでもいる。

「樒」は、夜に天狗塚の上に天狗らしき人影が現れたという謎と、旅館での密室変死事件の謎を置いて、後者の真相じたいはそんなに面白くないのだが、オチで前者がまったく別の出来事として回収され、しかも(『鏡の中~』を読んでいたら知っている)名探偵・水城のジェンダーの真相を踏まえて一層味わい深くなる、という構成がそこそこ良かった。

「榁」では、そんな前作の真犯人?のモブがなんと石動戯作だった、という後付け感と遊び心溢れる設定からスタートして、(『鏡の中〜』のミスリードとは違い、今度は)ちゃんと同じ館で十数年越しに起こる、今度は人が死んでもいない密室事件をサクッとホワイダニット中心に解決する。

やっぱ石動戯作のキャラが好きだな。軽薄でしょうもない感じが。名探偵でありながら3枚目みたいなコメディリリーフのキャラ。大オチが喜劇的というか、それこそ女の怨みは怖い…という落語的なのもいい。作中では明かされていないけど、旅館の女将である綾子さんは、16年前に露天風呂覗きの首謀者が石動であることを何らかの形で知っていたから、めちゃくちゃ辛辣に接し続けたということでいいんだよね? 夫(ジロちゃん)にもそれで尻に敷いてるのかな。

樒の前半の、崇徳院の蘊蓄パートの必要性が分からなかったが、おおオチで落語として親父ギャグ的に回収されたのを見て良い意味でずっこけた。

『樒/榁』は総じて、『かがみの中は日曜日』自体のパロディになっているというか、良い具合に反復して絡ませて茶化しているのがうまいと思った。もちろん、露天風呂覗きという性犯罪を「ネタ」として軽薄に用いている点は明確に差別的であるし、そういう要素のある石動戯作という男性名探偵キャラを「軽薄でしょうもない感じが好き」と(感じるのみならず)言ってしまう私自身が性加害的ではある。

 

 

 

 

 

 

 

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『成瀬は信じた道をゆく』宮島未奈(2024)

 

 

 

 

家に泊まりにきた親に「私の滞在中に読んで感想聞かせて」と手渡されたので、読んだ。大ヒットしている「成瀬」シリーズの第一作『成瀬は天下を取りにいく』を読んでいないのに、いきなり続編から読んで大丈夫なの?と言い張ったが、「いいから読んで」と押しに負けた。まぁそんなに支障は無かった。

 

前作が成瀬にフォーカスを当てた物語だった(おそらく)のに対して、今作はファンディスク的な続編だと思った。成瀬の周囲の人々を語り手に据えて、いかに成瀬から好影響を受けるかを描く。

 

終始、成瀬上げというか成瀬SUGEE展開が続く作品なので、話の構成が一辺倒になりがち……かと思えばそんなこともなく、作者の技量がうかがえる。3章のクレーマーの人(呉間さん)とか中々すごい塩梅の人物造形だと思う。

 

web小説の「なろう系」が一般文芸にうまくアジャストした作品として見なせるのかもしれないが、まぁ文学史的に、こういう「異常で超人的な主人公が特に障害にぶつかることも苦悩することもなく自由に活躍していく話」というのは、換言すれば「英雄譚」なのであって、古代ギリシア文学らへんから連綿と続くものなのかもしれない。

(ただ、女性主人公である点を取って、リベラルな風潮の社会反映論的に解釈することも安直にできそうではある。とはいえ、女性主人公モノに限ってもやはり歴史的にいくらでも前例を辿って遡れるだろう。)


オタク的には、島崎を視点とした巨大感情焼きもち幼馴染百合モノとしておいしく”消費”できはする。うん。


Twitterを、何の留保もなく「X」と書く小説は初めて読んだので、ちょっと感慨深かった。(作中年代は少し未来の2025年とかの設定なので、たしかにその頃には馴染んでいるのだろう)

あと「代理エゴサーチ」という言い方は真似したい。

 

 

 

 

 

 

 

『秋期限定栗きんとん事件』米澤穂信(2009)

 

秋期限定栗きんとん事件』上下巻

2024/2/2~9(6日間)

 

※ 諸々のネタバレし放題なのでご注意ください。

 

 

 

・前回までのあらすじ

 破局サイコ―――!!!!!!!

 

 

上巻

 

2/2(金)

第一章 おもいがけない秋

シリーズで初めて、小鳩くん以外の人物による一人称のパートがある。新聞部1年の熱血男子、瓜野高彦くん。この子と小鳩くんで代わる代わる語り手をやっていく構成なのかな。

小鳩くんあいかわらず探偵やりたくてうずうずしてて草 ほんと君ってやつぁ……

名前も知らないクラスメイトの女子(仲丸十季子さん)から告られて付き合い始めた小鳩くん。わろた。これは小佐内さんとの不倫まったなし!!! やっぱりな! 最初っからそうだと思ってたぜ!!
小市民の互恵関係は認めないけど不倫関係なら許すよ!

第1巻ですでに不倫の匂いをかぎとっていたってコト……?

完全に一致



 

うおおおおおお!!!!
一方で小佐内さんは瓜野くんと付き合い始めた!!!!! 両NTRだ!!
うれしい・・・ひたすらにうれし〜〜〜 興奮がおさまらない…… こんなにも性癖に合っているなんて……

古典部シリーズも、アニメ化部分の先で千反田さんと折木くんが疎遠になってそれぞれ別のひとと親密に付き合い始めたりしてるのかな……そうだったら今すぐ『氷菓』から読み始めますが。(でもこの小市民シリーズもそうだけど、まったくそういう話だと知らないで読み進めて知るのがいっちばん嬉しいんだよな。)

ひとつ歳下の男の子と付き合う小佐内さん良すぎる。。。 こういうラノベのヒロインNTR妄想ってだいたい歳上の男と〜だけど、後輩男子いいっすね……天才の采配としか言いようがない。

これ、両浮気・不倫展開になるのかな。それとも、それぞれに恋人を作ってみたけどやっぱり小市民の互恵関係がいちばん!と元鞘に収まってしまうのかな。お願いだからそれだけは勘弁してくれ。双方が恋人をもったまま、再びつるむようになるのならば背徳感があるのでOKです。

 


第二章 あたたかな冬

学内新聞を改革したい瓜野くんを「応援」するために小佐内さんがなんらかの謀略を遂行した?

いっぽう仲丸さん&小鳩くんカップルはベタに高校生の慎ましくも幸福な交際を楽しんでいる。小鳩くんがふつうに恋愛をしているのを見るとすげぇ嬉しいんだけど、これはおそらく「ざまぁみやがれ!これでお前の凡庸さは証明されたなぁ!」という類の後ろ昏い愉悦だと思う。

そんな小鳩くん側の休日デートにて、今作初の明確な推理パート。隣町のショッピングモールへの満員の路線バスにて、彼女に空席を贈るために次に降りる客を観察によって推論する。

こういうの好き。めっちゃしょうもなくてこじんまりとした些細な推理。事件にもならない、謎解きですらない洞察ゲームを日常風景のなかで見出して没入する。春期のおいしいココア、夏期のシャルロットの系譜。

推論を完了する頃には、当初の目的(彼女のため)を忘れ、推理そのものに夢中になっていた小鳩くん。小佐内さんと離れても、相変わらず謎解きジャンキーではある。

 

推論中に幾度も、仲丸さんはいま自分が考えていることをわかってくれるかな、そんなわけないよね……という思考も巡らせている。これはつまり、小鳩くんが自分の才能の発露を愛しの彼女に自慢したい、見せびらかしたいという(探偵のエゴというよりも彼氏の可愛げが垣間見える)欲求を示していると同時に、しかし探偵狂としての自己をこのひとは絶対に理解してくれることはないだろう、という傲慢な切り捨て/線引きをも窺わせる。まるで仲丸さんと自分は本質的に住む世界が違うとでもいうように。自分と同じ側の世界にいて、自分の本当の姿を理解してくれるのは──小佐内ゆきただ一人だとでもいうように。(えっ堂島健吾って誰?)

 

ここまで考えてから振り返ると、先ほどの小佐内さん&瓜野くんパートでもまったく同様に、瓜野くんという新しい交際相手をかわいい「無能/無知な」後輩として位置付けているかのようだった。

覚悟と熱意だけあって肝心なことは何も成し遂げられない一介の高校1年生男子。

 

すなわち、小鳩くんと小佐内さんそれぞれにしれっと出来た恋人は、どちらも無知で凡庸な、ミステリの世界で活躍することなど考えられないモブキャラ──すなわち真の意味での〈小市民〉であることを示唆している。そういう2対2のコントラストを強調する構図を作って、小鳩くんと小佐内さんの特別性を高める方向に物語が進んでいきそうで、けっこう不安だ。なぜなら、せっかく凡人の地位に甘んじてくれている小鳩くん達が、ふたたびその座を打ち捨てることが容易に予期されるから。

 


2/3(土)

2章おわり

瓜野くんの、とにかく自分が良い記事を書いて名を残したい、という思いのもとに放火事件を嬉々として追いかけ、あまつさえ犯罪の発生を心待ちにするようなスタンスにはヒヤヒヤするなぁ。小鳩くんのやれやれ系のウザさとはまた違った、世間知らずでエゴイスティックな若者の危なっかしさ。

小鳩くん(名探偵)は事件に出会って嬉々として推理をするけれどそれを第三者に披露することはあまり乗り気でない場合も多い。たほうジャーナリストの瓜野くんは、まずなるべく大きな事件があってほしいと願い、それを取材して新聞の形で大衆に自分の功績を流布するために動いている。

 


2/5(月) 〜p.190

第三章 とまどう春

「何も殺さずに食べられるから。牛を殺さなくても、ミルクは搾れる。鶏を殺さなくても、卵は採れるの」 p.167

彼氏にスイーツが好きな理由を訊かれての小佐内さんの「冗談」  さすがにテンション上がっちゃったよね。『春期~』の「小市民(プチ・ブル)」を彷彿とさせる、そんなわけがない言ったもん勝ちの小賢しいレトリックなんだけど。

 

「心配いらないって! 小鳩ちゃんのことそんなふうに見てたのは、あたしぐらいだから。むしろ『小鳩って面白くない?」って訊いたら、みんな『普通でしょ』って言ってたよ」 p.181

仲丸さんおもろい人だな〜〜!!
そんな仲丸さんに対して小鳩くんが「ここは敢えて適切な応答を避けて分からないと答えよう」などと考えているのマジできつい。健常者エミュレータではしゃいでそう。


2/6(火) p.190〜243

上巻おわり。

秋から春への半年間。瓜野くんが連続放火事件のコラムで成果を認められて新聞部部長になり、小佐内さんにキスを迫るも紙一重(物理)で拒まれる。小鳩くんは唐突に出来た彼女の名前を半年経っても覚えておらず、挙げ句にその彼女:仲丸さんは三股をかけている酷い人であると情報通から暴露される。放火事件に小佐内さんが関係している可能性を鑑みて小鳩くんは調査を開始する。

小佐内さんの暗躍を小鳩くんが追ういつもの構図。

着々と、小市民コンビの予定調和の再結成までの道のりが舗装されつつある。あ〜あ。

仲丸さんと小佐内さん、詳細は違えどふたりとも「彼氏」を体よく利用している「悪女」ということになってしまったら、それはそれで酷いなぁ

 

 


下巻

 

2/8(木)

第四章 うたがわしい夏

 的外れだよ。それは違う。
 仲丸さんには、一生わかってもらえないと思うけど。 p.122

きしょすぎて吐きそう

 


2/9(金)

第五章 真夏の夜

別れていたふたりの激アツの再会を、上下巻のここまで引っ張って引っ張って、ついに来たかと思ったらマジで物理的に燃え上がらせてて草

 小佐内を責め立てている。その新鮮さを奇妙な心地で味わう。小佐内とつきあうようになってから、ほとんどの場合で主導権はおれが握っていた。小佐内はケーキのことを除けば、自分から何かを主張したりしなかったからだ。
 それでも、どうも掴みきれない感じが拭いきれなかった。ずっと素直なのに最後の最後でするりと身をかわされている。そういうもどかしさがどこかにあった。
 しかし今夜、おれは小佐内を追い詰めている。そう思うと湧き上がってくる高揚感が、自分自身、意外でならなかった。 pp.166-167

瓜野くんやっぱりモラハラとか性加害の才能あると思うよ。「男らしさ」=嗜虐性 がよく表現されている。

 

 ぼくたちが小市民を名乗るのは、本来的に自意識過剰なことだ。一人だとそれが身に染みる。だけど小佐内さんと二人でいると、その痛々しさが軽くなってしまう。ぼくは小佐内さんに自分の思い上がりを許され、小佐内さんはぼくに彼女のそれを許される。互恵関係と名付けたその甘えと、それでも小市民を目指すという建前とが摩擦して、ぼくたちは一緒にいられなくなった。 p.210

『夏期~』からあいかわらず、これを言葉にするのが的確すぎる。さすが作者!(?)

 

 「小市民」とは、まわりと折り合いをつけるためのスローガン。もう二度と孤立しないための建前。ぼくは使い物になりませんから放っておいてください、という白旗。
 そんなスローガンを三年も掲げ続けて、ようやくわかった。本当に折り合いをつけたいなら、最後の瞬間にぐっと我を殺すためには、そんなものは必要ない。ぼくが白旗を振れば振るほど、内心との乖離がいやみになる。心の中で相手を馬鹿にする気持ちが、積もって腐る。
 そうじゃない。必要なのは、「小市民」の着ぐるみじゃない。
 たったひとり、わかってくれるひとがそばにいれば充分なのだ、と。 p.212

 

 

第六章 ふたたびの秋

 

読み終えた。

……面白くなかった!!! いや、つまらないというより嫌いといったほうがいいか。

よーするに、前巻で別れた小鳩くんと小佐内さんが再びつるむようになるための話であって、それ以上でもそれ以下でもない。ならば、ふたりが一緒にいてほしくない(おさこばガチアンチの)私としては、嫌いだと言わざるをえない。

 

ふたりの特別さ、有能さを演出するための踏み台として登場させられた仲丸さんと瓜野くんが可哀相……。いや、瓜野くんも相当に嫌な奴(モラハラ男になりそうな)なので、鼻をへし折られてざまぁと思わなくもないが、それが結局、小佐内さんSUGEE展開のためでしかないので……

 

仲丸さんもなぁ〜〜〜 本作のキャラのなかではいちばん好きになれるポテンシャルはあった。ただ、三股してかつそれを知った彼氏が動揺することを望むという、かなり悪どい人であったことが発覚し、それで終わりならまぁいいんだけど、そういう仲丸さんのヤバさも最終的には小鳩くんの異常性を引き立てるために使われてしまうのが本当にかなしい。男子主人公への殺意だけがみるみる膨らんでいくミステリ。

 

仲丸さんは三股したうえに嫉妬しないことを糾弾してくる性格のねじ曲がり具合。瓜野くんは功名心のためにひとり突っ走る傍若無人さ、かつ、無理やりのキス未遂という性加害。

こうして、客観的に見れば、どうかんがえても小鳩くんより仲丸さんのほうが「最低」だし、瓜野くんが小佐内さんから受けた仕打ちは正当なしっぺ返しあるいは自業自得だ────と、そうやって、小鳩くん&小佐内さんの特別さ(すごさ)だけを強調して肝心なところでヘイト管理をする姿勢がまた気にくわない。

客観的な性格の悪さ、してきたことの悪さでいえば仲丸さん・瓜野くんのほうが上だけど、作中の主観的な「異常さ」では明らかに小鳩くん・小佐内さんのほうが上であるように描かれている。それが腹立つ!!!!!!!!!!

キャラ小説のメインキャラAGEの手つきとしてはものすごく上手いからこそ、そのメインキャラが嫌いな読者のひとりとしては思いっきり叫ばせてもらう。


ミステリとしてもあんま気合い入ってなかったと思う。犯人の意外性も推理の納得感もどんでん返しの面白みもない。前作が上振れしてただけか。上巻で小鳩くんが満員バス内で次にどっちの席が空くか必死に推理してたとこがピーク。

そもそも、上下二分冊というシリーズ最長編になったのだって、小鳩くんと瓜野くんというふたりの男主人公の視点を交互に並べていく形式のためであって、瓜野くんパートは最終的に小佐内さんに手酷く復讐されるための下拵えでしかないので、正直いらない。もう半分も小鳩くんパートなのでいらない。全部いらない。

 

 

中学時代、自分は特別なんだと思い上がっていたら周りから非難されたり拒絶されたりして、おとなしく〈小市民〉たろうと誓いあったふたり。(『春期』開始時点)

しかし、そんなふたりでつるんでいることで逆に平穏な〈小市民〉からは遠ざかるだけだという事実がいよいよ無視できなくなり、距離を置くことにした。(『夏期』終了時点)

それぞれに別のひとと付き合って〈小市民〉たろうとするも、かえって自らの特別さを思い知らされることになり、開き直ってふたりは元の鞘に収まった。(『秋期』終了時点)

ここまでのシリーズをまとめるとこうなるが・・・・・・・なにこれ?? 

 

前作『夏期』は、「小市民/探偵」としての小鳩くんの矛盾・傲慢さが浮き彫りになり、主人公の鼻がへし折られて終幕してくれたため、ほろ苦い挫折・別れの味を知る、王道の青春モノとして良いなぁと思えた。

しかし今作では、小鳩/小佐内の主人公ペアの特別さ、異常さ、傲慢さ──ひっくるめて〈英雄〉性とでもいおうか──がふたたび持ちあげられて終わる。

小鳩/小佐内アンチの自分としては、これはテーマとしても前作から後退しているとしか思えないのだけれど、冷静な目で見たらどうなんでしょう。

 

ややこしいのは、

A. 小鳩/小佐内のそれぞれが個別に特別である(=〈小市民〉の対極にある)こと

B. 小鳩と小佐内が〈小市民〉を目指す者同士で互恵関係のために付き合うこと

という2つの事柄があり、AとBは基本的には独立している、ということである。そして最も重要なことに、私はAとBのどちらにもムカついている。

前作『夏期』の終盤で明らかになったのは、Bの矛盾と破綻である。ムカついていたうちの片方が、作中でまさに否定されたため、とても気持ちがよかった。

しかし、Bが否定されて(=ふたりが別れて)も、A(それぞれが特別であること)は否定されたわけではない。BだけでなくAも否定されてはじめて、私は真の勝利を手にする。

そして本作『秋期』の序盤では、それぞれに恋人ができて、それなりによろしくやっている光景が描写され、Aが否定されたかにも見えた。しかしそれはブラフ、というか後の展開のための踏み台に過ぎなかった。

『秋期』では最終的に、Aの正当性をこれでもかと強調することで、互いの特別性を抑制/隠蔽するために一緒にいる(B)のではなく、
C. 互いの特別性をゆいいつ理解し合うことのできる同士で一緒にいること
を見出すに至る。

・・・・・・・・たしかにBとCは質的に決定的に異なる。異なるよ? 異なるのはわかるけど・・・・・・・・・・・・おんなじじゃん!!!!!!!!!!!!!!!! けっきょく「おさ×こば」推しってことじゃん!!!!! いや、それが小市民シリーズだってことはわかってるよ? わかってるけど・・・・・・『夏期』があぁだったから期待しちゃうじゃん!!!!!

 

というわけで、願うことはただひとつ。

 

もっかい別れろ。そして二度と近づくな。

 

(でも、こうなると正直、万が一また別れたとしても、それでまた狂喜乱舞する気にはなれねぇよな、良い様に踊らされるのが馬鹿らしいので…………)

 

 

でも、もともとの、Aの嫌いさとBの嫌いさを自分のなかでちゃんと弁別したほうがいい気がしてきた。

Bがムカつくのは、『夏期』のラストでぜんぶ言われてた通り、端的に「嘘」じゃんお前らちっとも小市民じゃねぇじゃん!!なぁにが「互恵関係」だよお前らが一緒にいると小市民からどんどん離れてくけどいいのか?? という理由からだ。そういう感情は『夏期』を読むことでだいたい昇華された。

たほうAへのムカつきは、なんなんだろう………… 小市民シリーズ特有のものではなく、名探偵が出てくるミステリ一般への苦手さ、あるいは俺TUEEE系のような、主人公(メインキャラ)が活躍して周りの凡庸さをダシにして格好つけるたぐいのヒーローもの(英雄譚)全般に対する苦手さに帰着するのではないかと思う。『オデュッセイア』も同じようなノリで好きじゃなかったし・・・・・・

 

じぶんの性癖として、(主に物語の主人公の)「挫折」「敗北」が好きで「達成」「活躍」が嫌いだというのがある。また、「ふたりだけにしか分からない閉鎖的で特別な関係」がとにかく嫌いで、そういう「特別さ」が徹底的に論駁されて破壊されて「ありふれた凡庸な関係だったと思い知らされる」のが大好きだ。

なので…… これ以上、言を弄する必要はないか。

 

そうだ。思うに、A(ふたりが特別であること)じたいは、まぁ描かれ方次第でどうにでも受け入れられるかもしれない。ただ、BだろうがCだろうが、とにかく特別であるふたりが「最強のふたり」的につるむ(ことで外部-世間を見下す)のが、いち小市民としてはルサンチマンを刺激されてか、ウザいんだよな。

読んでて思うのは、小佐内ゆきというひとは、孤高の狼としてひとりで生きていけはしないのだろうか、ということ。もちろん、作中では、中学時代のアレコレが~とか、趣味のスイーツ巡りの数合わせ要因としては~とか、いろいろと「たったひとり、わかってくれるひと」=「白馬の王子様」を必要とするワケは理屈付けられる。でも、私にはどれも本当に重要だとは思えない。復讐が大好きなやべーやつ。それならそれでいい。そういう小佐内さんのままに、特にだれとも深く恒常的につるまずに、ひとりで好きなように生きていってくれたら、そんな小佐内さんのことは好きになれると思う。

わからないんだよな。小佐内さんほどの異常者が、お仕着せの「ヒロイン」の枠に収まらないひとが、「白馬の王子様」との出会いを待ち望むなんて!!!(今気付いたけど、ここでがっつりヘテロジェンダーに固定されている点は批評的に重要だ。これが王子様じゃなくて女性になったら百合・シスターフッドものになり、クィアだったらクィアになる(とーとろ))

 

たしかに『夏期』での「怖かった」とか、『秋期』ラストの無理やりキスされかけたのに深く傷ついているという発言とか、ところどころ、小佐内さんの、ただ復讐狂なだけではない、等身大の「ふつうの女の子」らしいか弱さを意識的にチラ見せしている。それによって、単なるヤベー奴とも単なるいたいけなスイーツ狂少女とも簡単に像を結ばせない攪乱的なキャラ造形は特徴的だ。そういう、掴みどころのなさゆえに、なるほど小鳩くんという唯一の理解者を求めてしまうことにも納得させられそうになる。なるんだけど、やっぱり、自分のなかでは、小佐内さんは孤高の存在でいてほしい。小鳩くんとの関係が読者的に「おいしい」からという、ただそれだけの理由でくっついているように思ってしまう……認知が歪んでいるので。

 

あ、小鳩くんも孤高の存在でいてくれていいです、はい。

君は †特別† なんだから、好きなだけ周りの小市民を内心で馬鹿にしながら一生ひとりで生きていってください。

 

 

 

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『亡霊ふたり』詠坂雄二(2013)

 

 

 

2023/2/23〜28(計4日)

 


2/23木 〜p.56

 

2/25土 ~p.106
ヨイヨルさん主催のモクリ読書会「良い夜を読んでいる」で読み進める

 

2/27月 ~p.240

「別にそこまで心配してるわけじゃないけどな」
「はは。それツンデレ?」
 若月は穏やかに笑う。その言葉も信じられた。 p.120

「その言葉も信じられた」

 

「中学は別々だったんだな」
「もちろん。家は近かったけど、住んでるところが学区境の緩衝地帯で、進学先が二校から選べたんだ。僕が、若月さんとは違うほうを選んだんだよ」
「付き合いきれなかったからか」
「付き合いきれなかった自分を見るたび思い出すからだよ」
 中学時代は平和だった。おかげで想い出はひとつもないと糸井は続けた。 p.212

 

「……せめてもう二年ばかり精通が早かったら、違う流れもあったのかなぁ」 p.214

 

「糸井、お前はどうして動かない? ローコのことが好きなんだろう」
「それは昔の僕だ。若月さんのことが好きだった僕はもういない。なのに、昔の僕が好きだった若月さんは今もいるんだ。ひどい話だよね」 p.220

 


2/28火 ~p.306

読み終えた。

とても読み応えのある奥深い作品だなぁと感心しながら読んでいたが、終わり方が肩透かしで残念。

 

サブキャラがみんな好き。糸井はもちろん、友人ふたりも、先輩ふたりも。メインの亡霊ふたりも結構好きだったんだけど、あの終わり方ではけっきょくなんやかんやでズルズルとヘテロ相棒関係が続いてしまうと思うので、そうなると応援はできない。

 

男主人公の「高校生のうちに1人殺すことが目標」の殺人志願者設定はすげぇと思った。

「探偵志願者と殺人志願者の青春ミステリ」ときいて、無意識に、どうせ男子側が探偵志望なんだろと思っていたが、ここで最初にいい方向に裏切られ、出オチでもなく、グイグイと物語に引き込まれていった。名探偵に憧れる若月ローコは、嫌いではないけど、わりとありきたりなキャラクター造形だとは思う。やっぱり個人的には高橋のほうが面白い。彼にはぜひとも殺してほしかった・・・。

 

 

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『亡霊ふたり』を読んだ1年後にようやく『夏季限定トロピカルパフェ事件』読みました。この2作の共通点を指摘するひともいるからです。

ただ、『亡霊ふたりと比較すると、『夏期限定~』は〈小市民〉シリーズというシリーズものの2作目(「続編」)であることが決定的に重要だと思いました。1作目で提示された《シリーズ》としての(メインキャラふたりの)関係の方向性をまるごとどんでん返しでへし折ってくれたからこそ、わたしにぶっ刺さった。たほう『亡霊ふたり』は非-シリーズものの単体作品、あるいは「これからシリーズものがはじまりそうな1作目」でありながら同時に「ぜったいに続編が書かれてはいけない作品」です。

こうして整理すると、わたしにとって『夏季限定トロピカルパフェ事件』と『亡霊ふたり』はやはり対照的な作品であるように思えます。(むろん、「対照的」であることと「共通点がある」こと、「相似的」であることは排反でなく、しばしば容易に両立できます)

 

『亡霊ふたり』は、続いてはならなかったはずのふたりの関係が、それでも続く余地をもってしまったところで終わる作品。(ゆえに「作品」のかたちで続きがあってはならない)

夏期限定トロピカルパフェ事件』は、続いていくはずだったふたりの関係が、しかしいったん途絶えてしまったところで終わる作品。(ゆえに〈シリーズ〉としては続きがなければならない)

 

『夏期~』のわたしのなかでの評価は、しゃらくさいことに〈小市民〉シリーズの続編を読んでからでないと定まらない部分があります。が、とりあえず暫定では、上のような図式的整理によって『夏期~』はとても好きで、『亡霊ふたり』は惜しくもあと一歩好きになりきれなかった、ということになります。これは(初読を)読み終えた時点での評価であり、むしろ1冊を通して楽しんでいた時間が多いのは『亡霊ふたり』だったと思います。

終始かなり面白いと感心しながら読み進めてラストでこれじゃない!となった『亡霊ふたり』と、中盤後半にかけて うーん微妙……厳しいか……と顔をしかめながら読み進めてラストでうおおお最高!となった『夏季限定トロピカルパフェ事件』、やはりわたしのなかではいろんな観点でキレイに対照的というかもはや対称・鏡像関係にあるような2作品、という位置付けがかたまりつつあります。

 

 

『ドン・カズムッホ』マシャード・ジ・アシス(1899)

 

 

2023/6/28〜7/5
計:6日間

 


6/28水 p.73(17章)まで

やっぱアシスの文章くそ好きだわ〜〜
一人称でガッツリ読者に語り掛けてくる姿勢はリスペクトル『星の時』なんかにも受け継がれているのかな。
細かい言い回しがほんと良い。

 

7章「ドナ・グロリア」 お母さんについて

まだ子どもだったし、わたしは生まれないまま人生を始めてしまったのだ。 p.34

 

9章「オペラ」やばすぎ。最高

人生を、地球を、人類をオペラとして喩えるどころか神話的に説明するイタリア人元オペラ歌手のおっさんの挿話。こういう、一気にスケールがデカくなるプチ挿話は『ブラス・クーバスの死後の回想』にもあった。

 


6/29木
p.157 38章まで
ベッタベタなヘテロ幼馴染モノ… カピトゥ最高!!!

 

6/30金
p.243 61章まで

神学校へ入学した
ジョゼ・ジアス、俗物だけど良いキャラだな〜 主人公に対して敵でも味方でもある絶妙なポジション

 

7/3月
p.324 89章まで

62章「イヤーゴウの微かな兆し」

そして・・・・・・・何だというのだ? それ以外に何を交換するのかはおわかりだろう。自分で答えがみつけられなければ、もうこの章の残りも、本の残りも読む必要はない。わたしがいくら語源の各文字に至るまで述べたてても、それ以上はみつけないだろうから。だがみつけたとすれば、わたしが身震いしたあと、すぐに門を飛び出していきたいという衝動に駆られたことがおわかりだろう。  p.246

 


64章「あるアイデアとためらい」

この章を終える前に、 わたしは窓辺に行き、夢はなぜ瞬くあいだ、あるいは寝返りを打つあいだにも消えてしまうほどはかなく、 続こうとしないのかと夜に訊ねた。 夜はすぐには答えてくれなかった。夜は心地よく美しく、丘は青白く月光を浴び、空間は死んだように静まり返っていた。 わたしがしつこく訊ねると、夢はもう自分の管轄ではないと答えた。 夢がまだルキアノスがくれた島に住んでいたころならば、 夜はそこに豪邸を構え、そこからさまざまな様相を夢にとらせて送り出していたから、説明することもできただろう。だが、時代がすべてを変えてしまった。 昔の夢は引退し、近代の夢が人間の脳に住んでいる。こちらの夢は昔の夢を真似ようとするが、それは無理というものだろう。 夢の島は、愛の島や、すべての海のすべての島と同じように、いまはヨーロッパと合衆国の野望と競争心の対象となっている。 p.252


67章「罪」

涙を拭いたが、 ジョゼ・ジアスの言葉のすべてのなかでたった一語だけがわたしの心に残った。きわめて悪いという言葉だった。あとで、彼が言いたかったのはたんに悪いであったことがわかったが、最上級を使うと、口を開いている時間が長くなるたジョゼ・ジアスはその時間への愛情ゆえに、わたしの悲しみを増やしたことになる。もしこの本に同じような例をみつけたら、読者よ、第二版では修正するから教えてほしい。きわめて簡潔な考えにきわめて長い足をつけること以上に、みっともないことはない。繰り返しになるが、わたしは涙を拭い、歩きながら、いまはとにかく早く家に帰り、胸に抱いた悪しき考えを母に謝りたくてしかたなかった。 p.264

 


71章のエスコバールの顔の描写すばらしい。彼との友情と、カピトゥとの恋愛がどう絡むのか。もしや三角関係には……

エスコバールの目は、すでに述べたように、明るい色できわめて甘美だった。このような定義を与えたのはジョゼ・ジアスで、 エスコバールが帰ったあとのことだったが、もう四十年の時がたっているとはいえそのまま残そう。これに関して、食客の誇張はなかった。きれいに剃られた顔は、白くすべすべだった。額こそ少し狭く、髪の分け目が左眉のすぐ上にまで迫っていたが、他の部位とぶつかったり、その魅力を損なったりしないだけの必要な高さはつねに保っていた。なんとも人を惹きつける顔立ちで、冗談がよく飛びだす薄い唇、華奢で曲がった鼻。ときどき右肩を揺する癖があったが、あるとき神学校で仲間の一人がそれを指摘すると、癖はなくなった。 人間が細かい欠点をみごとに直せるのを見た、最初の例だった。


75章「絶望」

食客から逃げ、母の寝室へ行かないことで母からも逃げたが、わたし自身からは逃げられなかった。自分の部屋に駆けこんだが、わたしは自分のあとについて入ることになった。 わたしは自分に話しかけ、自分につきまとい、自分をベッドの上に投げ出し、自分とともに転げ回り、泣いて、こみ上げる嗚咽をシーツの裾で押さえた。  p.288

 

いや〜ほんと、アシスの文章・文体と、読者(語られ手)への距離の取り方がものすごく好みだ。世界中にこれ以上に自分に合う文学は存在しないと思えるほどに。

だから、物語とか、思想とかは二の次。そういうところではなくて、ひたすらにこの語りが心地よい。

 

7/4火 112章まで
お~ マジで結婚した

エスコバールとカピトゥが不倫してる可能性もあると思います!

反出生主義っぽかった『ブラス・クーバス』と対照的に、ものすごく出生主義だ


7/5水

おい、まさかそっちが不倫するのか…?

122章。これまで女性に対してしか使ってこなかった「被造物」という語を、ここにきて親友と自分自身にまとめて使うのすごい深い。

 

うわ~…… やっぱそうだったんかい

幼馴染の妻と、神学生時代からの親友が不倫していた……のを、親友の死後に察する男の話。

文学におけるもっとも、あるいはゆいいつ重要な主題は不倫である、というみかんさんの言が迫真性を帯びてくる。

二番目に価値のある主題は自殺である。

日本では、「ブラジルの夏目漱石」とか紹介されることの多いマシャードだけど、単にその国の近代小説の最も偉大なオリジネーターであるというだけでなく、三角関係と自殺を主題にしている点も共通しているんだな。

 

文章がすごいよう さらっと書いてるけど相当だぞこれ

 

読み終わった!!!

たしかにこれはものすごく完成度たけぇよ…… 前半は、『ブラス・クーバス』と実質同じで、回想録の語り手が死者ではなく生者であるぶん一応地に足がついている程度の違いしかないかと思っていたが、後半というか終盤で一気に物語が収束し、文体はほとんど変わらないままに、静かにすごいことを成し遂げている。

けっきょく、カピトゥとエスコバールは本当に不倫をしていて、エゼキエルはふたりの子供であったのか、それともすべては語り手ベンチーニョ(ドン・カズムッホ)の文字通り偏執的な嫉妬の誇大妄想なのか、という真相がぎりぎり宙吊りにされているってことでいいんだよね? ベンチーニョは完全にエゼキエルにエスコバールを写し見ているけれど、それがイコールで真実であるとは限らず、むしろ本作の語り手の信頼できなさを急激に上昇させていく効果を持っていると読んだ。はじめから信頼できなさを全面に押し出している『ブラス・クーバス』とはこの点も対照的である。どちらも不倫を扱っているのに、おもしろい。

 

ほんとうにすごい小説だと思うけれど、いまのわたしにはそのすごさを十全に語ることなど到底できない。物語の完成度や人生・人間に対する洞察の深さなどもさることながら、やっぱり文章がずっとすごいんだよな。とんでもねえ。

 


「訳者解説」読んだ

1900年に出版され、1960年にアメリカの女性研究者ヘレン・コードウェルに指摘されるまで、カピトゥの不倫が疑われることはほぼ無かったとかいう衝撃の事実。世界中の読者よ、60年間もなにしてたんだ……。(むろん、今日の最新研究に基づいて、武田さんが翻訳したものを自分は読んでいるのだから、その翻訳によって、上記のような「宙吊り」解釈にすぐ辿り着けた、というのは忘れてはならない。)

「記憶」を主題として本作を読み解いている。やっぱとんでもない傑作だよな~~という思いを新たにする。ベンチーニョはカピトゥの不義を告発するためにこの回想録を書いているわけではない。それはそう。

シェイクスピア『オセロー』読むか・・・。

マシャードは文学教養のあるポルトガル出身の妻と仲睦まじかったそうだけど、子供はいたのかが気になる。

やっぱり、マシャードは2作品とも、出生主義/反出生主義 というテーマはめちゃくちゃ重要だと思うんだよなぁ。本作でいえば、最終的に自分の子ではないと思い込むようになったエゼキエルの存在じたいが不確かで複雑な意味合いを帯びていくのだし、子供を欲しがっていた~育児中のベタな出生主義が事後的に攪乱されていることは明らかだ。究極的には「自分」にしか興味のない語り手が、自分自身の複製・分身として「創造」したはずの息子が、じつは他人(親友)の子であるという疑念・不安は、そのまま自分という存在の不安へと跳ね返ってくるだろう。

 

 

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『ブラス・クーバスの死後の回想』マシャード・ジ・アシス(1880)

 

 

2021/6/10~~2022/6/17

 

 

1章まで(p.16)

やばい、これめっちゃ好み

そもそも死後の回想という時点で人を喰っているが、「読者へ」の序文や巻頭の言辞からして好みだし、文章がいちいち面白い。全文に線引きたいレベル

死人による人を喰ったような語りといえばアイラ『わたしの物語』だが、こっちは冒頭いやタイトルから死人であることを公開している。

人を喰ったような作品が好きというか、自分を喰ってほしい、小説に喰われたいんだよな。

ちっぽけな自分さえも口に入れられない、それどころか自分が簡単に咀嚼できてしまうような作品は読む価値がない。お願いだからわたしを喰いつくしてくれ。

 

全160章ってめちゃくちゃ細かく章分けされてるのな。読みやすくて良い。アレナス『めくるめく世界』みを少し感じる

チュツオーラ『やし酒のみ』の系列でもあるが、あれより更にこっちのほうが好みだなぁ
あと、わたしは『トリストラム・シャンディ』を早く読んだほうがいいと思い知らされる


6/11
6章
死の床に立っていた美しい愛人の名はヴィルジリア
20年前に大恋愛をしていたが現在は冷めていた。(『コレ愛』とは真逆)
彼女の一人息子ニョニョ

《生きるのよ、それ以外の苦は、要らないわ》 p.41


19章まで読んでいったん返却

 

 

2022年

ふたたび最初から読み始める

 

22/6/9(木)
通勤時に読み始めた。

文章がずっとやばい。常にふざけているんだけど普通にめっちゃうまい。「精神錯乱」の章も、前回さいしょに読んだ時はちょっとダレたけど、今読むとすげぇ良いわ。とくに「自然」の化身?の巨大女の言葉がいい。

じぶんの好みの極地って気がする。もうこれが世界文学の頂点でいいんじゃないすかね??

 


6/17(金) 00:27

おわり!!!!! ほぼ一週間で読んだことになる。

まさかの反出生終わりで草 そこまで僕にすり寄ってこなくていいのに……

最初のほうでさんざん喋っていたブラス・クーバス軟膏について結局全然話さないのも草

 

話をまとめると(なんとナンセンス!)、中心はヴィルジリアとの不倫があって、他にも数名の印象的なヒロインとの出会いがあった。また、老いや挫折や知人の死が色濃い小説でもあった。最初に母親が亡くなったときにブラスが鬱になるところとか特に好きかも。

 

同級生の哲学者キンカス・ボルバが後半ではかなり存在感あった。あと彼の思想ウマニタス。あんま分かってないけど、ようは人間万事塞翁が馬というか、現状肯定のかなり保守的で危なっかしい思想だと理解している。もしこれを本気で主張する小説だったら引くけど、もちろんこの小説では「死後の回想」という語り手の設定によって何もかもがバカバカしさを帯びている。ウマニタスだけじゃなくて、ブラス自身もかなりどうしようもない人物で、酷い差別描写やら何やらがたくさんあったのだけれど、やっぱり全編を通じてふざけているので、そこの相対化はできているというか、安心する距離感を持って読んでいられた。

 

じぶんは結局、こういう「人を喰ったような」小説が好みなんだなぁと思った。喰われたい。

 

ところどころ、ソローキンの短編「」みたいに「・・・・・・・・」だけで構成される章もあるけど、なにがすごいって、そういう章が全然浮いていないことだ。むしろまだちゃんとしてるというか異様さは控えめなほうで、文章のなかでひたすらに読者をたぶらかし続けるのが好き過ぎる。

 

既読のなかではセサル・アイラ『わたしの物語』がかなり近い。あれも、最初に「これはわたしがいかにして修道女になったのか、それまでの話です」と始まって、結局修道女のしゅの字も出ないままに殺されて終わる。死者の語り。(しかも女性ですら無いっぽい)

文学史的には、スターン『トリストラム・シャンディ』(1767)の流れを汲む作品なのだろう。この滑稽風刺文学史をさらにさかのぼったところにある、エラスムス『痴愚神礼賛』(1511)はまさに本書の149章で引用言及されている。

てか、『キンカス・ボルバ』ってアシスの三大長編のひとつなんでしょ? それは気になるわ。でもまず『ドン・カズムッホ』を積んでるのでそっちからだな。てか邦訳なさそうだし。

 

 

 

 

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『ディフェンス』ウラジーミル・ナボコフ(1930)

 

ナボコフの第3長編(ロシア語時代)

 

2022/7/30〜9/28水

 

7/30

ずっと前からナボコフの著作のなかで特に読みたいと思っていた本作がこのたび文庫化されたので即購入し、『夕暮れに夜明けの歌を』でロシア文学の機運が高まっているのもあり、読み始めた。

 

第1章

文章が装飾的で流麗で、これぞおブンガクって感じ。集中しないと振り落とされてしまうのでピンチョンの作品を読んでるときみたいな意識でいかないと。(というか、ピンチョンの数多くの文体模倣のモデルの一つがナボコフなのか?)

 

第2章

 

8/19 金
30-74
精密な描写や神童の物語という点でミルハウザーエドウィン・マルハウス』みたい。河出文庫だし。

 

8/22 月
74-114

 

8/26 金
114-
女っ気がない物語だからそろそろヒロインが登場するのかなぁと思ったちょうどその直後に登場してうんざりした。ミソジニーがすごい……フィッツジェラルドくらいヤバい。あと、天才プロチェスプレイヤー中年男性ルージンの造形・描写もなんだかなぁ……わりとテンプレに思える。

 

9/28 水

ようやく読み終わった!!! 初めてナボコフの小説を読み切った感慨よりも、もうこの話に付き合わなくていいという開放感のほうがおおきい。

 

文章がうまいのは否定しようがない。単に修辞的で技巧的なだけでなく、「流麗」とでも言おうか、ページの端から端まで一息で読ませる力がある。

 

特に好きだったのは第9章と第12章。

9章では、酔った男ふたりが道端で気絶しているルージンを拾ってタクシーで家まで送り届けたあと、ルージン宅から出られなくなってさまよう描写が特に面白い。
12章では、妻の父親の職場から譲ってもらったタイプライターで「とっと」と打つのにハマるくだりが諏訪哲史アサッテの人』みたいで好き。

 

しかし、作品全体としては全然好みじゃなかった。かなりキツかった。

トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』のような、抽象的で崇高な芸術vs現実的で凡庸な人生、という対比を主題とした芸術家小説。

天才チェス・プレイヤーの男(ルージン)に対して、「世俗」の象徴として女性(妻)を配置する時点でうんざりする。もうそういうのやめませんか……(100年近く前の小説にたいして何いってんだこの人!?)

妻に限らず、文章のすべてに強いミソジニーが浸透していて(序盤、幼少期のフランス人家庭教師の描写とか一周回って感動しちゃうくらい!)、それがいちばんのキツさの正体だと思う。

特権階級(芸術家)の中年男性の自己陶酔に満ちた「孤独」と「狂気」の話なんてもうウンザリだ! こういうのが「文学」として持て囃されてきた歴史の最後尾にいま自分が立っているという事実にちゃんと向き合わなければならない(とかいうけど、具体的には、どうやって?)

※しかし、この名前さえ与えられなかった「ルージン夫人」をたんに世俗の象徴と読むのも貧しい気はしている。彼女はなぜルージンと一生を遂げようと思ったのか。ルージンよりもむしろ彼女のほうが「特別」で「狂っている」のでは、ともすこし思う。(とはいえ「狂った妖しい女」というのもまた別の形骸的な象徴ではある……)

 

散りばめられたチェスの暗喩としての小説描写も基本的にはしょうもないと思った。床に映った窓枠の影が格子状で……とか、そういうのいいっす。モチーフ/記号の反復が作中人物によって「自覚」されるほどに強調されるのも好みではない。

深遠な意味をもって迫ってくる記号に主人公が囲まれて発狂する話──といえば『競売ナンバー49の叫び』も思い出す。

 

訳者解説で、ラストシーンは自殺ではなく、ルージンがこの小説からナボコフのいる現実世界へと「脱出」を果たしたのだという読みが語られていて、ちょっと面白いな、と思ったが、しかしどうだろう。仮にそう読むとして、それはルージンにとっての救いどころか、単純な作中世界での自殺よりももっと遥かに残酷な結末ではないだろうか。なにせ、本小説の作者ナボコフは(こんな長編を書いてしまうほどに)チェスが大好きで、この現実世界でも「ルージン」はチェスの天才として設定されていて、なにより、「作者=運命にあらがって主人公が小説から脱出する」という結末さえも作者によって緻密に構成された「一手」に過ぎないのだから。まさに神の手のひらの上。あの世界で以上に、ルージンはこの現実世界では生きていけないだろう。いずれにせよ彼は破滅するしかない。

 

 

 

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